北海道人からみた関西圏の鉄道事情

関西圏の鉄道・その他についての諸々の雑感

電車告知人

2007年12月18日 | 書籍紹介・書評


先日、鳥越一朗さんが著した『電車告知人 明治の京都を駆け抜けた少年たち』という小説を読みました(ユニプラン刊)。
上のイラストは、その本のカバーを開いて表側の面全体をスキャンしたもので(ちなみにカバー裏面には路面電車の路線図が描かれています)、小さくて分かり辛いかもしれませんが、カバーの左端で、半纏を着て提灯を手に持って走っている少年が、俗に「先走り」と称された電車告知人です。

この本のコピーは、『「危のおっせー、電車が来まっせー」と叫びながら、チンチン電車を先導した告知人(先走り少年)たちの愛と友情の物語』で、アマゾンなどでは以下のように紹介されていました。
明治28年、京都の街に日本初の市街電車が走り始める。電車による事故を防ぐため設けられたのが空前絶後の「告知人制度」。告知人のほとんどは12歳から15歳の少年だった。電車の前を走りながら、通行人に危険を知らせた彼らの実像はいかなるものであったか、環境保全面からLRT(路面電車)が見直される今、著者の想像力が明らかにする

基本的にはこの紹介文通りの内容の小説で、期待を裏切ったり意表をつくような劇的な展開などはないものの、特に物語の前半部では、告知人の少年達の生活や過酷で危険な勤務実態がリアルに描かれており、とても興味深かったです。
また、物語の後半部は、主人公である13歳の告知人・中田敬二郎と、彼にとっては“友達以上恋人未満”である京都在住のロシア人少女アンナとの、恋愛と呼ぶにはあどけなさ過ぎる清らかな(笑)交流の描写が中心となっていましたが、これもなかなか微笑ましくて良かったです。

そもそも告知人制度は、人々に電車の接近を知らせて電車との接触事故を防ぐために京都府令第六十七号電気鉄道取締規制により定められた制度でしたが、しかしマッチ箱のような小さな電車に運転士・車掌・告知人の3人の乗務員が付くのは人件費がかさみ、何よりも、告知人の勤務実態は危険な上に過酷・重労働で、実際、人々に危険を知らせるための告知人が電車に轢かれるという本末転倒な悲惨な事故が相次いだため、告知人制度は明治37年、規則改正により廃止されました。
明治28年~37年までの僅か9年間、京都の路面電車にだけ設けられたこの告知人という仕事や制度について知りたい方は、是非御一読をお勧めします。

ちなみに、同じ著者の著した『麗しの愛宕山鉄道鋼索線』もなかなか興味深い作品で、私は京都在住時、これを読んで急に愛宕山に登りたくなり、実際に登ってきました(笑)。

鉄道博物館に行ってきました

2007年12月11日 | 博物館・記念館等


今月の5日~7日にかけて、2泊3日で東京に旅行に行って来たのですが、折角東京に行ってきたので、今年の鉄道記念日(10月14日)に開館したばかりの大宮の鉄道博物館にも行ってきました。

開館から2ヶ月近く経っているにも拘らず(しかも平日だったのに)館内は結構込んでおり、親子連れや鉄ちゃんが多いであろうとは当初から思っていましたが、全く“鉄”ではなさそうな女性同士の来館者も多かったのはちょっと意外でした。
鉄道博物館は開館前からテレビなどでかなり大きく取り上げられていたので、「鉄道博物館に立ち寄る」というのが普通に観光コースに組み込まれているのかもしれません。

上の写真は、鉄道博物館のメインゾーンである1階のヒストリーゾーン(36両の実物車両を展示)を、2階の吹き抜け部から撮影したものです。
この博物館のために新製されたゾーン中央の転車台は電動で回転させる事が可能で、C57形式蒸気機関車が載せられていました。
なお、ヒストリーゾーン床面の線路には蓋がしてありますが、実は大宮工場の試運転線と繋がっており、展示車両の柔軟な入れ替えにも対応しているそうです。
一部立ち入り禁止の車両もありましたが、展示車両の多くは客室内部にも入る事ができたので、それはちょっと嬉しかったです。





上の写真2枚は、ヒストリーゾーンに展示されていた7100形式蒸気機関車「弁慶号」と、その弁慶号に牽引されていたコトク5100形式の客車「開拓使号」です。
いずれも開拓期の北海道を走ったアメリカからの輸入車両で、北海道人の私としては見逃せない、要注目な展示品でした(笑)。

弁慶号は、明治13年に北海道で始めて開業した幌内鉄道(札幌~手宮間)で使用するためにアメリカから輸入された機関車のうちの一両で、御覧の通り、火の粉止め付きのダイヤモンドスタック形の煙突、先頭部に大きく張り出したカウキャッチャー(牛馬などが触れた時これをはね飛ばして轢死させるのを防ぐ排障器)、大きな鐘など、典型的なアメリカンスタイルのSLで、西部劇に出てくる機関車さながらの雰囲気を醸し出しています。
ミラー式連結器や空気制動機も装備され、第2動輪はフランジを無くして曲線を容易に走行できるように設計されていた、当時のアメリカでは最新型のSLでした。
廃車後は国鉄大宮工場で復元され、現在は鉄道記念物に指定されています。

開拓使号も、幌内鉄道の開業に合わせて弁慶号などと共にアメリカから輸入された車両で、転換式クロスシート、ストーブ、飲水器、水洗式の洋式トイレまで備えられていた最上等車で、開拓使長官や政府高官の専用客両として使われたため「開拓使号」の愛着が定着しました(車体の側面には実際に「開拓使」と縦書きされています)。
明治14年の明治天皇行幸の際には御料車としても使用され、弁慶号同様、現在はこの車両も鉄道記念物に指定されています。

なお、これらの機関車や客車にはいずれも貫通式の空気制動機が備えられていたため、150m以内で停止することができ、更に、万一列車が途中で分離しても自動的に停止することができました。
この安全対策機能は、イギリスの技術を取り入れた本州の鉄道には見られなかったもので、当時、アメリカの鉄道技術がイギリスよりも進んでいたことを物語っています。