《河童》の旅メモ

富雄川流域探索

登り石垣の機能

2017年04月20日 | Weblog

「登り石垣」がどのようなものなのかを見るために、洲本城を再度訪れた。
登り石垣(竪石垣)は、秀吉の朝鮮出兵の際、
日本遠征軍の倭城築城で採られた防備手法と言われている。
朝鮮半島から帰った脇坂、加藤、吉川らが江戸時代初期にかけ山城等に築いた。
洲本城跡、彦根城、松山城、竹田城跡などで4か所で確認されていたが、
2017年に米子城跡でもおよそ高さ3㍍、長さ40㍍の登り石垣が確認された。
山の斜面を登り攻め込んできた敵兵は正面の石垣に阻まれ左右に展開しても
「登り石垣」に阻まれ広く散開することができない。
(画像はネットより拝借して修正、加筆)


淡路島って

2017年04月19日 | Weblog

おのころ島探索を終え、地ビール「あわじびーる」を飲みながら淡路島を今一度考えてみた。
「淡路島はなぜ徳島県ではなく兵庫県なのか」それについては≪河童≫の覗いたファインダー№242にあるが、
洲本城には「登り石垣」があるとの情報を考古学の師匠から頂いた。
松山城と彦根城と淡路城跡の三か所にしか残っていないとのこと。「現場に立つことが基本」。
で、再度淡路島・洲本城跡へ向かった。


おのころ島探索「淡路国分寺」

2017年04月13日 | Weblog

国分寺は聖武天皇が天平九(737)年に、国ごとに釈迦三尊像の造立と大般若経一部の写経とを命ぜられた後、
天平13(741)年に国ごとの僧寺建立の詔によって建てられた。
各国に七重塔を建て正式名称は、国分僧寺が「金光明四天王護国之寺(こんこうみょうしてんのうごこくのてら)」、
国分尼寺が「法華滅罪之寺(ほっけめつざいのてら)」。
奈良・東大寺、法華寺は全国の総国分寺、総国分尼寺の総本山と位置づけられた。


おのころ島探索「おのころ島は古代瓦の産地だった」

2017年04月12日 | Weblog

淡路文化史料館で、上区珠文、内区に変形偏行忍唐唐草紋の平瓦が展示されていた。
「藤原宮6646Eと同笵と見られている淡路産の瓦。
これに組み合う丸瓦は軒丸瓦の6274Bと推定されている」とある。
1200年余り前の藤原京と興福寺瓦等はここ淡路島では三か所で展示されている。
おのころ島と奈良を結ぶ古代瓦。