月と歩いた。

月の満ち欠けのように、毎日ぼちぼちと歩く私。
明日はもう少し、先へ。

なんでもないけど、尊い時間

2020-01-30 | 仕事
「この1杯のために生きている!」

どこかのビール会社のコピーみたいだけど、そう思う瞬間がある。
それは1日の仕事を終えた後、リラックスして飲む1杯だ。

昨日はさすがの私も疲れた。
一昨日、保育園の取材に2カ所行き、その疲れをまだ引きずったままで翌朝から別の保育園へ取材。
それも場所が西成区で、大阪に生まれ育って48年で初めて阪堺電車に乗った。

私は大阪人と言っても片足を京都に突っ込んでいるような土地に住んでいるので、大阪の南方面はほぼ行くことがない。
今回、クライアントに「阪堺電車の・・・」と駅名を告げられてもピンとこなかった。
堺出身の夫に尋ねてみると、「あー、路面電車やろ。チンチン電車」と言う。
乗り場もわからないし、乗り方も不安なものだから、しつこいほど調べてから行った。

検索してみると、意外にもちゃんとしたホームページ。(失礼しました!)
こちら→ 阪堺電車

環状線の新今宮駅で降り、表示通りに歩いていくとすぐに乗り場(ホーム)があった。改札はない。
しばらくすると一両だけのレトロな電車がやって来た。
調べてきた通り、PiTaPaが使えたので一安心。笑

車両はいろいろなタイプが走っているようだが、たまたま乗り込んだのは古いものだったようで、内装もレトロ。
ちょっと旅行気分で楽しかった。

無事にクライアントと合流して保育園の取材を終えたが、今度は京都の丸太町へ移動だ。
調べてみると30分ほど余裕があったので、高槻で降りて行きつけ(?)の洋食屋でハンバーグを食べた。
世の中のハンバーグで、この店のハンバーグが一番好きなのだ。(今月すでに2回目)
大満足で店を出て、丸太町へ。
システム開発の会社を取材し、社長と若手社員にインタビューした。

これで終わればいいのだが、今度は再び大阪へ。
梅田にある人材派遣会社のパンフレット用取材で、社長と社員5名、合計6名にインタビュー。本日トータル10名!
終了したのが20時前で、撮影はまだ続いていたが、「ライターさんはお先にどうぞ」とディレクターさんに言ってもらえたので、私だけ先に退出させてもらった。

朝8時過ぎに家を出てから12時間弱。
大阪→京都→大阪と移動距離も長く、取材対象も全く違う分野の3社だから頭の切り替えも難しいうえ、3社とも社長と話さなければならず、久しぶりに頭をフル回転させた。
体は不思議とそこまで疲れていなかったが、頭が休息を求めていた。もう何も考えたくないという感じ。

スマホを見ると夫からメッセージが入っており、自分もそろそろ会社を出られるから合流しようかと、素敵な誘いだった。
夫を待つ間、梅田のドトールでコーヒー休憩。瞑想に近い感じで何も考えず、ぼーっとしてみた。
コーヒー1杯の間に夫も到着したので、近くのチーズ料理の店に入り、ペールエールを注文した。

乾杯してひと口。
そこであのセリフだ。

「この1杯のために生きている!」

ああ、うまい。なんてうまいんだ。
仕事の後の1杯は最高!

1時間ちょっとだったが、夫とおしゃべりしながら夕食を食べられたのも嬉しかった。
「会えてよかったねー」と二人でニコニコ。(同じ家に帰るんだけどね)
飲みながら、今日の取材の話や夫の会社の人の話などをする。そんな、なんでもないけど尊い時間が私は好きだ。
いつの間にか疲労感はなくなって、幸せな気分だけを抱えて帰宅した。

少数精鋭!

2020-01-27 | 想い
あと2週間が仕事の追い込み。
いつもなら「頑張ろう!」と書くところだが、今年は目標を決めたのでそう書かない。

「頑張ろう」を「楽しもう」に変換する。

これが今年の目標だ。
「今日も仕事を楽しもう!」
「これから治療を楽しんできます」
そんなふうに言葉を変換するだけで、なんだか力が湧いてくるし、本当に楽しくなってくる。
もちろん、言葉を変えるだけで、実際はものすごく頑張るんだけど。
そして、人から「頑張って」と言われることは嬉しいし、力にもなるのだけど。

こういうプラスの言葉ってとても大切で、今のセカンドドクターはいつもそれを忘れがちな私に示してくれる。

土曜日もクリニックに行ってきたのだが、その時に水曜日の血液検査で好中球数が「464」しかなかったと、検査結果を見せながら話した。
私の言い方に不安がにじんでいたのだろう。
ドクターはいつものように優しく微笑んで、「信じるしかないですよね」と言った。
最初は何を信じるのかわからなかったが、続けてこう言った。
「少なくても(あなたの白血球は)頑張っているんだから。こんなのはただの『数字』でしょう」

その言葉で、パーっと目の前が開けたような気持ちになり、不安も吹き飛んだ。
(自分は単純な人間で本当によかった)
「そうですよね。数字ですよね。自然治癒力を信じます!」と私。

帰って夫に話したら、「いい先生やなぁ」としみじみ。私もしみじみ。
それ以来、私がちょっと不安を口にすると、夫が「少数精鋭やから!」と言ってくれる。
それで思い出す。私の中のわずかな白血球や血小板が頑張ってくれていることを。
数値は低くても、こいつらは少数精鋭で強いんだ!
だから、治療の途中なのに髪の毛も眉毛もまつ毛もフサフサ(?)になるという奇跡も起きた。
どこも痛くない、少しもしんどくない、健康な人の何倍も食べられるし、働ける。

明日は取材2件。
あさっては3件で、3件とも違うクライアントからの依頼だ。たまたまだけど、なんでみんな29日に詰め込みたがるのか・・・。
10時スタートで、大阪→京都→大阪と移動しながら3件まわり、終了は21時予定!
1日で10人くらいにインタビュー予定だ。
ハードだけど、しっかり楽しんでこよう!

できるだけたくさんの文章を書いていく。

2020-01-26 | 想い
今年は自分の「仕事向けのブログ」を再開することにした。
今、昔の記事を精査して、削除するものとそのまま掲載できるものとを分けている最中だ。

基本的にSNSで「発信すること」が好きではない自分は、Twitterもインスタもやっていないし、Facebookで1ヶ月に1回程度思い出して、その時ばかりはうれしがって、酒かキャンプか日本酒雑誌の話を書くのがやっとで。(たいてい酔っ払っていて、気持ちが乗っている)
しかし、そんなことをしても、全く「営業」にはなっていないのはわかっており、前々からここでも「営業のためにインスタでもやろうか」と書いてきたが、やっぱりハードルが高い。(面倒くさいだけなんだが・・・)

私が面倒がらず、やりたいことは1つだけなのだ。
「発信」ではなく、「書くこと」。
数行の「つぶやき」は向かないから、たまにFacebookをアップする時でもついつい長文になってしまう。
それなら、使えるツールはやはりブログしかないわけで。

だけど、「ここ」とは分けないといけない。
「ここ」は、本当に自分に近しい人、もしくは偶然やってきた人にしか読んでほしくない。
一番嫌なのが「ちょっとだけ知っている人」に読まれることだ。
仕事関係者などが「ここ」に来るようになったら、過去に何度かしたように、ここは閉鎖して引っ越さなければいけなくなる。
自分が「仕事で書くもの」と、「自由に書くもの」は全く違うから。

ここに書く時は文章を推敲するわけでもないから、誤字脱字や変な文章だってあるだろう。
しょうもない、くだらないこともいっぱい書いている。
また、本来の「私」が赤裸々に出ているわけで、仕事で関わっている人に読まれると、裸を見られたような恥ずかしい気持ちになる。
かといって、「ここ」を誰でも読んでいいものにしてしまうのは、もっと嫌なのだ。
嫌というか・・・私が壊れてしまう。
何でも自由に書ける場所は絶対に必要なのだ。
「はけ口」という意味でも、「記録」という意味でも。

だから、分けるしかない。
仕事向けの内容にしようと思えば、例えば関わっている媒体や取材先の名前なども出さないといけない。
そうすると、そこから検索してここを辿られる恐れがある。それだけは避けなければ、この自由はなくなってしまう。

逆に、そこまでして「仕事向けのこと」を書く必要があるのかとも思うが、やっぱりあるとずっと思っていた。
私の怠惰でそれをやってこなかっただけで。
営業の意味もあるけれど、自分の仕事の記録をちゃんとしてこなかったのは本当にもったいないと思うし、いつも取材に行くたびに「ああ、このことを書きたい」と思いながら、書く場所がなくて想いを葬り去ってきたのだから。

素の私、ライターとしての私。
どちらも書きたいことがたくさんあるのだから、これからは分けて書いていこうと思う。
ガンが再発してから思うのは、クリエイターでよかったということだ。
たとえ自分が死んだ後も(死なないけど)、自分が書いたものは残る。作品は残る。これって、本当に嬉しいこと。
だから、今思うのは、とにかく生きているうちにたくさんの文章を残したいということ。
駄文でいいのだ。
そりゃ、名文が書ければいいけれど、駄文だっていい。
自分が生きて何をしたいのかと問われれば、結局のところ、それしかないのだから。

本など出さなくていい。
すごい仕事もしなくていい。
ただ、たくさん文章を書きたい。
「死」を目の前に突き付けられてみれば、自分の望みなんて、それしかなくて。
なんとまあ、謙虚なことよ。

今は、人と比べて劣等感を抱くこともない。
誰かをうらやむこともない。
それでとても穏やかに生活できるようになった。
私はとても小さな小さな器の人間だから、すぐに人をうらやむし、劣等感の塊だから、すぐに人と自分を比べて落ち込む。
でも、今はもうそんなこともない。
逆に、そんなだった自分を遠く感じながら、「なんだったんだろうな」と思う。もう理解できないほどに遠い。

また、私の「仕事向けのブログ」の記事の選定をしていたとき、5年近く前の記事を読み、仕事に対する気持ちを引き締めることができた。
過去の自分は、いつも自分を助けてくれる。だから、やっぱり書き続けなければいけない、今日の自分のことを正直に。
これを読んで、明日もまたバカみたいにまっすぐに、一生懸命仕事をしようと思った。

久留米にて17年ぶりの再会を果たす。



あの声に会いたくて。

2020-01-23 | ライブ
17歳の私は、RCサクセションに夢中だった。
「青春」という言葉を口にすれば、いつだって同時にあのメロディが流れてくる。

忌野清志郎というアーティストは、私の中で今も色褪せることがない。
めちゃくちゃカッコよくて、誰とも似ていない。
伝説の、そして永遠に不滅の、最高のロッカー。

1月18日、夫と二人で「忌野清志郎 ナニワ・サリバン・ショー Oh!RADIO ~五十年ゴム消し~ 」を観てきた。



「サリバン・ショー」は、清志郎がいろんなミュージシャンと共演するライブイベントだ。
清志郎が天国に行ってしまってから行われていなかったが、今回14年ぶりの開催。
当然、本人はいないわけだが、生前に交流のあった(もしくは清志郎をリスペクトしていた若きミュージシャン)たちが集まり、主にRCサクセションの曲を演奏するというもの。

詳しくはこちら

RCメンバーだったCHABOはもちろん、奥田民生やトータス松本、宮藤官九郎やリリー・フランキー、はたまた間寛平まで出演。
会場はエディオンアリーナ大阪で、久しぶりの数千人(1万人?)規模のライブに気持ちも自然と高揚した。
(こんな大きな会場は、数年前に行った大阪城ホールの長渕剛のライブ以来だ)

客の年齢層はやはり高い。
40代~50代が中心ではないだろうか。
ここにいる人たちは私と同じように、中学や高校時代に清志郎と出会い、胸を熱くした思い出を共有しているのだと思うと親近感がわいた。

3時間半近くにわたるライブ。
大好きなRCの曲をいろいろと聴けてよかった。
いろんなミュージシャンが出ていたから実感として思うのは、「やはり大御所は違う」ということ。
奥田民生の存在感やトータス松本の歌唱力は飛び抜けていた。

トータス松本は、RCの曲ではなく、オーティス・レディングの「トライ・ア・リトル・テンダネス」を歌った。
上田正樹以外の日本人で、この歌をこんなふうに歌える人がいるんだと感動した。

私も高校時代に、オーティスを聴いた。サム&デイブもサム・クックも、ウィルソン・ピケットも、ジェームス・ブラウンも、この頃に聴いていた。
なぜか。
清志郎がリスペクトしていたからだ。

こうやって、好きなミュージシャンのリスペクトするミュージシャンを辿り、いつの間にかブルースに出会った。
それこそ洪水のように、ブルースは私の中に流れ込んできて、溢れかえった。

ブルースに出会ってからは、黒人音楽以外、ほとんど聴くことがなくなった。
一度魂を掴まれてしまったら、その他の音楽がすべて「耳」にしか届かなくなって。
ソウルまで響く音楽だけを選んで、かたくなに世の中の流行の音楽を拒否して、ブルースやR&B、ゴスペル、それらをルーツにしている日本のミュージシャンのものばかりを聴いていた。
今はそんなことはないし(今は嵐も聴くよ!)、あの頃のかたくなな自分を振り返ると、もう少し柔軟性があってもよかったんじゃないかとも思う。
だけど、きっと、あの頃の「かたくなな自分」は、「今の自分」を作る大きな要素になっている。
若い頃、あんなふうに何かにのめり込んで、狭く深く、孤独の中で聴き続けてきたことを、よかったと思う。
あの経験は、私にしかない感性を育ててくれたはずだから。

サリバンショーの最後にCHABOが登場して、会場はさらに湧き上がった。
9月にも別のライブでCHABOを観たところだが、やっぱり「RCのCHABO」は違う。

皆が清志郎亡き後も、彼の曲を愛し、歌う。
それは本当にすごいこと。
CHABOは、「ソングライターにとって、自分の曲が愛されるのは、とてもうれしいことなんだ」とも言っていた。

「こうしてると、清志郎が『寝坊しちまった』って、遅れて入ってきそうな気がするんだ」
そう言われると、私もふとそんな気持ちになる。
会場にいる全員が、清志郎を感じていたと思う。皆が呼んだ。
とてもいいライブだった。

アンコールの曲が終わり、スクリーンに清志郎の映像が映し出され、清志郎自身の歌声が流れる。
客席は帰る人もいてざわついているが、ほとんどの人が動かずにその映像を観ながら清志郎の声を聴いていた。
誰にも似ていない、唯一無二の、あの声を。

清志郎本人の声が会場に流れた瞬間、思った。
ああ、聴きたかったのはこの声だった、と。
いろんな人が、清志郎の曲を、RCのヒット曲を、演奏し、歌い、それはそれで楽しい時間だったけれど、ずっと何か違和感を抱いていたのが何なのか、この瞬間にわかった。
あの少しざらっとした感じ。
清志郎の曲は、清志郎が歌って初めて完成するのだ。
ざらつきがなくなって、すとんと胸に落ちてきた。

誰かが歌えば、もうそれは清志郎の曲でも何でもないのだと感じ、
また、清志郎の声を聴きながら、もう二度と生では聴けないことを思い知らされ、一気に淋しさに包まれた。

人の波に押されるように会場を出て、なんばの街を歩いた。
夫と立ち飲みの店に入り、ビールと日本酒を飲みながら、ライブのことを振り返り、熱く語った。
同じものを、同じ熱量とスピードで、同じように感じ取れる人と出会い、こうして酒を飲みながら語れることに心から感謝した。

帰宅して、二人で清志郎復活ライブのDVDを観た。
何度観ても飽きない。
やっぱり永久に不滅の、最高のロッカーだ。

超人伝説

2020-01-22 | 癌について
5クール目の投与7日目から1週間の万歩計データ。
本日はまだ5456歩だが、これから帰宅するので7000歩はいくだろう。


ありがたいことに、とにかく元気だ。
毎日バリバリ仕事ができることに感謝。
この1週間ですでに6件取材した。

昨年引き受けた保育関係の冊子の依頼が今年も来たのだ。
28ページで、私が書くのはそのうち20ページ。保育園の取材が10件。
取材と原稿執筆を3週間で終わらせようというのだから、なかなか大変だ。
そのほか、同じ期間に企業パンフレットやWEBの細かい案件もあり、まだこれから次の入院までに8件取材が残っている。

とはいえ、この何倍も仕事をしていたことを思えば、2週間ほど頑張ればいいのだから、のんびりしたものだ。
それに、この案件が終了して、6クール目の入院も終了したら、3月・4月はゆっくり過ごそうと思っている。
いつもなら酒蔵取材に飛び回っているところだが、それもやらない。せいぜい1、2蔵。
3月は友達と沖縄旅行の予定もある。
のんびりと、自分の書きたいものを書く。
ようやく第二の人生のスタートだ。

今日はケモ外来だった。血液検査の結果、相変わらず腫瘍マーカーは正常値(反応しない)。
ただし、好中球数がとんでもない数値だった。
正常値は2000~7000のところ、464!!
さすがに今までで一番低い。
免疫力ほぼなし。。
対策は、マスク、手洗い、うがいしかない。

次回、いよいよ最終の6クール目。
入院の日などを決めていたら、主治医が「(抗がん剤が)効いているといいんやけど」と、本気の言葉で言ってくれた。
大きな大学病院で、こちらが選んだ先生ではないけれど、この先生でよかったなと思う。
いつも誠意を持って接してくれていると感じられる。

入院の手続きにあたってくれた看護師さんも、今日はとても元気な人で、「5クール目、どうですか。しんどいですよね」と声をかけてくれた。
「いや・・・全然しんどくないんですよ。退院した次の日からもう近所のスーパーとか行ってました」と言うと、びっくりしていた。
「たまーに、いるんですよね、そういう方」と言っていたので、私だけではないらしいが、それでも「普通は5クールもやったら、皆さんかなりダメージが残っているんですよ。よかったですね」と言ってくれたので、やはりレアケース。
自分は特別なんだと実感できたことが、また自信になった。

特別といえば、不思議なことが起きている。
1クール目から2、3週間で脱毛が始まり、投与を終了してから1~2ヶ月後に生え始めるというのが普通なのだが、なんと、5クール目が終わった直後からもう生え始めている!!
脱毛はした。完全に。髪の毛、眉毛、まつ毛、体毛、すべてなくなった。
それが、まだ投与を重ねている最中だというのに、眉毛はほぼそろったし、まつ毛も下は生えそろった。上もかなり伸びてきている。
髪の毛も尼さんくらいになっていて、「病気の人」ぽくなくなってきた。(好んで剃っている人のよう)
夫は毎日私の頭を見ながら「生命の息吹を感じる!」と感動している。
これもきっとサイモントン療法のおかげだろう。
「抗がん剤はガン細胞にだけとてもよく効くが、他の健康な細胞には一切影響しないから、副作用も起きない」というイメージを作っている。
それで、毛根の細胞は抗がん剤に影響されず、再び生き返ったのだ。
もちろんウィッグなしで生活できるようになるまで8カ月~10ヶ月はかかるが、私の細胞が元気に生き返ったことが本当に嬉しい。
まさに奇跡!
ほんと、私ってすごいなぁ・・・と我ながら感心する。奇跡は「起こる」んじゃない。「起こす」んだ。
今日から白血球の数を増やす瞑想もやってみようと思う。