北海道人からみた関西圏の鉄道事情

関西圏の鉄道・その他についての諸々の雑感

幌内鉄道の建設と開業

2008年11月28日 | 北海道の鉄道
明治5年10月14日に開業した新橋(後の汐留貨物駅)~横浜(現在の根岸線桜木町駅)間、明治10年2月5日に開業した京都~神戸間に次ぐ国内3番目の鉄道として、明治13年の今日(11月28日)、幌内炭鉱(現在の三笠市)の石炭を小樽の手宮港に運ぶ事を主目的とした「官営幌内鉄道」の手宮~札幌間が開業しました。
そこで今日は、関西圏の鉄道とは関係のない話で恐縮なのですが、幌内鉄道の開業記念日であることに因んで、私の地元・札幌に建設された日本で3番目に古い鉄道「官営幌内鉄道」の建設と開業について、その経緯などを詳しくまとめさせて頂きます。

なお、今日の記事(地図から下の文章)の大部分は、このブログとは別に私が管理・更新している、職場のブログの、今年10月14日に書いた記事からの転載です(一部書き直してはいますが大半は同一です)。
ですから、もしネット上でこの記事とほとんど同一内容のブログを見つけられた時は、どちらか一方のブログの作者がもう一方のブログの記事を勝手に引用もしくは真似をして書いたためではなく、同一人物が書いたために内容が共通しているのだなと、温かい眼で御理解いただければ幸いです(笑)。

また下の図は、現在(平成20年)の地図に、「手宮港」「札幌」「幌内炭鉱」の各位置を分かりやすく図示したものなのですが、現在の地図のはずなのに、道内の鉄道路線の中でも特に代表的な主要幹線である千歳線や石勝線などがなぜか掲載されておらず、地図としてはやや正確さに欠ける(略し過ぎている)点があります。この地図は、あくまでも手宮・札幌・幌内の位置関係を示すだけの地図である事を御理解下さい。



明治元年、石狩(現在の札幌近郊)のきこり・木村吉太郎が、小樽量徳寺の建設に必要な木材の切り出しのため、石狩川の支流を遡って三笠の奥地・幌内の沢に入った所、たまたま炭層が露出しているのを見つけ、その一部を持ち帰って開拓使に差し出しました。
当初開拓使はこれに注目していなかったのですが、明治5年、札幌の早川長十郎が幌内に行き、石炭の塊を取ってきてまた開拓使に差し出した所、これが、当時物産取調掛の任にあった榎本武揚(箱館戦争では旧幕府軍を率いて明治新政府と戦いましたが、降伏後は政府に仕え官吏になっていました)の目にとまり、分析した結果、極めて良質な石炭であることが確認されました。
そのため、明治6年、榎本からその知らせを受けた開拓使雇アメリカ人の地質鉱山師ライマン・スミスが幌内で本格的な現地調査を実施し、ライマンは「炭質も非常に良く埋蔵量も多い」と開拓使に報告をしました。

このため、幌内炭田の本格的な開発と、幌内から石炭を輸送する方法とが急務の課題として模索されることになり、開拓使顧問のアメリカ人ホーレス・ケプロンは開拓使長官の黒田清隆に対して、幌内から石狩川まで鉄道を敷設し石狩川からは水運で小樽港に石炭を運ぶという案と、幌内から太平洋側の室蘭まで直接鉄道を敷設して石炭を運ぶ案の2案を提案しました。
この2案のうち、ケプロンは天然の良港である室蘭に注目して、特に室蘭までの鉄道建設を強く主張しました。

しかし、「実地を調査した事もなく測量もしていないばかりか、鉄道や港湾の築造費の見積もりさえも出していないケプロンの主張では、実現に至るのは容易ではない」として榎本武揚はケプロンの案に対して猛反発しました。
また、札幌農学校(北海道大学の前身)の初代教頭として明治9年にアメリカから迎えられていたウィリアム・スミス・クラークも、室蘭が良港である事は認めながらも、札幌と室蘭の間は火山灰地帯でありその地域の発展は容易ではないとして、札幌~室蘭間の鉄道建設には反対し、クラークは独自に、幌内から札幌を経て小樽に通じる鉄道の建設の必要性を力説しました。

このように、暫くは幌内の石炭搬出のルートを巡って議論が続いていたのですが、明治11年、開拓使札幌本庁の媒田(ばいでん)開採事務掛・山内提雲事務長(旧幕臣ながら英語に堪能で拓殖の知識を有していた事から開拓使大書記官の地位にありました)が改めて現地を巡察し、その結果、山内は「幌内から幌向太(現在の幌向)まで鉄道を敷設し、そこからは船舶により石狩川を利用して小樽港に輸送する計画のもとに工事に着手すべき」という前提の下、工事の順序を定めました。
幌内から室蘭への鉄道敷設は経費の都合上不可能であり、また、札幌~小樽間には神威古潭(現在の張碓付近)の断崖絶壁があり車道の築造も実現していない状態では、これは当然の方針とも言えました。

そして、鉄道建設の動きが本格化し、黒田清隆から鉄道技師の人選を任されたアメリカ駐在公使の吉田清成は、当時まだ36歳という若さながら鉄道建設に十分な経験を有していた土木技術者のジュセフ・ユリー・クロフォード(南北戦争中に北軍の大尉として野戦の土塁構築などに従事した後、戦後はインディペンデンス鉄道の鉄道建設長や監督としてその手腕が高く評価されていました)をアメリカから招く事にし、クロフォードはインディペンデンス鉄道の社長の推薦もあって開拓使に雇われ、明治11年12月13日、アメリカから札幌へとやって来ました。

当時の日本の人口は3,592万5千人で、うち北海道の人口は僅か21万5千人(当時北海道最大の都市であった函館の人口は3万6千人、北海道二番目の都市であった小樽でも人口は僅か1万人、現在約190万人の人口を誇る札幌の人口はこの時たったの8千人)で、全国の総人口の0.6%にも満たない北海道に国内3番目となる鉄道が開設された事は、当時の国民にとっても驚きであり、またそれは、当時の政府にとって、それだけ北海道の資源開発は緊急を有する事を意味していました。

札幌へとやって来た翌月(明治12年1月)に黒田清隆から鉄道工事顧問に任じられたクロフォードは、早速現地の調査を行い、「ケプロンの案は残念ながらどちらも破棄しなければなりません。幌内から札幌を経て小樽に敷設するのが一番良い方法です」と結論付け(現地調査の結果クロフォードは前述のクラークと同じ案になったのです)、石狩川まで鉄道を建設して石狩川からは水運により石炭を小樽まで搬出する案も、室蘭まで直接鉄道を建設して搬出する案も、どちらも破棄しました(石狩川周辺は湿地が多く設備の設置や駅夫の居住に適さないうえ、石狩川は冬季の結氷により舟を利用できるのは年間150日程度しかない事が判明したため、石狩川の水運を利用する方法も現実的ではないと判断したのです)。

そしてクロフォードは、幌内から札幌を経て小樽に鉄道を敷設するという前提のもとで鉄道建築見込書を作成し開拓使に提出し、同年3月には鉄道線路予定線を測量し鉄道築造費概算書も作成・提出しています。
翌明治12年の春には、クロフォードは開拓使に申し出て、工事が最も困難を極めるであろう熊碓(くまうす)~銭函間の実地調査を行い、その結果、約1ヵ月で神威古潭の断崖絶壁を掘り進み、5万円(現在の5~15億円余)の工事見積もりで年内に完成させるという計画を立てました。

開拓使はこの計画を承認し、クロフォードを現場監督に任じて、同年6月から熊碓~銭函間の道路開削工事が始まりました。この工事は僅か5ヶ月で終了し、しかも工費も、見積もりの5万円よりもかなり安い4万4千円余で済みました。
同年12月6日にはこの車道の開通式が挙行され、手宮~札幌間で客馬車(冬季はソリ)の営業が始まりました。料金は大人が39銭、13歳以下が19銭で、39銭は現在でいえば4千円程になるのでかなり割高な料金といえますが、しかし人力車で札幌~小樽間が2円以上もしたので、それに比べれば大量輸送は大分安かった事になります。
ところが、小樽と札幌を連絡する重要な幹線道路でありながら、この車道は1年も経たないで廃止になりました。クロフォードは翌年、この車道の上に鉄道を敷設したからです。その鉄道が、現在の函館本線です。

明治12年8月、クロフォードは現地調査の結果、「将来北海道全域に鉄道を敷設しそれと連絡するためには、幌内から小樽港に鉄道を敷設する事が有利であり、幌内から江別・札幌を経て直接小樽の手宮港へと鉄道を敷設すべきである」という意見を改めて開拓使に建議しました。
この時クロフォードが出した綿密な実地調査報告は、開拓使やケプロンを唸らせる程の説得力があり、そのため黒田清隆はこの建議を受け入れて、幌内~小樽間に鉄道を建設する事を正式に決定し、建設費の増額を政府に申請し、同年12月にその認可を得て、大晦日間近の同月27日から、手宮から鉄道線路の測量が始まりました。

新たに鉄道建設技師長となったクロフォードは、補助手の雇い入れと、機関車始めその他の鉄道車両やレールなどの器材購入のためアメリカに一時帰国し、鉄道建設は、クロフォードが留守中の明治13年1月8日から始まり、小樽市若竹町の第3トンネル(今はもうありません)の掘削、手宮海岸の埋め立て、入船町の陸橋の架設などが行われました。
工事現場には、コレラの流行や台風による被害など様々な困難が立ちはだかったものの、同年6月、クロフォードがアメリカから技師4人と共に札幌に帰って来た頃には、毎日1,500人以上の労働者達が鉄道工事に従事し、工事は遅れる事なく着々と進んでいたそうでうす。
7月には、クロフォードらアメリカ人技師達は揃って銭函~札幌間の土木工事に取りかかり、手宮では工場などの建設にも着手するなど、工事は順調に進捗していきました。

そして同年9月28日、後に「義経号」「弁慶号」とそれぞれ命名される事になる、クロフォードがアメリカで購入してきた蒸気機関車2両と、客車8両、台車17両、函車9両、レールなどの鉄道資材1,940tを積載したアメリカの風帆船「ジェラルド・C・トベイ号」が、ニューヨーク港から134日かけて、大西洋とインド洋を経て無事手宮港に到着し、10月17日にはほぼ完成に近い手宮桟橋に接岸し、11月4日に全ての荷揚げ作業を終えました。

下の写真は、昨年の12月、さいたま市にある鉄道博物館を見学して来た際に同館内で私が撮影してきた、静態保存されている7100形式蒸気機関車「弁慶号」で(この写真は昨年12月11日の記事からの再録です)、この弁慶号が、幌内鉄道を(つまり北海道を)初めて走った蒸気機関車です(現在は鉄道記念物に指定されています)。



この機関車は200馬力で重量26.1tの小型機ながら、当時のアメリカでは最新型の機関車で、火の粉止め付きのダイヤモンドスタック形の煙突、先頭部に大きく張り出したカウキャッチャー(牛馬などが触れた時これではね飛ばして轢死させるのを防ぐ排障器)、大きな鐘などが装備された典型的なアメリカンスタイルのSLで、西部劇に出てくる機関車さながらの雰囲気を醸し出しているのが大きな特徴です。

そして、10月1日には手宮桟橋からレールの敷設工事が始まったのですが、「札幌に向かって1日1マイル(約1.6km)のペースで工事が進んでいる」というニュースは東京や横浜にも流れ、英字新聞にも取り上げられる程のセンセーションを起こしました。
また、クロフォードが機関車等の購入のため一時帰国したアメリカから再び北海道に戻る頃には、幌内鉄道の建設はアメリカでも話題になっており、アメリカ国内の新聞でも幌内鉄道建設の様子が詳しく報じられていました。
日本の最北端の地である北海道にアメリカ式の鉄道が建設される事は、当時最新の鉄道技術を持っていたアメリカにとっても大きな誇りだったのです(先に新橋~横浜間に開通していた日本で最初の鉄道はイギリス式の鉄道でした)。

こうして、同月24日までには熊碓第4トンネル(現在の小樽築港駅から約500m札幌方の地点)までの工事が完了し、早速試運転が行われました。
下の写真がこの時(明治13年10月24日)の試運転の様子を写したもので、小樽入舟陸橋を渡る機関車「弁慶号」と、弁慶号に牽引された車両2両(無がい車に支柱を立てテントを張って客車に見立て来客を乗せました)が写っています。



機関車の先頭には日章旗と星条旗が掲げられていおり、どう見ても人が座る所とは思われない機関車の最前部には2人の人間がドカッと座っている様子も写っていますが、この2人が、幌内鉄道の工事を指揮したクロフォードと、媒田開採事務掛副長の松本荘一郎です。
こんな所に座って試運転に臨むとは、2人ともよっぽど嬉しかったのでしょうね(笑)。

この試運転列車は、小樽港に停泊していた官用船玄武丸の3発の祝砲を受け、午後2時半、手宮を出発し、汽車を一目見ようと集まった沿線の見物人達を驚かせながら、熊碓までの4.8kmを往復しました。
この時の試運転の様子を、北海道開拓誌では以下のように伝えています。『実に北海道にては、汽車の実物を見しはこの日が初めてのことなれば、沿道の見物人は山をなす勢いにて、その恐るべきを知らず髪を触るるばかりに近ずくものあり。また、見るも恐ろしきというように遠見する者ありて喝采の声は、号鐘汽笛と共に絶ゆる間もなく、車上の人にはまた一つの奇観とも見らるるならん』。

そして、11月11日には手宮~銭函間で仮営業を開始し、同月18日には軽川(現在の手稲)まで、同月20日には札幌(北6条西5丁目、現在の札幌駅より西側150m)まで延伸し、手宮から札幌までの35.9kmは僅か2ヶ月でレールの敷設を終えました。
こうして同月28日、開拓使は待望の手宮~札幌間の汽車運転式を盛大に挙行し、この日、幌内鉄道は正式に営業を開始しました。この時の列車は、客車3両を牽引した弁慶号で、午前9時に手宮を出発し、3時間かけて正午に札幌に到着したのですが、札幌停車場では、開拓使の官僚や札幌の住民達が興奮を隠し切れない様子で列車の到着を朝から待っていたそうで、列車が到着すると、列車は人々の歓喜に包まれたのでした。
ちなみに、下の写真は明治15年に撮影された札幌停車場の情景で、手宮行きの客貨混合列車が発車する所です。



手宮~札幌間の鉄道建設は、起工から完成まで僅か11ヶ月という、驚異的とも言える短期間でしたが、このような短期間で工事を終える事ができたのは、アメリカで開拓鉄道を手がけたクロフォードの技術と、前年に開通していた小樽~銭函間の車道や既にあった銭函~札幌間の人道に枕木を並べレールを犬釘で止めるだけという工法を採った事によります。
とはいえ、前述のようにクロフォードは機関車等の購入のためアメリカに一時帰国していたため、クロフォードが実際に現場で自ら陣頭指揮をしたのは明治13年6月~11月までの5ヶ月間だけで、それだけに、クロフォードの代理を務めた松本荘一郎副長の苦労は実に大きいものがあり、この時期に日本人が経験した鉄道技術は、その後の日本の鉄道建設に多大な貢献を果たす事になりました。

クロフォードは、明治14年2月、北海道での鉄道建設の功績により勲四等旭日小綬章を贈られ、明治15年8月31日、任期満了により解職された後は(クロフォードが設計した豊平川鉄橋の流失が解任の理由という説もあります)アメリカに帰国し、ペンシルバニア鉄道副社長補佐、ニューヨーク連絡鉄道技師長、ペンシルバニア鉄道顧問などを務めて生涯鉄道開発に携わり、日本からの留学生の面倒もよく見るなど日本との交流も長く続け、明治40年には勲三等旭日章を追贈され、大正13年、83歳でフィラデルフィアで亡くなりました。

幌内鉄道はその後も工事が続けられて、レールは札幌から更に東へと敷設され、明治15年11月13日には当初の計画通り線路は幌内でまで達し、手宮~幌内間約90kmが全線開通しました。
手宮~幌内間は、当時は国内最長の鉄道路線(走行時間は約5時間)で、幌内鉄道の全通によって手稲、厚別、野幌、江別、岩見沢などの新しい集落が沿線に開かれていき、また、幌内炭鉱を始め各地で掘り出された豊富な石炭はこの鉄道を介して小樽まで輸送され、小樽からは船で各地に輸送されて国内の産業を支えました。
そして、鉄道が漸次内陸に延長されるに従って、開拓の前線は急速に前進・拡大していき、北海道の開拓は大いに促進されていったのです。

ちなみに、下の写真はマイクロエース社から発売されている、Nゲージ鉄道模型の7100形蒸気機関車(弁慶号)と客車4両のセットです(定価17,640円)。こうして模型で見てみると、より具体的に当時の列車編成のイメージが湧いてきます。



なお、客車4両のうち「にさ35」は2等・3等合造客車で、他の3両はいずれも3等客車です。

和歌山市駅

2008年11月25日 | 南海
一昨年の7月、2泊3日の日程で関西を旅行した際に、私は初めて、和歌山市西蔵前にある南海の和歌山市駅(但し2番線のみJRが使用、通称は市駅)を利用・見学してきました。

和歌山市に行ったこと自体が私には初めてのことで、和歌山市美園町にあるJRの和歌山駅(但し9番線のみ和歌山電鐵が使用、通称は和駅)とともに、南海の和歌山市駅は私にとって特に印象に残った駅の一つとなりましたので、今日はこの和歌山市駅を紹介させていただきます。





南海本線における大阪側のターミナルが難波駅であるのに対し、和歌山市駅は、同線の和歌山側のターミナルに当たり、JRの和歌山駅とともに和歌山市の表玄関に当たる駅でもあります。
もっとも、和歌山市駅の利用者数は昭和49年に和歌山駅に抜かれてしまい、現在、和歌山市駅周辺は往時に比べると少し寂れてしまった感が拒めませんが…。

ちなみに、和歌山駅からは天王寺経由で大阪駅・新大阪駅・京都駅に直通する特急がそれぞれ走っているため、両駅を比較すると、利便性の面ではJR和歌山駅の方に軍配が上がりますが、行政の中心地である県庁・市役所や、観光の中心地である和歌山城などに近いのは、昔も今も和歌山市駅の方です。

上の写真2枚のうち、上段が、和歌山市駅の駅ビルである南海和歌山ビルで、同ビルには高島屋が入っています。
下段は、駅ビルの2階にある改札口です。全てのホームは駅ビルから跨線橋で結ばれています。





上の写真2枚のうち、上段は、和歌山市駅の3番線で撮った難波行きの特急「サザン」で、下段は、同駅の構内図です。

図のように、和歌山市駅は3面6線の駅なのですが、現在7番線は使用停止中(和歌山港線のワンマン普通列車が使用していました)なので、実質的には3面5線の駅といえます。
難波方面から同駅に向かった場合、3・6番線は行き止まりになっており、4・5番線のみが和歌山港方面に通じています。

ちなみに6番線と旧7番線は、線路や架線は繋がっているのですが、実際には、両線の境界には砂利が盛られ、そこには線路終端標識も立てられているため、列車は直通できない構造になっています。

2番線はJRが南海から借用しており、南海の駅でありながらこのホームからはJRの列車が発着し、同駅と和歌山駅を連絡する列車が走っています。
かつてあった1番線もJRが使っていたのですが、2線も使うほどの需要はかなったため1番線は撤去され、かつて1番線があった場所は現在は駐車場になっています。

なお、会社が異なるため2番ホームの入口には中間改札があり、2番ホームと3番ホームは向かい合わせになっているもののその境界にも仕切りが設けられ、中間改札を経由せずには両ホーム間の直接の行き来はできない構造になっています。

リニア、新大阪駅へ乗り入れ

2008年11月20日 | JR


今日の記事は、昨年11月6日の記事(リニア中央新幹線関連情報)の続報です。

最近は、リニア中央新幹線(日本列島の中央部を東西に走り、東京~大阪間を時速500km・約1時間結ぶ新たな幹線)関連の話題とえば、「先行開業する東京~名古屋間の路線は、南アルプスを貫通する直線ルートを採るのか、それとも当初の計画通り南アルプスを避けて長野方面に大きく迂回するルートを採るのか」「速さを売りにしたいJR東海は南アルプスを貫通させたがっているが、それに対して長野県側はウチの方に迂回しろと言って強硬に反対している」といった話題にばかり集中している感がありますが、今月7日、これとは別件の話題として、JR東海の葛西敬之会長が、名古屋市内での講演の中でリニア中央新幹線について「東京、名古屋、大阪では新幹線とリニアのどちらでも乗り換えが可能にしたい」と述べ、現在有力視されている品川駅と名古屋駅に加え、大阪延伸時には新大阪駅にリニアを乗り入れたいとの意向を初めて示しました。

まだ相当先の話ですが、関西に乗り入れてくるリニアは、大阪駅や、そのために新たに開設される駅ではなく、新大阪駅をターミナルとする可能性が高くなったという事です。
もしそうなれば、新大阪駅と、梅田・難波方面とをいかにスムーズに連絡させるか、という新たな課題が出てきますので(現在、新大阪・梅田・難波を連絡しているのは地下鉄御堂筋線だけです)、計画だけは昔からあるものの未だ着工の気配を見せていない大阪市内各予定線(南海汐見橋とJR難波から新大阪までを結ぶなにわ筋線や、十三と新大阪を結ぶ阪急の新大阪連絡線など)の建設も、きっと具体化するでしょうね。

ちなみに、JR東海の葛西会長は、「中央新幹線ができれば東海道新幹線から乗客の55%が移る」との見通しも示したそうで、リニア開通後の東海道新幹線は、現在の「のぞみ」中心の運転から「ひかり」や「こだま」が中心の運転に変るそうです。

鉄道コレクション 阪急810系

2008年11月09日 | 鉄道模型(N)


一昨年発売された920系、昨年発売された1010系に続く「阪急オリジナル鉄道コレクション第3弾」として、先月11日に阪急から810系の2両セット(Nゲージサイズ、組立・塗装済完成品、ディスプレイ用レール付、2,000円)が発売され、私も先月、これを購入しました。
とはいえ、この製品は基本的に阪急各駅のサービスセンターでしか扱っておらず、通販もしていないため、札幌在住の私はネットオークションでこれを入手しました。





810系は、昭和25年~60年までの長きにわたって阪急の神戸線系統(神戸本線・今津線・伊丹線・甲陽線)や宝塚線で活躍した、ナニワ工機(のちのアルナ工機)製の電車で、阪急の吊り掛け駆動方式の車両の中では最後まで営業運転を行っていた形式でもあります。
ちなみに、吊り掛け駆動方式とはモーターから車輪に動力を伝達する仕組みの一種で、この方式には、構造が非常に簡単、大型モーターにも使用しやすいというメリットがある反面、モーター重量の約半分が車軸に直接かかるため線路・台車・モーター自体への衝撃が極めて激しく高速運転には向いていない、乗客にとっては乗り心地が良くない、発車の際には激しい騒音と振動が起こるといったデメリットも多いため、現在の鉄道車両にはほとんど採用されていません。

模型は、引退直前の晩年期の810系を再現しており、シールドビーム型ヘッドライトを装備し(当初は丸形のヘッドライトを装備)、車内の座席はロングシート仕様(当初は一部が固定クロスシート)、扉は3扉仕様(当初は2扉)となっております。
いずれ、この車両に鉄道模型専用の別売りのモーターを組み入れて、Nゲージ車両としてレールの上を走らせてみたいです。

碓氷峠鉄道文化むらに行ってきました

2008年11月02日 | 博物館・記念館等
先月末、私は2泊3日の日程で東京へ旅行に行ってきたのですが、折角北海道から関東まで行ったので、東京からは少し離れていますが群馬県まで足を延ばし、同県安中市にある鉄道テーマパーク「碓氷峠鉄道文化むら」へ行ってきました。



明治26年4月1日、2年間に及ぶ難工事の末、横川~軽井沢間に11.2kmの鉄道、通称・碓氷線が開通しました。
この工事は、最急勾配66.7パーミルという碓氷峠の急坂に、26ヶ所のトンネルを掘削し、18ヶ所の橋梁を架橋するという、近代日本史上前例の無い大規模な土木行事で、500人余りもの犠牲者を出した程の困難に満ちた工事でした。
しかし、長野県と群馬県の県境・碓氷峠を越える鉄道は、東京(太平洋側)と長野・北陸(内陸・日本海側)を結ぶ大動脈を構築するためにも、当時の日本にはどうしても必要であり、そのため当時の人々は汗と涙と血を流しながら、幾多の苦難の末にこの路線を建設したのです。

そして、この時完成した碓氷線には、日本で初めてアプト式が採用されました。
アプト式とは、車体中央部の底に歯車を付けた機関車が、その歯車と、2本のレールの間に敷かれたラックレールというギザギザ状の特殊な軌条を噛み合わせながら急勾配を昇降する方式のことで、碓氷線では、工費の安さや工期の短さなどから、ドイツのハルツ鉄道を参考にしてこの方式が採用されたのです。

しかし、アプト式の特殊な施設や機関車は、保守の効率が悪く、更に輸送需要の増大にも対応できなくなってきたことから、昭和38年、横川~軽井沢は開業70年目にして、従来の路線を残しつつそれと並走する形で新路線が開業し、アプト式運転は廃止され粘着式運転(通常レールの摩擦力のみによって走行する運転)に切り替えられました。
新線開業後は、EF62形、EF63形というこの区間専用に開発された強力な電気機関車が、アプト式機関車に代わって碓氷峠の新たな主役となり、峠のシェルパとして活躍を続けました(EF62とEF63の重連運転が行われました)。

しかし、平成9年9月30日、多くの人々から惜しまれながら、104年に亘り峠越えの苦しみ・喜びなど幾多のエピソードや歴史を刻んできた碓氷線(横川~軽井沢間)は廃止されました。
峠道を長大トンネルで抜け時速200km以上で快走する長野新幹線の開業によって、碓氷線はその役目を終え、峠越えの役目は新幹線に引き継がれたのです。

そして、常に最先端の技術を導入し日本の鉄道史を飾った、碓氷峠の鉄道の廃止を記念して、地元の安中市(当時は松井田町)では、かつて碓氷峠を越える機関車の整備を行っていた横川運転区の構内を利用して、鉄道テーマパークを造ることにしました。
前置きがかな~り長くなりましたが(笑)、それが、今回私が見学してきた「碓氷峠鉄道文化むら」です。
合計30両近い歴史的車両を展示する施設として、総面積4.3ヘクタールの広大な公園に平成11年に開園した鉄道テーマパークです。
私にとって、ここは「一度は行かなくては!」と以前から思い続けていた場所でもありました。

碓氷峠鉄道文化むらには多くの鉄道車両は展示・保存されていますが、北海道で生まれ育った私にとっては、これだけ沢山の直流電気機関車を一同に見る機会はまず無く(JR北海道の電化区間はいずれも交流です)、また、昭和初期の香りが漂うマルーン色のアンティックな機関車の姿はとても新鮮でした。
というわけで、「スゲーな、いやマジで!」とやや興奮しながら(笑)、展示車両をじっりと見学してきました。
写真も撮りまくってきましたが、それらを全て掲載することはできないので、以下にその一部だけを貼らせていただきます。



↑ ED42形 直流電気機関車。
碓氷峠で使用された、急勾配区間専用のアプト式機関車です。昭和初期の香りが、もうプンプンと漂ってきます(笑)。
昭和38年、碓氷線が粘着式運転に切り替えられ、アプト式ラックレールが廃止されたことで現役を引退し廃車となりましたが、昭和42年に準鉄道記念物に指定されました。



↑ EF53形 直流電気機関車。
戦前の国産旅客用標準機関車で、性能や取り扱いの面で同時代の他の機関車よりも優れていたため、特急「富士」や「つばめ」などの優等列車の牽引を中心に使用され、16~18号機の3両はお召し列車用の機関車にも指定されました。
運転席の入口は側面ではなく正面のデッキにあるのですが、私はつい気持ちを抑えられなくなってしまい、そのデッキに乗ってしまいました(笑)。



↑ EF62形 直流電気機関車。
碓氷線に直通する列車の牽引用に開発された、急勾配での運用に対応した特殊設計の機関車です。碓氷峠専用補機であるEF63形と重連で運転されました。



↑ EF62の運転室の内部です。
アナログな機器が満載で、新幹線の運転台とはまるで雰囲気が異なります(笑)。



↑ EF63形 直流電気機関車。
常に重連運転(2両1組)の補機として使用され、電車・ディーゼルカー・客車・貨物列車を問わず碓氷線を通過する全ての列車に連結され、「ロクサン」の愛称で親しまれました。
碓氷峠鉄道文化むらでは動態保存されており(但し電圧は本来の1500Vから750Vに降圧されています)、私がこの写真を撮った時は、かなりの低速ながら構内の線路を丁度走行している最中でした。



↑ DD51形 ディーゼル機関車。
この機関車が、現在も日本各地の非電化区間で寝台特急から貨物列車まで様々な列車を牽引して活躍している、日本を代表する液体式ディーゼル機関車「DD51」のトップナンバー(649両生産されたDD51の1号機)です。
この1号機は、量産された2号機以降とは運転室の庇や前部の形状が異なっており、また塗装がマルーンであることから、私達が各地でよく目にするDD51とはかなり印象が異なっています。

現在、碓氷線の廃線跡は大半でレールが撤去されているものの、路盤、橋梁、トンネル等はそのまま保存されており、地元では再び横川~軽井沢に鉄道を復活させようと運動をしているので、碓氷線は今後の動向にも要注目です。
群馬県に行かれた方は是非、碓氷峠鉄道文化むらにも足を運んでみて下さい。そして、先人達の苦労を偲びつつ、特異な歴史を歩んできた碓氷峠の鉄道の歴史に触れて下さい!