北海道人からみた関西圏の鉄道事情

関西圏の鉄道・その他についての諸々の雑感

ドイツ軍の列車砲

2014年06月23日 | ノンジャンル
「札幌人からみた関西圏の鉄道事情」というタイトルのブログでありながら、最近は、札幌市の共通ウィズユーカード湘南モノレールなど、関西圏の鉄道とはほとんど関係のない内容の記事をアップすることが少なくありませんが、今回の記事は、ここ最近の記事の中では恐らく最も関西圏の鉄道には関係のない記事です(笑)。
今日は、「列車砲」という兵器(鉄道車両のような形態を採ってはいますが、分類上は鉄道ではなくあくまでも兵器です)について、私の思うことや調べたことなどを書かせていただきます。

下の写真2枚は、1/144スケールで再現された「レオポルド列車砲」の模型で、これは今から5年程前のある日、たまたま立ち寄った札幌市北区の某模型店で、「おおっ、これはカコッイイ!」と思って衝動買いをしてしまったものです。
札幌市内の他の店では一度も見たことがなかったので、結構レアなアイテムに違いないと思い、色違いで2セットを買いました。





ところで、この列車砲という兵器、現在は世界中のどの国の軍も使っていないため、戦史や兵器などに詳しい一部の人達を除くと、一般にはその存在を知らない人達のほうが多いのではないかと思いますが、列車砲は、SF映画やSFアニメ、架空戦記の小説などに登場する架空の兵器ではなく、かつて現実に使われていた兵器で、この模型の元となったレオポルド列車砲は、第二次大戦中にドイツ軍が所有・運用していました。

以下に、ウィキペディアの「列車砲」の項目から、主要となる文章の一部をコピペします。とりあえずこれを一読すれば、列車砲とはいかなるものなのか、ということが凡そお分かりいただけるのではないかと思います。
ただしこれは、私がこの模型を買った当時(5年程前)にコピペして保存していた文章なので、恐らく現在は、文章の内容が多少編集されて変わっていると思います。


列車砲とは、通常、地上では運用が困難な大口径砲を列車に搭載し、鉄道のレールの上を走行させることによって移動を可能としたもの。貨物列車に装甲を施し、火砲を搭載した装甲列車とは一般的に区別される。(装甲火砲列車はソ連やポーランドが多数運用していた。ドイツも鉄道警備用に運用している。)

(中略) 列車砲が実用化されたのは、南北戦争中(1861年-1865年)のことであった。1864年のピーターズバーグ要塞をめぐる戦いにおいて、北軍が13インチ臼砲を無蓋列車にのせて運用したのが、初の列車砲とされる。

第一次世界大戦から第二次世界大戦にかけてドイツ軍が要塞や塹壕攻撃などに使用したものが有名である。第一次世界大戦中においては、パリ砲と呼ばれる射程120キロの長距離砲でパリに超遠距離砲撃を行った。
これに脅威を感じた連合国はヴェルサイユ条約でドイツに対し列車砲を含む重火器の保有を禁止したが、未知の技術であったミサイルの保有は禁じられなかった。このためドイツはミサイルの研究に取り組み、世界に先駆けてV2ロケットなどの弾道ミサイルの実用化に成功した。


第二次世界大戦においては、グスタフ、ドーラ、トール、ロキ、レオポルド、ベルタなどが知られる。砲の直径と口径はまちまちであるが、全長10m程度の車台に、直径数十cm・長さ2m程度の砲弾を撃ち出せる大砲を置き、最大射程数十km(ベルタは100kmを超えた)を誇った。カーブの付いたレールの上を走らせることで、射界を確保した。
ただ欧州の鉄道のレールの軌間は地域ごとにまちまちで(当時から欧州統合論者はいたが、現実には、攻め込まれた際敵の鉄道輸送を妨害する方が優先された)、他国に持ち込むには一度分解する必要があった。


(中略) 列車砲は編成を含めてその大きさは格好の目標であり、移動においては線路に制限されるという関係上、制空権を確保していない状況においてはその運用は困難であった。特に特別な複線が前提となっていた一部の巨大な列車砲は運用そのものに制限を受けていた。第二次世界大戦時に出現した大型の爆撃機はすでに列車砲の砲弾以上の威力のある爆弾を投下することが可能となっており、列車砲の射程と爆撃機の航続力を考慮すれば列車砲の活躍の場は少なかった。

ただし、航空機は天候・命中率・防空など、その性能を常に発揮できるわけではなく、同様に列車砲も適切な状況で運用した場合には、圧倒的な破壊力を発揮した。又、ドイツでは地形が許せば隧道(トンネル)を利用しての射撃(撃つ時だけ出て撃ったらすぐに隧道内に戻る)で敵の攻撃を避けるといった方法もとっていた。


下の写真は、このレオポルド列車砲の模型を買った当時、その列車砲2門と、同スケール(1/144)のモビルスーツ「ザクⅡ」とを並べて撮ってみたものです。大きさの比較対照用に、当時私が使っていた携帯電話も入っています。
しかし、さすがにザクが入ると、いかにもアニメっぽい情景になりますね。個人的には、こういった情景やジオラマも好きですが(笑)。



下の写真2枚は、私が所有しているNゲージ鉄道模型のうちの一両であるマイクロエース製の国鉄C59形蒸気機関車108号機トと、レオポルド列車砲を連結して撮影したものです。





かつて日独両国が同盟国だったとはいえ、ドイツ軍のレオポルド列車砲が日本のC59に牽引されるというシチュエーションは、言うまでもなく現実には絶対に有り得ないことで、機関車に牽引された状態で列車砲が砲身を上げている2枚目の写真のシーンも、現実には有り得ないことだと思いますが、このレオポルド列車砲(1/144)はNゲージの鉄道模型(1/150)とほぼ同スケールなので、実際にNゲージの車両を組み合わせるとこんな感じになりますよ、という一例としてこの2両(厳密には、列車砲は「両」でなく「門」と数えますが)を組み合わせてみました。
他にも、Nゲージ用のストラクチャーなどを流用すれば、列車砲を使ったかなり本格的なジオラマが作れそうです。

下の写真は、アメリカのメリーランド州アバディーンにあるアメリカ陸軍兵器博物館に展示されている、レオポルド列車砲の実物です。ドイツ軍の列車砲は終戦までにその多くが敵機の爆撃によって破壊され、残ったものについてもほとんどは戦後スクラップされているので、このような形で現存しているのは貴重です。




ところで、最近になって、列車砲について改めて自分なりにいろいろと調べてみたところ、どうやら私は列車砲について今まで誤解をしていたらしい、ということが分かってきました。
列車砲は、航空戦力が飛躍的に発達した現在でこそ“無用の長物”と化した兵器として、全てが廃棄されていますが、ジェット戦闘機や弾道ミサイルがまだ実用化の段階に至っていなかった第二次大戦当時は、有力な陸上戦力の一つとして欧州戦線に於いてかなり活躍をしていたのだろうと今まで思っていたのです。

しかし実際には、列車砲が装備され始めた第一次大戦の頃はともかく、列車砲がドイツで最も発展を遂げた第二次大戦の頃には、列車砲はもうほとんど“無用の長物”と化していたようなのです。
そして、そういった状況であるにも拘わらず、ドイツ軍は第二次大戦末期まで列車砲の開発と運用を続けていたらしいのです。

確かに、列車砲が新兵器として登場した第一次大戦の頃は、列車砲の戦術的役割は決して小さくはありませんでした。
列車砲は、網の目のように発達したヨーロッパの鉄道網と、長射程と重砲弾の威力を最大限に生かし、戦線後方にある敵部隊の集結地、補給地、鉄道施設を砲撃したり、増援部隊の進出を阻止するなど、戦術的に重要な役割を果たしました。
また、列車砲は鉄道利用により砲撃地点への進出が容易であることから、砲兵の戦術にも大きな変化を与え、長大な海岸線を有する国では沿岸防衛の効果的な兵器としても重宝されていたようです。敵軍が自国の沿岸に上陸した場合、予め準備された陣地へ素早く列車砲を移動させれば、強力な防衛拠点を展開することができたからです。

しかし、そういうメリットがあった反面、列車砲には致命的ともいえるデメリットもありました。
例えば戦車の場合であれば、ほとんど路面状況を選ぶ必要がないばかりか、道がない荒野でさえも概ね容易に走ることができ、水深が浅ければ直接川の中に入って渡河することもできますが、列車砲は、鉄道と融合しているシステム(鉄道軌道を移動できる特殊な台車上に砲架と重砲を一体化させて搭載した兵器システム)である以上、その移動及び兵器としての運用は当然線路上のみという絶対的な制約を受けることになり、そのため、戦略上重要な場所であっても線路が敷設されていない場所での運用は難しく(本当に重要な場所であれば、列車砲を運用するためそこに線路を敷設しますが、迅速性には著しく欠けます)、また線路が敷かれていても、線路が一部でも寸断されていたり、線路の軌間が異なっていたりすると、分解して運搬し現地で組み立てるというかなり面倒な作業をしない限り、兵器として運用することは不可能でした。
そして、第一次大戦終結以降の航空戦力の急激な発展・充実に伴い、戦車よりも巨大で戦車よりも行動範囲に制約のある列車砲は、爆撃機にとって格好の攻撃目標にもなっていきました。

そのため、ドイツ以外の国々は列車砲の開発や運用は早々と打ち切り、それに代わって航空戦力を更に充実させていくようになりますが、ドイツ軍は列車砲に拘り、第二次大戦の末期まで列車砲の生産・運用を続けました。
しかし、そもそも列車砲の戦術的価値は、線路を走ることによって砲撃位置まで素早く移動できる、という点にあるのですが、戦争末期になると、ドイツの戦況悪化と制空権の喪失によりドイツの線路網は連合軍の爆撃でズタズダに分断され、移動もままならない状況になっていました。
このため、ドイツ軍では、列車砲を二分割して重戦車ティーガーⅡ型の車体に載せて戦場へ移動する案なども検討しますが、列車砲の巨大な重量が祟り、結局この案は実現しませんでした。

また、列車砲は、兵器としてのコストパフォーマンスも最悪でした。
列車砲の開発には莫大な資金と資材が投じられ、多数の技術者が開発に従事し、更に、一門の列車砲を運用するために、多数の兵員と様々な支援機材(牽引機関車、弾薬車数両、移動クレーン、回転台、対空車両、移動乗員車両など)が必要とされました。列車砲は、兵器としては極めて贅沢で高価なシステムだったのです。
下の写真は、ドイツ軍の24センチ・セオドール列車砲と、フォーゲル回転台です。回転台とは、全周射界を得るために列車砲を乗せて回転させる台のことで、左右に砲身が動く機能が付いていなかった大多数の列車砲には必須のシステムでした。



下の写真2枚は、独仏国境のマジノ要塞の破壊を意図してドイツが開発した、史上最大の80センチ列車砲であるグスタフ(全長約43m、全高約12m)ですが、このグスタフや、その同型のドーラに至っては、重量が駆逐艦なみの1,350トンもありました。グスタフとカールは、陸上で移動可能な兵器としては、恐らく世界最大の大きさを誇っていた兵器だと思われます。





ここまで巨大な列車砲になると、もはや既設の鉄道の線路を使っての移動はできず、砲撃位置までは25の部品に分解して搬送され、現地で組み立てられた後は、巨大な片側5軸10輪の台車8台によって、専用の複線(4本のレール)を移動する必要がありました。
更に、この列車砲を組み立てる際にはガントリー・クレーン専用のレールも別に必要になることから、砲撃予定地では、まず土地を切り開き、その上で、何本もの専用レール(トータルで8本のレールから成る複々線)を敷設しなけければならず、当然のことながら、運用には相当な時間と手間を要しました。グスタフの場合、組み立てから発射準備完了まで、通常は3~6週間もかかったそうです。
下の写真は、ガントリー・クレーンとグスタフです。地表には、何本ものレールも確認できます。



しかも、グスタフを運用する場合は、少将を司令官とし、指揮・砲操作で一個連帯に匹敵する1,500人、警備・対空・保守で4,200人もの人員を要し、他に、乗員運搬車両・炊飯車両・工作車・弾薬運搬トラックなども付属したため、もはやコストパフォーマンスは完全に度外視されていた感すらあります。
勿論、それだけの資金・時間・人員・労力等に見合うだけの大きな戦果を挙げる事ができればさして問題はなかったのかもしれませんが、実際の所は、前述のように列車砲そのものに軍事的な価値は少なく、結果的に、列車砲の開発と運用はドイツにとって壮大な浪費となったのです(ただし、1942年夏のドイツ軍によりセバストポリ攻撃では、グスタフは、セバストポリ要塞、モロトフ要塞、スターリン要塞に甚大な損害を与えました)。

ドイツ敗戦時、ドイツ軍の21センチ列車砲がオランダで連合軍に捕獲され調査されましたが、その時の調査書には、「技術面から見ると驚くべき兵器であるが、戦術的な観点からするとほとんど無価値である」と酷評されています。
また、第二次大戦後に作成されたイギリスの調査書では、「大口径列車砲は独裁者ヒトラーの巨大兵器嗜好と、政治的な流れの中から生まれたもので、莫大な資金と巨大な設備を必要とした。このために、多数の技術者が本当に必要な兵器の開発に回されなかった事は、連合軍の勝利にとって幸いな事であった」と報告され、ここでも皮肉たっぷりに酷評されています。
列車砲を運用していた当事者であった、ドイツのカール・トホルテ大将(かつてのドイツ国防軍砲兵総監)も、列車砲について後に、「あれは巨大な兵器のおもちゃだった」と述べています。


電動揚弾機、油圧砲仰俯装置、発射ガス閉鎖方式など、複雑なメカニズムと、当時としては近代的な設計が施されたドイツ軍の列車砲でしたが、第二次大戦が始まった時点で既に航空戦力が戦況を左右するようになっており、航空攻撃に抗する事のできなかった列車砲は、第二次大戦が始まった時点で、もう時代遅れの兵器だったのです。
ドイツ軍の列車砲は、ヒトラー率いる第三帝国のもとで急速に発展し、そして第三帝国の終焉と共に完全に消滅した、そんな徒花のような兵器といえそうです。

ただし、ドイツ軍の列車砲は、戦後になって各方面から「膨大な資源の浪費だった」と批判される一方で、弾道学の発達には大きく寄与したという評価もあり、また、第二次大戦末期に登場し驚異的な性能を示したドイツ軍のV2号ロケット兵器や各種の誘導弾兵器も、巨砲による長射程追求の延長線上にあったのは事実です。
戦後、アメリカが国家の威信を賭けて実現させた人類初の月への有人宇宙飛行計画「アポロ計画」も、そのV2号ロケットの延長線上にあったのは誰もが認めるところであり(V2号ロケットを開発したドイツの科学者ヴェルナー・フォン・ブラウンは終戦直前にアメリカへと亡命し、戦後はNASAで最重要指導者の一人としてアポロ計画などを推進しました)、そして、そのアポロ計画が成功していなかったとしたら、その後のスペースシャトル計画や国際宇宙ステーションの建設なども当然無かったはずですから、そういったことも全て踏まえると、列車砲は決して全く無意味・無価値というわけではなかった、ということも一応最後に一言付け加えておきます。

京阪・大阪市交通局 周年記念ポストカード

2014年06月13日 | 鉄道関連グッズ
3月28日の記事で詳述したように、私は本年3月、大阪府吹田市にある万博記念公園で開催された「万博鉄道まつり2014」を見学してきたのですが、今回は、その時に鉄道まつりの会場で私が買ってきたグッズのひとつである「大阪市営地下鉄開業80周年&京阪電車淀屋橋延伸50周年 記念ポストカード」を紹介させていただきます。

これは、大阪市交通局と京阪電気鉄道の連携企画の一環として2000セットの限定で販売された、大阪市交通局と京阪で各5枚、全10枚のポストカードセットです。販売額は800円でした。



以下の5枚は、いずれも大阪市営地下鉄開業80周年の記念ポストカードです。
大阪市営地下鉄は、日本で最初の公営地下鉄として、今から80年前の昭和8年5月20日に、梅田~心斎橋間で営業を開始しました。











そして、以下の5枚は、京阪電車淀屋橋延伸50周年の記念ポストカードです。
京阪電気鉄道は、今から50年前の昭和38年4月15日に、それまで京阪本線の終点だった天満橋から、淀屋橋までの地下新線を延伸開業しました。











札幌市の共通ウィズユーカード、発売終了

2014年06月04日 | 切符・カード
札幌市内の複数の交通機関で利用できるプリペイドカードとして人気が高かった、札幌市交通局発行の「共通ウィズユーカード」が、来年3月31日をもって廃止されることになり(その日までが利用有効期限ということです)、それに先立って、先月末日、同カードの発売が終了しました。



私は、発売終了日の先月31日に、ちょっと奮発をして(笑)、共通ウィズユーカードの中では最も高額な1万円カードを2枚買いました。
1万円のカードは、1,500円分のプレミアムが付くので(つまり利用可能額は11,500円)、5種の販売額がある共通ウィズユーカードの中では最もお得なのです。
ちなみに、このカードには、昨年導入されたばかりの札幌市電の新型低床車両A1200形のイラストが描かれていました。

共通ウィズユーカードの発売が中止される理由は、札幌市によると、「環境負荷低減のため、再利用が不可能な使い捨てタイプの磁気カード(共通ウィズユーカード)から、再利用可能なICカード乗車券(SAPICA)に完全移行するため」とのことです。
但し、還元率はSAPICAよりも共通ウィズユーカードのほうが高いので(例えば購入金額が1万円の場合、SAPICAの利用可能額は11,000円なので、共通ウィズユーカードの同額カードとは500円の差があります)、私みたいに共通ウィズユーカードをずっと使い続けていた人にとっては、共通ウィズユーカードの廃止は事実上の交通費値上げといえます…。

ちなみに、昔は「共通ウィズユーカード」ではない、ただの「ウィズユーカード」というのもありました。
元々は札幌市営の交通機関でのみ利用できるプリペイドカードとしてウィズユーカードが登場し、その後、ジェイアールバス、中央バス、じょうてつバスなどの他社にも対応した「共通ウィズユーカード」が登場し、最終的には全てのカードが共通ウィズユーカードへ統一されました。