か ら け ん


ずっと走り続けてきました。一休みしてまわりを見ます。
そしてまた走ります。

泣くぐらいなら判決出すな、裁判官辞めろ。

2013年10月11日 | 法律

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法曹(弁護士、検事)は本能的に自己主張が通ったことを勝利と考える。公判を見ていて思うのだが、その勝利ためにもともと頭のいい奴らが使う罠、誘導、だましは常人のそれを超えた域にあり、重大事件はとくに面白い。だが勝たんとしてのみ、そんな低次元のことをやるのではない。

公判の結果が今後の類似事件の判例になるかと思うと、いわば日本の判断を形成する作業をしているのである。負けられない。

少年やコソ泥、カード詐欺といった微罪の類は、弁護弁論も論告求刑も力がない。頭もあげず聞き取れない声で早口でとにかく公判を早く終わらせようと必死だ。

あたりまえだ。そこらのクズがバイクを窃盗しようがしまいが大勢に影響はない。戦争になったら真っ先に戦死してもらうありがたい日本の邪魔達だ。

では、裁判所は何をしているか。その存在理由は何か。

法は解釈によって命を得る。つまり判例だ。条文が問題なく実行されるとき、司法権の出る幕はない。そこに解釈の違いが生じ公判が開かれる。つまり、公判を通じて一段と精密な国家意思の形成を行っている。

しかも、公判というその国家意思の形成過程の膨大な蓄積が、判例として蓄えられてきた。

日本国は、それらが一挙に水泡に帰すかもしれぬ制度を作った。裁判員制度。暴挙だ。判決を多数決で決めようというのが、暴挙でなくして何か。正義は数で決まるのではない。ましてや「くじ」で選んだ日本人の教養がいかほどか。裁判員は一生懸命やった。泣きながら帰る人もいる。秘密を守るストレスは相当なものだ。病気になった人もいる。・・・いくらでも書ける。

だからなんだ。赤信号をみんなで渡っているにすぎない。世論に流され無責任に評決が揺れる。

僕は泣きだすような人から死刑にされたくない。人を裁くということは、そのことにとどまらず国家権力の方向を定めているという、もっと大きい作業をしているのだ。自覚と能力と教養と常識と法学知識がないものに人を死刑にさせるな。

裁判官ですら泣き出す人がいた。失礼じゃないかと、僕がこの泣き虫裁判官に叫んだ。即座に僕に退廷を命じなければならない。何も起こらなかった。プロですらこのザマだ。

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千葉県松戸市で2009年、千葉大4年だった荻野友花里さん(当時21)を殺害したなどとして、強盗殺人などの罪に問われた無職竪山(たてやま)辰美被告(52)の控訴審判決が8日、東京高裁であった。村瀬均裁判長は、一審・千葉地裁の裁判員裁判の死刑判決を破棄し、無期懲役を言い渡した。                朝日新聞10月8日(火)

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日本の低脳は、こんなに悪い奴は、さっさと死刑にしろとか、裁判すらする必要はない、とかヒステリーのままに動く。地裁判決で危うく証拠主義の原則が崩れ被疑者はあの世行きになったかもしれない。

こんな悪い奴、殺してしてしまえ。という世論の激昂を悪役になって抑えるのも、裁判所が負うべき宿命だ。

我々は「間違いを起こす」ということを肝に銘ずべきだ。飯塚事件を学べ。証拠主義の意義を学べ。世の中が見たままなら学問は要らない。猿のままがいい人には学問は要らない。

裁判すらまともに行わない人権途上国日本。


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