か ら け ん


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ウソはしきりと絶叫する   16

2016年03月10日 | 韓国

水崎林太郎氏は韓国の農民たちのことを考え、灌漑施設を備えた寿城貯水池を作った人だ。われわれは、きわだった日本人の業績を韓日友好の象徴として後世にまで伝えなければならない。

大邱市の名所、寿城貯水池。昔の人には、ここで舟遊びをしたことが思い出されるところであり、現代の人にとっては、レクレーションあるいはスポーツその他の遊びを提供する、また違った意味でのありがたい場所だ。

寿城貯水池の向かい側に低い山への入り口がある。そこに大邱の人々ですらあまりよく知らない場所がある。ある日本人の墓である。

昔は、寿城貯水池を回り込んで見ることが出来たのだが、今は建物の一部にさえぎられて全体を見ることはできない。墓の主人公は、日本人の水崎林太郎。まさにこの人がこの池を作ったのだ。寿城貯水池と彼の墓は韓日友好の象徴でもある。

 

1914年、彼は日照りと洪水により荒廃した寿城の荒野を沃土にするために自身の私財と総督府からの支援により合わせて12000円(現在10億円相当)を寿城貯水池築造に投入した。水崎林太郎氏は、10余年の工事を経て現代的灌漑施設を具備した寿城貯水池を築造して大邱の農民達を大いに助けた。

工事の最中に池の築造に反対する人が投げた石が足にあたり、非常に苦しんだことも在ったという話が後日談のように伝えられている。そんな寿城貯水池は灌漑施設としての機能を果たしたのはもちろん、現在までも大邱の人々たちには思い出とロマンを伝えている。

 

水崎林太郎氏は1939年、この世を去った。生前、彼の遺言にしたがって寿城貯水池を見下ろす現在の場所に埋葬された。彼の墓は農民達が見守っていてくれたが、年月とともに墓は流され墓碑のみが残る状態であった。忘れてしまわれそうになったということだ。

このような事実を知ったソチャンギョ(徐彰·78)韓日親善交流会会長がかれの墓地を探し当て修理を始めた。また、顕彰碑も設立し現在の姿になったのである。その後、韓日親善交流会が水崎氏の墓を管理し毎年彼が没した日にあわせ、追悼式も行っている。この追悼式は日本にまで知れることとなり、多くはないが日本人たちも来たりしている。今年は水崎氏が没後70周年を迎える年だ。

韓日親善交流会では彼の忌日である4月13日、墓地で70周期追悼式を行った。この碑行事には日本側からタミスチシュウイチ(ママ)釜山駐在総領事、サガヤマユウジ(ママ)故 水崎林太郎顕彰会会長など日本人25名をはじめ韓日親善交流会会員、韓日多文化研究会会員等60余名が参加して水崎林太郎氏の功績をたたえた。韓日親善交流会側は今後近隣寿成韓江ホテルから墓に続く直線コースを作り、墓の周辺に植えられているイタリアポプラの変わりにサクラを植えるなど、墓を美しく整地することにも力を注ぐ計画だ。

ソチャンギョ(徐彰·78)韓日親善交流会会長は、「水崎林太郎氏は、心から韓国の農民達のためを思い灌漑施設を備えた寿城貯水池を築造した人だった。」といい「われわれは、思い出される日本人の業績を韓日友好の象徴として後世まで伝えなければならない。」と述べた。ソ会長は自身と夫人が死んだら火葬して遺骨を水崎氏のとなりに撒いてくれと遺言を残すほどだ。こういう人が何人もいたという。

                             ソウル新聞2011-01-31面                (からけん 訳)

 

 

次回用メモ  11ページから

 


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