これは関西の鉄道ファンの間では割とよく知られている話なのですが、逆に関西圏以外の人にはほとんど知られていないような気がするので、今回は、阪急電車が開業前の東海道新幹線の線路を8ヶ月間走ったことがある、というエピソードを紹介させていただきます。
実際に現地を見ていただければ、もしくは地図を見ていただければすぐに分かりますが、阪急京都本線の、大阪府高槻市にある上牧(かんまき)駅の手前から京都府大山崎町に至るまでの区間約3.8kmは、東海道新幹線の路線と隣接して線路が敷設されており、しかも阪急の線路と新幹線の線路との間には簡易なフェンスが張られているだけで、大きな柵や塀などで仕切られていないため、阪急電車の車内からも新幹線の電車がよく見えます。
この区間の阪急京都本線は、東海道新幹線とは一体型の高架に見えるほど仲良く寄り添って走っており、両路線の間に仕切りのフェンスがなければ、同じ鉄道の複々線に見間違えてしまうほどです。
しかも、阪急と新幹線とでは軌間も同じため、もし線路が接続されていたとしたら、この区間だけ、阪急電車が新幹線の路線を走ることも不可能ではありません(但し架線の電圧は違いますが)。
現実問題として考えると、「阪急電車が新幹線を走るなんて、そんなバカなこと有り得ない」と誰もが考えてしまいそうですが、しかし昭和38年4月24日から同年12月28日までの約8ヵ月間、実際に阪急電車は、この区間だけ、隣接する新幹線の線路を走っていました。
東海道新幹線の開業は昭和39年10月ですから、新幹線開業約1年間の珍事でした。
京都と大阪を結ぶ交通路を建設する場合、両都市間には山地があることなどから、建設場所は事実上、天王山と男山とに挟まれた幅約2kmの狭い谷間に限られ、実際、現在京阪間を走っている東海道新幹線、JR東海道本線、阪急京都本線、京阪本線、国道171号、名神高速道路といった各交通の主要幹線は、いずれも束ねられるように近接してその狭い谷間を並行しています。
しかも、その谷間には近畿地方を代表する大河・淀川も流れているため、そこに新たな交通路を建設しようとすると、当然用地の確保には苦労が伴うことになります。
東京と大阪を結ぶ“夢の超特急”として建設が始まった東海道新幹線も、京都~大阪間の線路はやはりこの谷間に敷設されることになったのですが、用地難から建設場所の確保には難儀したようで、最終的には、当時阪急の京都本線が走ってた土地を譲ってもらい、そこに新幹線の路線を建設することになりました。
つまり、現在上牧から大山崎町辺りにかけて新幹線が走っている区間は、元々は阪急電車が走っていた場所だったのです。
このため阪急は、新幹線建設のために京都本線の線路をそのすぐ北側に移設しなければならなくなりましたが、しかし阪急としても、その頃丁度、その区間を高架化したいと考えていたことから、自社の線路を高架の新線に移設して新幹線に場所を譲ることに同意したのでした。
ところがその後の調査で、阪急の高架橋を先に造ってから新幹線の高架橋を造ると地盤沈下が生じることが判明し、そのため、まず先に新幹線の高架橋を建設し、続いて阪急の高架橋を建設する工事が行われることになりました。
しかしそうなると、問題となるのは、工事期間中、阪急電車をどこに走らせるかです。
そして協議の結果、阪急と新幹線とではたまたま軌間が全く同じだったことから、開業前の新幹線の線路を一時的に京都本線の列車に使用させることが決まったのです。
但し新幹線と阪急とでは架線の電圧は異なっていたため、その区間を阪急電車が走る期間だけ、新幹線の交流25,0000V・60Hz用に張られた架線には阪急用に直流1,500Vが流され、また、上牧・水無瀬・大山崎の各駅では木造の仮設ホームが新幹線の線路に沿って設置されたのでした。
こうして、僅か8ヶ月という短い期間とはいえ、阪急電車は東海道新幹線の線路を走ったのです。
なお、下の写真は、先週
関西を旅行した際に、この記事にアップする写真を撮るためだけに下車した(笑)阪急京都本線上牧駅のホーム西端から撮影した、京都方面に向けて疾走する東海道新幹線N700系です。
そして下の写真は、上の写真を撮った所と同じ場所から撮影した阪急電車です。
この電車は
河原町行きの特急で、阪急電車の中では特に私が個人的に好きな
6300系です。
こうして両写真を見てみると、阪急電車と新幹線は、線路こそ違うものの、今でも同じ路盤を走っていることが分かり、その蜜月ぶりが実感できます。