《河童》の旅メモ

富雄川流域探索

登り石垣について

2017年04月23日 | Weblog

天正13(1585)年、脇坂安治が石垣を大改修した際、登り石垣を設けている。
洲本市立資料館から急坂を上るとこと約10分、木立の中に高さ2㍍余りの「西の登り石垣」がある。
仙石久秀や脇坂安治によって築かれた、全国的にも希少な天正期や文禄・慶長初期の石垣。
この時期の築城として、米子城跡は吉川広家が朝鮮に出兵し、
天正19(1591)年に帰国しておりその後に築いたとおもわれる。
2017年4月の産経ニュースによると、長さ約40㍍、高さは3㍍以上。長さは約100㍍以上だった可能性があるという。
瓦が出土していることから、石垣の上に塀なども立っていたらしい。
また松山城は慶長7(1602)年から加藤嘉明が築城を開始した際、国内最大級の登り石垣を築いたとされている。
また彦根城は慶長8(1603)年に登り石垣の上にさらに瓦塀が築かれていたようで、
櫓や門・堀などとも巧妙に連結して「登り石垣」も軍事的防衛施設として進化している。