か ら け ん


ずっと走り続けてきました。一休みしてまわりを見ます。
そしてまた走ります。

人の悪口ばかり言ってだと。頭悪いのもいい加減にしてね。皇子山中いじめ殺人事件。最終編。

2013年01月08日 | 受験・学校

脅し、ねたみ、ひがみの類をずいぶんいただいた。今後、そのたぐいは土曜日にまとめてほしい。

ところで、自分はその中学の関係者でもないのに口だけ出すのはおかしいという意見もいただいた。

これは日本人の低脳がよく納得してしまうドグマの一つだ。たしかに、物事はやってみなきゃあわからない。外野にいてああだこうだというな。という言い方が的を射ている場合がある。

僕は反論したい。今回の場合は、外野から口だけ出すなというのは少なくとも的外れだ。やって初めて(関係者になって)分かるのはバカだ。

我々がより多くの情報を求める行為を本能的にとるのはなぜか。それは、その情報の真偽の判断、分析、法則化、それによる新たな情報の取得により現場にいなくとも真の値に近づくことができることを知っているからだ。

こうして共有された情報は個々人相互に議論を生む。行政が、指示や、通達や、規則や、命令や、前例だけにとらわれているとしたら、われらは選挙する意味を失う。そういう機械人間ばかりならキャリアを選ぶ必要はない。世論を的確に迅速につかむべくキャリアたちは徹夜の努力をしている。

ネットや新聞やその他のメディアとの間に相互流通する世論があってこそ政策は決まっていく。つまり、いかに権力の最末端たるやる気のない無自覚な田舎行政であろうとも、「世論」というものが文科省エリート官僚を通じて県教委市教委校長へと伝達される。その伝達は金科玉条となる。

つまり「上」からの圧力には平身低頭な市教委はもみ消しをためらった。金科玉条のトップダウン方式は弊害もある。しかし、この場合は少なくとも世論が悪だくみにブレーキをかけたと言える。

田舎の中学の人殺し事件に矮小化してはならぬのだ。それはまさに第三者こそが沈黙しないことによって可能になった。

我らは「明日は我が身」という自覚を持つべきだ。だからこそ我らは世論を形成し、あるいはときとして相互に戦わせ、ひいては立法府における少年法のあり方にまで議論は及んだ。

関係者でもないくせに知りもしないでつべこべ言うな。という田舎くさい暴論は明治維新以後は聞いたことがない。

この暴論によっては県警が介入したことに関する説明はつかない。ただの田舎の人殺しとしてしか自覚がないから関係者以外は黙れとか言うんだ。

ことの本質はこうだ。「拷問によって殺された人間をだれも救おうとしなかったこと。」「今だにことあらば隠そうにかかっていること。」

この事態に対して第三者だから黙れというのは、死者に対しどんなむごい仕打ちをしていると思っているのか。

Posted at 2012/07/13

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