北海道人からみた関西圏の鉄道事情

関西圏の鉄道・その他についての諸々の雑感

動態保存機の7100形蒸気機関車 義経号を見学してきました

2011年04月29日 | 蒸気機関車
下の写真は、先月関西を旅行した際に立ち寄った大阪市港区の交通科学博物館で私が撮影してきた、明治の開拓時代に北海道を走った7100形蒸気機関車の1号機「義経」です。動態保存機のため、屋外展示場にあるこのような専用車庫(ガラスケース)で保存・展示されていました。
今回の旅行で私が交通科学博物館に立ち寄ったのは、この「義経」を見学したかったという理由もありました。
ちなみに、現存する7100形は、交通科学博物館で動態保存されている1号機の「義経」、埼玉県の鉄道博物館で静態保存されている2号機の「弁慶」、北海道の小樽市総合博物館で静態保存されている6号機の「しづか」の3両のみです。





「義経」は、上の写真のように通常は全周囲をガラスに囲まれた状態で保存・展示されているため、一般の見学者が直接車体を触れることはできず、写真を撮る際もガラスが反射するなどしてあまり綺麗には撮れないのですが、機関車を風雨に晒して朽ちさせずに、貴重な文化財として後世に伝え残すためには、これは適切な保存の仕方だと思います。
ただ残念なのは、交通科学博物館には、梅小路蒸気機関車館のような展示運転線がないため、折角の動態保存機も、ある程度の距離のレールが敷設されている別の場所に輸送しなければ自走はできないということです。

「義経」は、明治13年に米国ポーター社が製造した機関車で、北海道最初の幹線鉄道として建設された幌内鉄道で使用するため、その1号機として、同型の2号機「弁慶」とともに輸入されました。
比較的軽量で、軽構造の速成線路での使用に適した蒸気機関車で、同年の手宮(小樽)~札幌間開業時から使われ、翌年の明治天皇北海道行幸に際してはお召し列車も牽引しました。
のちに同型機6両が増備されて、全8両が幌内鉄道から北海道炭鑛鉄道に引き継がれ、明治39年に国有化された後、旧鉄道院では7100形という形式になりました。
「義経」は、北海道炭鑛鉄道の時代にその固有名称が失われ、国有後は7105号となり、大正12年には大阪府堺市の梅鉢鉄工所(のち帝国車輌工業、東急車輛製造となる)に譲渡され、テンダ機関車からタンク機関車に改造されて構内入替用として使われました。

昭和27年、鉄道80周年記念事業の一環として旧国鉄に引き取られ、神戸の国鉄鷹取工場で動くことができる状態に復元されましたが、炭水車は既に失われていたため全くの新造となりました(水タンクの長さは錯誤があって原型よりも若干長くなりました)。
「義経」は北海道における最初の蒸気機関車であり、また、初期の開拓鉄道用機の典型としても記念すべき機関車であることから、昭和38年、旧国鉄の準鉄道記念物に指定され、平成3年から交通科学博物館の専用車庫で展示されています。



上の写真は、昭和63年4月にJR北海道発足一周年を記念して発行されたオレンジカードで、故郷の北海道小樽で対面を果たした「義経」と「しづか」の2両が写っています。

「義経」と「しづか」は、復元後は実は何度も再会を繰り返しており、第1回目の再会は昭和27年10月に行われ、この時は鉄道80周年の記念事業として、東京の原宿駅宮廷ホームで「義経」「弁慶」「しづか」の判官ファミリーが集結しました。
第2回目の再会は昭和43年7月で、北海道開道百年を記念して、小樽市手宮の鉄道記念館(現在の小樽市総合博物館)で「義経」と「しづか」の再会が行われました。源義経と、義経の愛妾・静御前の関係になぞらえて、義経としづかのデートとして話題になりました。
第3回目の再会は昭和55年7月で、北海道の鉄道開通100周年を記念して小樽の鉄道記念館で再会が行われ、この時は、「義経」は時速20kmで手宮線の線路400mを4往復し、その姿を見ようと全国から約5000人のファンが鉄道記念館に集まりました。
そして、第4回目の再会は、小樽市制80周年及び旧手宮機関庫その他鉄道施設が国の重要文化財の指定を受けたことを記念して平成14年9月に行われ、小樽交通記念館(現在の小樽市総合博物館)の企画により、同館で「義経」と「しづか」の4回目のデートが実現しました。

このオレンジカードの写真は、恐らく昭和55年の第3回目の再会の時ではないかと思われます。
ともかく、「義経」にしろ「弁慶」にしろ「しづか」にしろ、7100形は私にとっては思い入れのある、大好きな蒸気機関車です。