か ら け ん


ずっと走り続けてきました。一休みしてまわりを見ます。
そしてまた走ります。

八千代座

2015年08月16日 | 旅行

八千代座は、明治43年に建築の江戸時代の伝統的な芝居小屋の様式を今に伝える芝居小屋です。山鹿の商工会が劇場組合を作り、1株30円の株を募って建てたものです。八千代座を設計し、工事監督をしたのは、回船問屋の主人で灯籠師でもあった木村亀太郎です。建築には素人でしたが、研究熱心で東京の歌舞伎座や各地を見学、さらには上海に渡り洋式工法の長所も取り入れました。     < 八千代座ガイドブックより引用

 

ところが、TVの普及とともに経営は破綻した。(1980年)  再建の機運が高まったとき僕はボランティアとして参加した。

棟梁はやさしかったが、しだいに大事な仕事は回ってこなくなり土壁用の泥をこねることしかさせてもらえなくなった。自分ではそんなに気がきかないほうではないと思っていたが、プロの中に入るとただのお邪魔虫だった。

素人はプロというものを単に「上手な人」ぐらいに考えている。とんでもなかった。下手な大工は生きていけない。つまり大工としては死ぬしかない。その事の成否に己の存在をかける人達がプロなのだ。

僕は言われた。「お前だって100点取ることがあるだろう。しかし、俺たちは一回でも70点を取ればおしまいなのだ。100点をとる必要はないが常に80点以上をとらねばならない。」

僕は邪魔にしかならなかった。八千代座が再建された。(2001年)   寡黙な大工左官の手さばきは、まさに神だった。

本物はひけらかすことなくやさしく言葉に重みがある。

その八千代座がなつかしくなり熊本山鹿に行った。興行のないときじっくり見学するのはどうだろう。奈落は人力で動かしていた。入り口右側の壁の土は、からけんがこねて運んだ壁土だ。塗ってないのであまり意味がない。プロは一回塗るだけでコテの跡をまったく残さなかった。

明治に出来た八千代座は、驚くことに分煙されていた。上の写真、2階の張り出した小部屋にはSmoking roomとあった。

ま、せっかく来たのだから山鹿の料理屋に入り食事した。とくに店の名を書くほどのことではなかったが、ありきたりの材料の料理だったのに不思議に珍しい味がした。

内縁の妹は、桜温泉にも入らず料理を見ても何か不満そうだった。よいよい。若ければ許される。

しかし、いつまでも許されるものではない。

  

久しぶりに山鹿と言う街に来てプロについて考えた。山海の珍味を集めれば誰でもうまいモノが作れる。プロは人参やジャガイモやサトイモや・・・で見事なご馳走を作った。料理のレベルも金額も高かったが、人それぞれに何かのプロであると実感した。

 

八千代座 - Wikipedia

 

 

使い古した姫フォーク(ショートケーキ用カトラリー)まで素敵だ。八千代座は、たかが芝居小屋だが西日本随一の規模だった。それを一地方都市が維持できていた。つまりゆたかであったわけだ。飯塚、日田、大牟田、山鹿、武雄・・・昔日の繁栄を偲んでケーキシリーズを書こうかな。

 

 

 

 

 

 


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