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か ら け ん


ずっと走り続けてきました。一休みしてまわりを見ます。
そしてまた走ります。

それでも知性に期待しよう。

2013年02月04日 | 国際・政治

国政選挙は数の戦いだが集団が小さくなるとその数も操作が可能となる。県議ごときになると実にでたらめがいる。さらにこのでたらめは己の無能に無頓着になり国政へと打って出る。

どんなでたらめかというと芸能人、スポーツ選手の類だ。これは県民の投票行動がくだらんせいだ。

選挙において、だれに投票するかの判断理由は何でもいい。さらには支持政党の支持理由もなんでもいい。ただし知性が働いている限りにおいてだ。ゴルフの選手の中にも高い政治的見識のある人がいる確率はゼロではない。

だけどゴルフを理由に立候補しちゃならんのだ。これは翻すと、投票しちゃいかんのだ。選挙と人気投票を混同している。

 

それでも投票に行く人はまだましの半分程度で残りのバカは行きもしない。

どうして芝生の穴にボールを打ち込むのがうまいのと政治が関係あるか。あほ。

イギリスの18世紀の政治学者はこう言った。「国民はその国民にふさわしい政府を選ぶ」

今、実にそれなりのふさわしい政府がある。

百年経とうとする普通選挙法は何の意味もなかった。その理由を僕は小さい組織へと逆行して分析したらどうなるか考えた。つまり、国、県がそうなら市議はどうだ。いや町内会はどうだ。「地方自治は民主主義の学校だ」というアメリカ人がいるが楽観すぎる。

町内会では理屈が通ったためしはない。

赤い羽根募金は天下りの役人たちがそのカネを吸いつくしているから止めましょうと言っても町民はボスの声に従う。回覧板はFAXか、どっかに掲示して済むことですと言っても変える能力がない。火の用心カチカチなんて子供が風邪をひくだけだからやめましょうと言っても去年もしたからと言って12月の夜中の寒風に子供をさらす。住民構成が20年前とは変わったのです。話し合いは9時をすぎないように能率的に進めましょうと言ってもモウロクジジイやババアが小田原評定を続ける。住民のほとんどであるサラリーマンは苦行の様にただ時の過ぎるのを待っている。

議論が全く成立しない。僕は自分の意見なんて通らなくてもどうでもいい。決定の前に知性のぶつかる議論がないと多数決はただの暴力になると言いたいのだ。

つまり「住民ファシズム」なのだ。昔からこうだったとか、声の大きいものがどう言うかで決まる。まるで日教組の組合会議だ。

そんな小田原評定でとんでもないことを決めた。欠席したら罰金を取るそうだ。各家庭の事情も知らないくせに、ただバカが赤信号をみんなで渡るため、顔をそろえようと気が狂ったようだ。これは江戸時代の五人組だ。もともと隣組制度自体戦前の内務省が住民相互監視組織として作った。

僕はこういった小さなファシズム暴力体制が積み上げられ、市、県、国と登って行く気がする。

候補者は言う。頑張ります、努力します、何でも言ってください。なんの意味もない言葉じゃないか。

Posted at 2012/12/11
 
 
 
 
 

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