水曜日はあやとふみこと飲みに行った。
皆のタイミングが合い、急遽決まった。
今回は、北新地の「マツケン食堂」さんへお邪魔。
こちらは気軽なワインバルで、北新地のわりに安くておいしいとか。
まずはやっぱりバルの定番「前菜盛り合わせ」。
どれも丁寧に作ってあっておいしい。
こじんまりとしたお店だが、すぐにいっぱいになり、にぎやかだ。
アラフォー女性が多い。
お金を落としているのは、60歳以上とアラフォー女子なのではないかと思う、今日この頃。
3人で集まったのは本当に久しぶりで、話すことは山ほどあった。
実はこの日、集まる前に私はクリニックで再検診を受けていた。
この間、町の婦人科検診で病気が2つも見つかって心配していたのだが、なんと、再検診ではどちらも「ない」とのこと。
「ない」って何なのかと思うが、ないのだから仕方がない。
というか、ありがたい結果ではあった。
しかし、あんなに人をびびらせておいて、「ない」ってどういうことよ?
そのうえ、オプションでエコーをしてもらったので、4200円もかかっているのである。
その結果が誤診?
まあ、「悪いよりはよかった」ということで気持ちを落ち着かせたのだが。
ただ、「ない」で終わればよかったのだけど、別に調べたほうがいいことがあり、血液検査を行った。
1週間後に結果は出る。
いろんなことを受け止めないといけない年齢なんだなぁと、つくづく思った。
二人にはそんな話を聞いてもらっていた。
ワインのボトルを開けて、お料理もいろいろ頼んだ。
店内が暗いので、写真がボケているが、シマアジのカルパッチョ。
丸ごと玉ネギのローストと魚介のグラタン
仔羊のカツレツ
どれもおいしかったし、ワインが進んだ。
話題はこんなこと。
私は、自分がわけもわからず攻撃されたとき、なんだか悲しくなってしまう。
つい先日、そんなことがあった。
私はその人のことを信頼していたし、できれば仲良くしたいと思い、とても気を遣って接してきたつもりなのだけど、ある日、何の前触れもなく無視されるようになり、今度は嫌な言葉で攻撃されるようになった。
人間というのはこんなにも豹変できるのかと不思議になるほどの変わりようで、それを受け止めることすらできずにいた。
明らかにその人はおかしいのだ。
それは自分でもよくわかっている。自分を正当化しなくても、おかしい。
だけど、私が攻撃を受けて、まず浮かんだ感情は「怒り」ではなかった。「悲しみ」だった。
そして、私の真面目さが1つ1つを分析してしまう。なぜそうなったのか。
そこからどんどん発展して、「私」という人間に疑いを持ち始める。
無抵抗で、気遣いをして、仕事もきちんとこなして、相手にも好意をもって接して、それなのにこんなことをされるなんて、やはり「私」という人間はどこか欠落しているのではないのかと。
私自身が気づかないだけで、本当に責められるべき人間なのではないかと。
そう思ったら、向上心があるだけに悲しくなってしまうのだ。少しでも自分はよくなりたい、人に優しくしたい、人とうまくやりたい、傷つけたくない、喜んでもらいたい・・・そんな気持ちで接しているのに、拒否されるなんて、やっぱり人間としておかしいのは私なんじゃないかと。
そう思ったらとにかく辛くて悲しくて、さめざめと泣いていたわけだ。
その流れを話したら、ふみこもあやも、何の迷いもなくこう言った。
「その人がおかしい人やねんて!」
その即答が、あまりにも即答で、「あ、そうなの・・・?」という感じに私もなってしまった。
「は~・・・、なんか、もう、かおりちゃんは生きていくのが大変やなぁ」
「は~・・・何を泣いてるのかと思えば、そんなこと!明らかにその人がおかしいやん」
「相手がおかしい、相手が変な人なんやからしょうがないわ、って思うことも必要やで。これはテクニックやねん。自分を守るための。そういうことも必要なんやって!」
などなど、二人からズバズバといろんな意見を言ってもらって、なんだか自分が恥ずかしくなってしまった。
ありがたいことである。
「そうなんや・・・かわいそうに」と慰められたり(別にそれは望んでいないが)、同情してもらったりするよりもスッキリした。
他人からすれば、私が泣くほど辛いことも「なんでもないこと」なのである。いや、なんでもないというか、「考え方一つでなんでもないことにできる」のである。
その方法を私は学ばなくてはならない。それこそ「テクニック」なんだろう、自分を守るための。
でも、その後、もう少し発展させて話していたら、人それぞれの「テクニック」?があるのだなということもわかってきた。
全く違うように見えて、実はゴールは同じなのだ。
私も別に自分を不幸にしたくはないし、泣きたくもない。ゴールは「ふっきること」だ。
そのふっきるまでの経路が違うのだ。
明らかに相手がおかしいのだから、「あー、変な人もいるもんやなぁ」と思ってしまえば、簡単にそれでふっきれる。
私はそれができない。回り道かもしれないけど、とりあえず自分の悪いところを探して、自分を苦しめて、落ちるところまで落ちてようやく這い上がれる。
結局、今はふっきれているのだから、こういうやり方もありなのかもしれない。
「かおりちゃんは、そうしかできないのでは?」とあやが言ったが、そうなのだ、たぶん。
だから、まあ、人それぞれのやり方があるから、それはそれでいいのじゃないの?ということで落ち着いた。
もし私が今、まだ話しながら泣いて、落ち込んでいて、「どうしたらいいの~?助けて~!」みたいなのだったら困りものだけど、結局この日はもう自分なりの答えは出ていて気持ちも落ち着いていたので、「この間、こういうことがあって泣いててさ・・・」という報告でしかなかったのだから。
しかし、落ち着いていたものの、「なんか、大変やなぁ」「真面目やなぁ」とは言われた。
這い上がるまでの過程が長いし大変だし、何より自分を責めないといけないし。
でも、やっぱりこうしか今のところは方法が見つからないのだ。
もっとスマートにできるようになればいいのだけど。
人と付き合うより、自分自身と付き合うほうが難しいと思う、今日この頃・・・
そしていつも思うのだけど、「3人」というのはいい。
2人だと極端な話、対立が生まれてしまうが、3人だとそれがない。もともと別に対立したくて話しているわけでもないのだから、民主主義的に多数決というか、2対1に意見が分かれると、自然と「2」を受け入れられる。
それがもちろん信頼している友達だからなのだとは思うが、自分が「1」になっても「やられた」感がないのだ。
ああ、そういうものか・・・と、本当に自然に受け入れることができる。だから、スッキリする。「答え」がすぐに見つかる感じがする。
これが2人だと、「あの人はああ言ったけど、どうなんだろう?」と反抗心が生まれる場合もあるのだが。
あやとふみこと3人でいると、そのバランスみたいなのがいいように思う。
だから話すのが楽しいし、話題が尽きないのだろうな。
皆のタイミングが合い、急遽決まった。
今回は、北新地の「マツケン食堂」さんへお邪魔。
こちらは気軽なワインバルで、北新地のわりに安くておいしいとか。
まずはやっぱりバルの定番「前菜盛り合わせ」。
どれも丁寧に作ってあっておいしい。
こじんまりとしたお店だが、すぐにいっぱいになり、にぎやかだ。
アラフォー女性が多い。
お金を落としているのは、60歳以上とアラフォー女子なのではないかと思う、今日この頃。
3人で集まったのは本当に久しぶりで、話すことは山ほどあった。
実はこの日、集まる前に私はクリニックで再検診を受けていた。
この間、町の婦人科検診で病気が2つも見つかって心配していたのだが、なんと、再検診ではどちらも「ない」とのこと。
「ない」って何なのかと思うが、ないのだから仕方がない。
というか、ありがたい結果ではあった。
しかし、あんなに人をびびらせておいて、「ない」ってどういうことよ?
そのうえ、オプションでエコーをしてもらったので、4200円もかかっているのである。
その結果が誤診?
まあ、「悪いよりはよかった」ということで気持ちを落ち着かせたのだが。
ただ、「ない」で終わればよかったのだけど、別に調べたほうがいいことがあり、血液検査を行った。
1週間後に結果は出る。
いろんなことを受け止めないといけない年齢なんだなぁと、つくづく思った。
二人にはそんな話を聞いてもらっていた。
ワインのボトルを開けて、お料理もいろいろ頼んだ。
店内が暗いので、写真がボケているが、シマアジのカルパッチョ。
丸ごと玉ネギのローストと魚介のグラタン
仔羊のカツレツ
どれもおいしかったし、ワインが進んだ。
話題はこんなこと。
私は、自分がわけもわからず攻撃されたとき、なんだか悲しくなってしまう。
つい先日、そんなことがあった。
私はその人のことを信頼していたし、できれば仲良くしたいと思い、とても気を遣って接してきたつもりなのだけど、ある日、何の前触れもなく無視されるようになり、今度は嫌な言葉で攻撃されるようになった。
人間というのはこんなにも豹変できるのかと不思議になるほどの変わりようで、それを受け止めることすらできずにいた。
明らかにその人はおかしいのだ。
それは自分でもよくわかっている。自分を正当化しなくても、おかしい。
だけど、私が攻撃を受けて、まず浮かんだ感情は「怒り」ではなかった。「悲しみ」だった。
そして、私の真面目さが1つ1つを分析してしまう。なぜそうなったのか。
そこからどんどん発展して、「私」という人間に疑いを持ち始める。
無抵抗で、気遣いをして、仕事もきちんとこなして、相手にも好意をもって接して、それなのにこんなことをされるなんて、やはり「私」という人間はどこか欠落しているのではないのかと。
私自身が気づかないだけで、本当に責められるべき人間なのではないかと。
そう思ったら、向上心があるだけに悲しくなってしまうのだ。少しでも自分はよくなりたい、人に優しくしたい、人とうまくやりたい、傷つけたくない、喜んでもらいたい・・・そんな気持ちで接しているのに、拒否されるなんて、やっぱり人間としておかしいのは私なんじゃないかと。
そう思ったらとにかく辛くて悲しくて、さめざめと泣いていたわけだ。
その流れを話したら、ふみこもあやも、何の迷いもなくこう言った。
「その人がおかしい人やねんて!」
その即答が、あまりにも即答で、「あ、そうなの・・・?」という感じに私もなってしまった。
「は~・・・、なんか、もう、かおりちゃんは生きていくのが大変やなぁ」
「は~・・・何を泣いてるのかと思えば、そんなこと!明らかにその人がおかしいやん」
「相手がおかしい、相手が変な人なんやからしょうがないわ、って思うことも必要やで。これはテクニックやねん。自分を守るための。そういうことも必要なんやって!」
などなど、二人からズバズバといろんな意見を言ってもらって、なんだか自分が恥ずかしくなってしまった。
ありがたいことである。
「そうなんや・・・かわいそうに」と慰められたり(別にそれは望んでいないが)、同情してもらったりするよりもスッキリした。
他人からすれば、私が泣くほど辛いことも「なんでもないこと」なのである。いや、なんでもないというか、「考え方一つでなんでもないことにできる」のである。
その方法を私は学ばなくてはならない。それこそ「テクニック」なんだろう、自分を守るための。
でも、その後、もう少し発展させて話していたら、人それぞれの「テクニック」?があるのだなということもわかってきた。
全く違うように見えて、実はゴールは同じなのだ。
私も別に自分を不幸にしたくはないし、泣きたくもない。ゴールは「ふっきること」だ。
そのふっきるまでの経路が違うのだ。
明らかに相手がおかしいのだから、「あー、変な人もいるもんやなぁ」と思ってしまえば、簡単にそれでふっきれる。
私はそれができない。回り道かもしれないけど、とりあえず自分の悪いところを探して、自分を苦しめて、落ちるところまで落ちてようやく這い上がれる。
結局、今はふっきれているのだから、こういうやり方もありなのかもしれない。
「かおりちゃんは、そうしかできないのでは?」とあやが言ったが、そうなのだ、たぶん。
だから、まあ、人それぞれのやり方があるから、それはそれでいいのじゃないの?ということで落ち着いた。
もし私が今、まだ話しながら泣いて、落ち込んでいて、「どうしたらいいの~?助けて~!」みたいなのだったら困りものだけど、結局この日はもう自分なりの答えは出ていて気持ちも落ち着いていたので、「この間、こういうことがあって泣いててさ・・・」という報告でしかなかったのだから。
しかし、落ち着いていたものの、「なんか、大変やなぁ」「真面目やなぁ」とは言われた。
這い上がるまでの過程が長いし大変だし、何より自分を責めないといけないし。
でも、やっぱりこうしか今のところは方法が見つからないのだ。
もっとスマートにできるようになればいいのだけど。
人と付き合うより、自分自身と付き合うほうが難しいと思う、今日この頃・・・
そしていつも思うのだけど、「3人」というのはいい。
2人だと極端な話、対立が生まれてしまうが、3人だとそれがない。もともと別に対立したくて話しているわけでもないのだから、民主主義的に多数決というか、2対1に意見が分かれると、自然と「2」を受け入れられる。
それがもちろん信頼している友達だからなのだとは思うが、自分が「1」になっても「やられた」感がないのだ。
ああ、そういうものか・・・と、本当に自然に受け入れることができる。だから、スッキリする。「答え」がすぐに見つかる感じがする。
これが2人だと、「あの人はああ言ったけど、どうなんだろう?」と反抗心が生まれる場合もあるのだが。
あやとふみこと3人でいると、そのバランスみたいなのがいいように思う。
だから話すのが楽しいし、話題が尽きないのだろうな。