明治5年10月14日に開業した新橋(後の汐留貨物駅)~横浜(現在の根岸線桜木町駅)間、明治10年2月5日に開業した京都~神戸間に次ぐ国内3番目の鉄道として、明治13年の今日(11月28日)、幌内炭鉱(現在の三笠市)の石炭を小樽の手宮港に運ぶ事を主目的とした「官営幌内鉄道」の手宮~札幌間が開業しました。
そこで今日は、関西圏の鉄道とは関係のない話で恐縮なのですが、幌内鉄道の開業記念日であることに因んで、私の地元・札幌に建設された日本で3番目に古い鉄道「官営幌内鉄道」の建設と開業について、その経緯などを詳しくまとめさせて頂きます。
なお、今日の記事(地図から下の文章)の大部分は、このブログとは別に私が管理・更新している、職場のブログの、今年10月14日に書いた記事からの転載です(一部書き直してはいますが大半は同一です)。
ですから、もしネット上でこの記事とほとんど同一内容のブログを見つけられた時は、どちらか一方のブログの作者がもう一方のブログの記事を勝手に引用もしくは真似をして書いたためではなく、同一人物が書いたために内容が共通しているのだなと、温かい眼で御理解いただければ幸いです(笑)。
また下の図は、現在(平成20年)の地図に、「手宮港」「札幌」「幌内炭鉱」の各位置を分かりやすく図示したものなのですが、現在の地図のはずなのに、道内の鉄道路線の中でも特に代表的な主要幹線である千歳線や石勝線などがなぜか掲載されておらず、地図としてはやや正確さに欠ける(略し過ぎている)点があります。この地図は、あくまでも手宮・札幌・幌内の位置関係を示すだけの地図である事を御理解下さい。
明治元年、石狩(現在の札幌近郊)のきこり・木村吉太郎が、小樽量徳寺の建設に必要な木材の切り出しのため、石狩川の支流を遡って三笠の奥地・幌内の沢に入った所、たまたま炭層が露出しているのを見つけ、その一部を持ち帰って開拓使に差し出しました。
当初開拓使はこれに注目していなかったのですが、明治5年、札幌の早川長十郎が幌内に行き、石炭の塊を取ってきてまた開拓使に差し出した所、これが、当時物産取調掛の任にあった榎本武揚(箱館戦争では旧幕府軍を率いて明治新政府と戦いましたが、降伏後は政府に仕え官吏になっていました)の目にとまり、分析した結果、極めて良質な石炭であることが確認されました。
そのため、明治6年、榎本からその知らせを受けた開拓使雇アメリカ人の地質鉱山師ライマン・スミスが幌内で本格的な現地調査を実施し、ライマンは「炭質も非常に良く埋蔵量も多い」と開拓使に報告をしました。
このため、幌内炭田の本格的な開発と、幌内から石炭を輸送する方法とが急務の課題として模索されることになり、開拓使顧問のアメリカ人ホーレス・ケプロンは開拓使長官の黒田清隆に対して、幌内から石狩川まで鉄道を敷設し石狩川からは水運で小樽港に石炭を運ぶという案と、幌内から太平洋側の室蘭まで直接鉄道を敷設して石炭を運ぶ案の2案を提案しました。
この2案のうち、ケプロンは天然の良港である室蘭に注目して、特に室蘭までの鉄道建設を強く主張しました。
しかし、「実地を調査した事もなく測量もしていないばかりか、鉄道や港湾の築造費の見積もりさえも出していないケプロンの主張では、実現に至るのは容易ではない」として榎本武揚はケプロンの案に対して猛反発しました。
また、札幌農学校(北海道大学の前身)の初代教頭として明治9年にアメリカから迎えられていたウィリアム・スミス・クラークも、室蘭が良港である事は認めながらも、札幌と室蘭の間は火山灰地帯でありその地域の発展は容易ではないとして、札幌~室蘭間の鉄道建設には反対し、クラークは独自に、幌内から札幌を経て小樽に通じる鉄道の建設の必要性を力説しました。
このように、暫くは幌内の石炭搬出のルートを巡って議論が続いていたのですが、明治11年、開拓使札幌本庁の媒田(ばいでん)開採事務掛・山内提雲事務長(旧幕臣ながら英語に堪能で拓殖の知識を有していた事から開拓使大書記官の地位にありました)が改めて現地を巡察し、その結果、山内は「幌内から幌向太(現在の幌向)まで鉄道を敷設し、そこからは船舶により石狩川を利用して小樽港に輸送する計画のもとに工事に着手すべき」という前提の下、工事の順序を定めました。
幌内から室蘭への鉄道敷設は経費の都合上不可能であり、また、札幌~小樽間には神威古潭(現在の張碓付近)の断崖絶壁があり車道の築造も実現していない状態では、これは当然の方針とも言えました。
そして、鉄道建設の動きが本格化し、黒田清隆から鉄道技師の人選を任されたアメリカ駐在公使の吉田清成は、当時まだ36歳という若さながら鉄道建設に十分な経験を有していた土木技術者のジュセフ・ユリー・クロフォード(南北戦争中に北軍の大尉として野戦の土塁構築などに従事した後、戦後はインディペンデンス鉄道の鉄道建設長や監督としてその手腕が高く評価されていました)をアメリカから招く事にし、クロフォードはインディペンデンス鉄道の社長の推薦もあって開拓使に雇われ、明治11年12月13日、アメリカから札幌へとやって来ました。
当時の日本の人口は3,592万5千人で、うち北海道の人口は僅か21万5千人(当時北海道最大の都市であった函館の人口は3万6千人、北海道二番目の都市であった小樽でも人口は僅か1万人、現在約190万人の人口を誇る札幌の人口はこの時たったの8千人)で、全国の総人口の0.6%にも満たない北海道に国内3番目となる鉄道が開設された事は、当時の国民にとっても驚きであり、またそれは、当時の政府にとって、それだけ北海道の資源開発は緊急を有する事を意味していました。
札幌へとやって来た翌月(明治12年1月)に黒田清隆から鉄道工事顧問に任じられたクロフォードは、早速現地の調査を行い、「ケプロンの案は残念ながらどちらも破棄しなければなりません。幌内から札幌を経て小樽に敷設するのが一番良い方法です」と結論付け(現地調査の結果クロフォードは前述のクラークと同じ案になったのです)、石狩川まで鉄道を建設して石狩川からは水運により石炭を小樽まで搬出する案も、室蘭まで直接鉄道を建設して搬出する案も、どちらも破棄しました(石狩川周辺は湿地が多く設備の設置や駅夫の居住に適さないうえ、石狩川は冬季の結氷により舟を利用できるのは年間150日程度しかない事が判明したため、石狩川の水運を利用する方法も現実的ではないと判断したのです)。
そしてクロフォードは、幌内から札幌を経て小樽に鉄道を敷設するという前提のもとで鉄道建築見込書を作成し開拓使に提出し、同年3月には鉄道線路予定線を測量し鉄道築造費概算書も作成・提出しています。
翌明治12年の春には、クロフォードは開拓使に申し出て、工事が最も困難を極めるであろう熊碓(くまうす)~銭函間の実地調査を行い、その結果、約1ヵ月で神威古潭の断崖絶壁を掘り進み、5万円(現在の5~15億円余)の工事見積もりで年内に完成させるという計画を立てました。
開拓使はこの計画を承認し、クロフォードを現場監督に任じて、同年6月から熊碓~銭函間の道路開削工事が始まりました。この工事は僅か5ヶ月で終了し、しかも工費も、見積もりの5万円よりもかなり安い4万4千円余で済みました。
同年12月6日にはこの車道の開通式が挙行され、手宮~札幌間で客馬車(冬季はソリ)の営業が始まりました。料金は大人が39銭、13歳以下が19銭で、39銭は現在でいえば4千円程になるのでかなり割高な料金といえますが、しかし人力車で札幌~小樽間が2円以上もしたので、それに比べれば大量輸送は大分安かった事になります。
ところが、小樽と札幌を連絡する重要な幹線道路でありながら、この車道は1年も経たないで廃止になりました。クロフォードは翌年、この車道の上に鉄道を敷設したからです。その鉄道が、現在の函館本線です。
明治12年8月、クロフォードは現地調査の結果、「将来北海道全域に鉄道を敷設しそれと連絡するためには、幌内から小樽港に鉄道を敷設する事が有利であり、幌内から江別・札幌を経て直接小樽の手宮港へと鉄道を敷設すべきである」という意見を改めて開拓使に建議しました。
この時クロフォードが出した綿密な実地調査報告は、開拓使やケプロンを唸らせる程の説得力があり、そのため黒田清隆はこの建議を受け入れて、幌内~小樽間に鉄道を建設する事を正式に決定し、建設費の増額を政府に申請し、同年12月にその認可を得て、大晦日間近の同月27日から、手宮から鉄道線路の測量が始まりました。
新たに鉄道建設技師長となったクロフォードは、補助手の雇い入れと、機関車始めその他の鉄道車両やレールなどの器材購入のためアメリカに一時帰国し、鉄道建設は、クロフォードが留守中の明治13年1月8日から始まり、小樽市若竹町の第3トンネル(今はもうありません)の掘削、手宮海岸の埋め立て、入船町の陸橋の架設などが行われました。
工事現場には、コレラの流行や台風による被害など様々な困難が立ちはだかったものの、同年6月、クロフォードがアメリカから技師4人と共に札幌に帰って来た頃には、毎日1,500人以上の労働者達が鉄道工事に従事し、工事は遅れる事なく着々と進んでいたそうでうす。
7月には、クロフォードらアメリカ人技師達は揃って銭函~札幌間の土木工事に取りかかり、手宮では工場などの建設にも着手するなど、工事は順調に進捗していきました。
そして同年9月28日、後に「義経号」「弁慶号」とそれぞれ命名される事になる、クロフォードがアメリカで購入してきた蒸気機関車2両と、客車8両、台車17両、函車9両、レールなどの鉄道資材1,940tを積載したアメリカの風帆船「ジェラルド・C・トベイ号」が、ニューヨーク港から134日かけて、大西洋とインド洋を経て無事手宮港に到着し、10月17日にはほぼ完成に近い手宮桟橋に接岸し、11月4日に全ての荷揚げ作業を終えました。
下の写真は、昨年の12月、さいたま市にある鉄道博物館を見学して来た際に同館内で私が撮影してきた、静態保存されている7100形式蒸気機関車「弁慶号」で(この写真は昨年12月11日の記事からの再録です)、この弁慶号が、幌内鉄道を(つまり北海道を)初めて走った蒸気機関車です(現在は鉄道記念物に指定されています)。
この機関車は200馬力で重量26.1tの小型機ながら、当時のアメリカでは最新型の機関車で、火の粉止め付きのダイヤモンドスタック形の煙突、先頭部に大きく張り出したカウキャッチャー(牛馬などが触れた時これではね飛ばして轢死させるのを防ぐ排障器)、大きな鐘などが装備された典型的なアメリカンスタイルのSLで、西部劇に出てくる機関車さながらの雰囲気を醸し出しているのが大きな特徴です。
そして、10月1日には手宮桟橋からレールの敷設工事が始まったのですが、「札幌に向かって1日1マイル(約1.6km)のペースで工事が進んでいる」というニュースは東京や横浜にも流れ、英字新聞にも取り上げられる程のセンセーションを起こしました。
また、クロフォードが機関車等の購入のため一時帰国したアメリカから再び北海道に戻る頃には、幌内鉄道の建設はアメリカでも話題になっており、アメリカ国内の新聞でも幌内鉄道建設の様子が詳しく報じられていました。
日本の最北端の地である北海道にアメリカ式の鉄道が建設される事は、当時最新の鉄道技術を持っていたアメリカにとっても大きな誇りだったのです(先に新橋~横浜間に開通していた日本で最初の鉄道はイギリス式の鉄道でした)。
こうして、同月24日までには熊碓第4トンネル(現在の小樽築港駅から約500m札幌方の地点)までの工事が完了し、早速試運転が行われました。
下の写真がこの時(明治13年10月24日)の試運転の様子を写したもので、小樽入舟陸橋を渡る機関車「弁慶号」と、弁慶号に牽引された車両2両(無がい車に支柱を立てテントを張って客車に見立て来客を乗せました)が写っています。
機関車の先頭には日章旗と星条旗が掲げられていおり、どう見ても人が座る所とは思われない機関車の最前部には2人の人間がドカッと座っている様子も写っていますが、この2人が、幌内鉄道の工事を指揮したクロフォードと、媒田開採事務掛副長の松本荘一郎です。
こんな所に座って試運転に臨むとは、2人ともよっぽど嬉しかったのでしょうね(笑)。
この試運転列車は、小樽港に停泊していた官用船玄武丸の3発の祝砲を受け、午後2時半、手宮を出発し、汽車を一目見ようと集まった沿線の見物人達を驚かせながら、熊碓までの4.8kmを往復しました。
この時の試運転の様子を、北海道開拓誌では以下のように伝えています。『実に北海道にては、汽車の実物を見しはこの日が初めてのことなれば、沿道の見物人は山をなす勢いにて、その恐るべきを知らず髪を触るるばかりに近ずくものあり。また、見るも恐ろしきというように遠見する者ありて喝采の声は、号鐘汽笛と共に絶ゆる間もなく、車上の人にはまた一つの奇観とも見らるるならん』。
そして、11月11日には手宮~銭函間で仮営業を開始し、同月18日には軽川(現在の手稲)まで、同月20日には札幌(北6条西5丁目、現在の札幌駅より西側150m)まで延伸し、手宮から札幌までの35.9kmは僅か2ヶ月でレールの敷設を終えました。
こうして同月28日、開拓使は待望の手宮~札幌間の汽車運転式を盛大に挙行し、この日、幌内鉄道は正式に営業を開始しました。この時の列車は、客車3両を牽引した弁慶号で、午前9時に手宮を出発し、3時間かけて正午に札幌に到着したのですが、札幌停車場では、開拓使の官僚や札幌の住民達が興奮を隠し切れない様子で列車の到着を朝から待っていたそうで、列車が到着すると、列車は人々の歓喜に包まれたのでした。
ちなみに、下の写真は明治15年に撮影された札幌停車場の情景で、手宮行きの客貨混合列車が発車する所です。
手宮~札幌間の鉄道建設は、起工から完成まで僅か11ヶ月という、驚異的とも言える短期間でしたが、このような短期間で工事を終える事ができたのは、アメリカで開拓鉄道を手がけたクロフォードの技術と、前年に開通していた小樽~銭函間の車道や既にあった銭函~札幌間の人道に枕木を並べレールを犬釘で止めるだけという工法を採った事によります。
とはいえ、前述のようにクロフォードは機関車等の購入のためアメリカに一時帰国していたため、クロフォードが実際に現場で自ら陣頭指揮をしたのは明治13年6月~11月までの5ヶ月間だけで、それだけに、クロフォードの代理を務めた松本荘一郎副長の苦労は実に大きいものがあり、この時期に日本人が経験した鉄道技術は、その後の日本の鉄道建設に多大な貢献を果たす事になりました。
クロフォードは、明治14年2月、北海道での鉄道建設の功績により勲四等旭日小綬章を贈られ、明治15年8月31日、任期満了により解職された後は(クロフォードが設計した豊平川鉄橋の流失が解任の理由という説もあります)アメリカに帰国し、ペンシルバニア鉄道副社長補佐、ニューヨーク連絡鉄道技師長、ペンシルバニア鉄道顧問などを務めて生涯鉄道開発に携わり、日本からの留学生の面倒もよく見るなど日本との交流も長く続け、明治40年には勲三等旭日章を追贈され、大正13年、83歳でフィラデルフィアで亡くなりました。
幌内鉄道はその後も工事が続けられて、レールは札幌から更に東へと敷設され、明治15年11月13日には当初の計画通り線路は幌内でまで達し、手宮~幌内間約90kmが全線開通しました。
手宮~幌内間は、当時は国内最長の鉄道路線(走行時間は約5時間)で、幌内鉄道の全通によって手稲、厚別、野幌、江別、岩見沢などの新しい集落が沿線に開かれていき、また、幌内炭鉱を始め各地で掘り出された豊富な石炭はこの鉄道を介して小樽まで輸送され、小樽からは船で各地に輸送されて国内の産業を支えました。
そして、鉄道が漸次内陸に延長されるに従って、開拓の前線は急速に前進・拡大していき、北海道の開拓は大いに促進されていったのです。
ちなみに、下の写真はマイクロエース社から発売されている、Nゲージ鉄道模型の7100形蒸気機関車(弁慶号)と客車4両のセットです(定価17,640円)。こうして模型で見てみると、より具体的に当時の列車編成のイメージが湧いてきます。
なお、客車4両のうち「にさ35」は2等・3等合造客車で、他の3両はいずれも3等客車です。
そこで今日は、関西圏の鉄道とは関係のない話で恐縮なのですが、幌内鉄道の開業記念日であることに因んで、私の地元・札幌に建設された日本で3番目に古い鉄道「官営幌内鉄道」の建設と開業について、その経緯などを詳しくまとめさせて頂きます。
なお、今日の記事(地図から下の文章)の大部分は、このブログとは別に私が管理・更新している、職場のブログの、今年10月14日に書いた記事からの転載です(一部書き直してはいますが大半は同一です)。
ですから、もしネット上でこの記事とほとんど同一内容のブログを見つけられた時は、どちらか一方のブログの作者がもう一方のブログの記事を勝手に引用もしくは真似をして書いたためではなく、同一人物が書いたために内容が共通しているのだなと、温かい眼で御理解いただければ幸いです(笑)。
また下の図は、現在(平成20年)の地図に、「手宮港」「札幌」「幌内炭鉱」の各位置を分かりやすく図示したものなのですが、現在の地図のはずなのに、道内の鉄道路線の中でも特に代表的な主要幹線である千歳線や石勝線などがなぜか掲載されておらず、地図としてはやや正確さに欠ける(略し過ぎている)点があります。この地図は、あくまでも手宮・札幌・幌内の位置関係を示すだけの地図である事を御理解下さい。
明治元年、石狩(現在の札幌近郊)のきこり・木村吉太郎が、小樽量徳寺の建設に必要な木材の切り出しのため、石狩川の支流を遡って三笠の奥地・幌内の沢に入った所、たまたま炭層が露出しているのを見つけ、その一部を持ち帰って開拓使に差し出しました。
当初開拓使はこれに注目していなかったのですが、明治5年、札幌の早川長十郎が幌内に行き、石炭の塊を取ってきてまた開拓使に差し出した所、これが、当時物産取調掛の任にあった榎本武揚(箱館戦争では旧幕府軍を率いて明治新政府と戦いましたが、降伏後は政府に仕え官吏になっていました)の目にとまり、分析した結果、極めて良質な石炭であることが確認されました。
そのため、明治6年、榎本からその知らせを受けた開拓使雇アメリカ人の地質鉱山師ライマン・スミスが幌内で本格的な現地調査を実施し、ライマンは「炭質も非常に良く埋蔵量も多い」と開拓使に報告をしました。
このため、幌内炭田の本格的な開発と、幌内から石炭を輸送する方法とが急務の課題として模索されることになり、開拓使顧問のアメリカ人ホーレス・ケプロンは開拓使長官の黒田清隆に対して、幌内から石狩川まで鉄道を敷設し石狩川からは水運で小樽港に石炭を運ぶという案と、幌内から太平洋側の室蘭まで直接鉄道を敷設して石炭を運ぶ案の2案を提案しました。
この2案のうち、ケプロンは天然の良港である室蘭に注目して、特に室蘭までの鉄道建設を強く主張しました。
しかし、「実地を調査した事もなく測量もしていないばかりか、鉄道や港湾の築造費の見積もりさえも出していないケプロンの主張では、実現に至るのは容易ではない」として榎本武揚はケプロンの案に対して猛反発しました。
また、札幌農学校(北海道大学の前身)の初代教頭として明治9年にアメリカから迎えられていたウィリアム・スミス・クラークも、室蘭が良港である事は認めながらも、札幌と室蘭の間は火山灰地帯でありその地域の発展は容易ではないとして、札幌~室蘭間の鉄道建設には反対し、クラークは独自に、幌内から札幌を経て小樽に通じる鉄道の建設の必要性を力説しました。
このように、暫くは幌内の石炭搬出のルートを巡って議論が続いていたのですが、明治11年、開拓使札幌本庁の媒田(ばいでん)開採事務掛・山内提雲事務長(旧幕臣ながら英語に堪能で拓殖の知識を有していた事から開拓使大書記官の地位にありました)が改めて現地を巡察し、その結果、山内は「幌内から幌向太(現在の幌向)まで鉄道を敷設し、そこからは船舶により石狩川を利用して小樽港に輸送する計画のもとに工事に着手すべき」という前提の下、工事の順序を定めました。
幌内から室蘭への鉄道敷設は経費の都合上不可能であり、また、札幌~小樽間には神威古潭(現在の張碓付近)の断崖絶壁があり車道の築造も実現していない状態では、これは当然の方針とも言えました。
そして、鉄道建設の動きが本格化し、黒田清隆から鉄道技師の人選を任されたアメリカ駐在公使の吉田清成は、当時まだ36歳という若さながら鉄道建設に十分な経験を有していた土木技術者のジュセフ・ユリー・クロフォード(南北戦争中に北軍の大尉として野戦の土塁構築などに従事した後、戦後はインディペンデンス鉄道の鉄道建設長や監督としてその手腕が高く評価されていました)をアメリカから招く事にし、クロフォードはインディペンデンス鉄道の社長の推薦もあって開拓使に雇われ、明治11年12月13日、アメリカから札幌へとやって来ました。
当時の日本の人口は3,592万5千人で、うち北海道の人口は僅か21万5千人(当時北海道最大の都市であった函館の人口は3万6千人、北海道二番目の都市であった小樽でも人口は僅か1万人、現在約190万人の人口を誇る札幌の人口はこの時たったの8千人)で、全国の総人口の0.6%にも満たない北海道に国内3番目となる鉄道が開設された事は、当時の国民にとっても驚きであり、またそれは、当時の政府にとって、それだけ北海道の資源開発は緊急を有する事を意味していました。
札幌へとやって来た翌月(明治12年1月)に黒田清隆から鉄道工事顧問に任じられたクロフォードは、早速現地の調査を行い、「ケプロンの案は残念ながらどちらも破棄しなければなりません。幌内から札幌を経て小樽に敷設するのが一番良い方法です」と結論付け(現地調査の結果クロフォードは前述のクラークと同じ案になったのです)、石狩川まで鉄道を建設して石狩川からは水運により石炭を小樽まで搬出する案も、室蘭まで直接鉄道を建設して搬出する案も、どちらも破棄しました(石狩川周辺は湿地が多く設備の設置や駅夫の居住に適さないうえ、石狩川は冬季の結氷により舟を利用できるのは年間150日程度しかない事が判明したため、石狩川の水運を利用する方法も現実的ではないと判断したのです)。
そしてクロフォードは、幌内から札幌を経て小樽に鉄道を敷設するという前提のもとで鉄道建築見込書を作成し開拓使に提出し、同年3月には鉄道線路予定線を測量し鉄道築造費概算書も作成・提出しています。
翌明治12年の春には、クロフォードは開拓使に申し出て、工事が最も困難を極めるであろう熊碓(くまうす)~銭函間の実地調査を行い、その結果、約1ヵ月で神威古潭の断崖絶壁を掘り進み、5万円(現在の5~15億円余)の工事見積もりで年内に完成させるという計画を立てました。
開拓使はこの計画を承認し、クロフォードを現場監督に任じて、同年6月から熊碓~銭函間の道路開削工事が始まりました。この工事は僅か5ヶ月で終了し、しかも工費も、見積もりの5万円よりもかなり安い4万4千円余で済みました。
同年12月6日にはこの車道の開通式が挙行され、手宮~札幌間で客馬車(冬季はソリ)の営業が始まりました。料金は大人が39銭、13歳以下が19銭で、39銭は現在でいえば4千円程になるのでかなり割高な料金といえますが、しかし人力車で札幌~小樽間が2円以上もしたので、それに比べれば大量輸送は大分安かった事になります。
ところが、小樽と札幌を連絡する重要な幹線道路でありながら、この車道は1年も経たないで廃止になりました。クロフォードは翌年、この車道の上に鉄道を敷設したからです。その鉄道が、現在の函館本線です。
明治12年8月、クロフォードは現地調査の結果、「将来北海道全域に鉄道を敷設しそれと連絡するためには、幌内から小樽港に鉄道を敷設する事が有利であり、幌内から江別・札幌を経て直接小樽の手宮港へと鉄道を敷設すべきである」という意見を改めて開拓使に建議しました。
この時クロフォードが出した綿密な実地調査報告は、開拓使やケプロンを唸らせる程の説得力があり、そのため黒田清隆はこの建議を受け入れて、幌内~小樽間に鉄道を建設する事を正式に決定し、建設費の増額を政府に申請し、同年12月にその認可を得て、大晦日間近の同月27日から、手宮から鉄道線路の測量が始まりました。
新たに鉄道建設技師長となったクロフォードは、補助手の雇い入れと、機関車始めその他の鉄道車両やレールなどの器材購入のためアメリカに一時帰国し、鉄道建設は、クロフォードが留守中の明治13年1月8日から始まり、小樽市若竹町の第3トンネル(今はもうありません)の掘削、手宮海岸の埋め立て、入船町の陸橋の架設などが行われました。
工事現場には、コレラの流行や台風による被害など様々な困難が立ちはだかったものの、同年6月、クロフォードがアメリカから技師4人と共に札幌に帰って来た頃には、毎日1,500人以上の労働者達が鉄道工事に従事し、工事は遅れる事なく着々と進んでいたそうでうす。
7月には、クロフォードらアメリカ人技師達は揃って銭函~札幌間の土木工事に取りかかり、手宮では工場などの建設にも着手するなど、工事は順調に進捗していきました。
そして同年9月28日、後に「義経号」「弁慶号」とそれぞれ命名される事になる、クロフォードがアメリカで購入してきた蒸気機関車2両と、客車8両、台車17両、函車9両、レールなどの鉄道資材1,940tを積載したアメリカの風帆船「ジェラルド・C・トベイ号」が、ニューヨーク港から134日かけて、大西洋とインド洋を経て無事手宮港に到着し、10月17日にはほぼ完成に近い手宮桟橋に接岸し、11月4日に全ての荷揚げ作業を終えました。
下の写真は、昨年の12月、さいたま市にある鉄道博物館を見学して来た際に同館内で私が撮影してきた、静態保存されている7100形式蒸気機関車「弁慶号」で(この写真は昨年12月11日の記事からの再録です)、この弁慶号が、幌内鉄道を(つまり北海道を)初めて走った蒸気機関車です(現在は鉄道記念物に指定されています)。
この機関車は200馬力で重量26.1tの小型機ながら、当時のアメリカでは最新型の機関車で、火の粉止め付きのダイヤモンドスタック形の煙突、先頭部に大きく張り出したカウキャッチャー(牛馬などが触れた時これではね飛ばして轢死させるのを防ぐ排障器)、大きな鐘などが装備された典型的なアメリカンスタイルのSLで、西部劇に出てくる機関車さながらの雰囲気を醸し出しているのが大きな特徴です。
そして、10月1日には手宮桟橋からレールの敷設工事が始まったのですが、「札幌に向かって1日1マイル(約1.6km)のペースで工事が進んでいる」というニュースは東京や横浜にも流れ、英字新聞にも取り上げられる程のセンセーションを起こしました。
また、クロフォードが機関車等の購入のため一時帰国したアメリカから再び北海道に戻る頃には、幌内鉄道の建設はアメリカでも話題になっており、アメリカ国内の新聞でも幌内鉄道建設の様子が詳しく報じられていました。
日本の最北端の地である北海道にアメリカ式の鉄道が建設される事は、当時最新の鉄道技術を持っていたアメリカにとっても大きな誇りだったのです(先に新橋~横浜間に開通していた日本で最初の鉄道はイギリス式の鉄道でした)。
こうして、同月24日までには熊碓第4トンネル(現在の小樽築港駅から約500m札幌方の地点)までの工事が完了し、早速試運転が行われました。
下の写真がこの時(明治13年10月24日)の試運転の様子を写したもので、小樽入舟陸橋を渡る機関車「弁慶号」と、弁慶号に牽引された車両2両(無がい車に支柱を立てテントを張って客車に見立て来客を乗せました)が写っています。
機関車の先頭には日章旗と星条旗が掲げられていおり、どう見ても人が座る所とは思われない機関車の最前部には2人の人間がドカッと座っている様子も写っていますが、この2人が、幌内鉄道の工事を指揮したクロフォードと、媒田開採事務掛副長の松本荘一郎です。
こんな所に座って試運転に臨むとは、2人ともよっぽど嬉しかったのでしょうね(笑)。
この試運転列車は、小樽港に停泊していた官用船玄武丸の3発の祝砲を受け、午後2時半、手宮を出発し、汽車を一目見ようと集まった沿線の見物人達を驚かせながら、熊碓までの4.8kmを往復しました。
この時の試運転の様子を、北海道開拓誌では以下のように伝えています。『実に北海道にては、汽車の実物を見しはこの日が初めてのことなれば、沿道の見物人は山をなす勢いにて、その恐るべきを知らず髪を触るるばかりに近ずくものあり。また、見るも恐ろしきというように遠見する者ありて喝采の声は、号鐘汽笛と共に絶ゆる間もなく、車上の人にはまた一つの奇観とも見らるるならん』。
そして、11月11日には手宮~銭函間で仮営業を開始し、同月18日には軽川(現在の手稲)まで、同月20日には札幌(北6条西5丁目、現在の札幌駅より西側150m)まで延伸し、手宮から札幌までの35.9kmは僅か2ヶ月でレールの敷設を終えました。
こうして同月28日、開拓使は待望の手宮~札幌間の汽車運転式を盛大に挙行し、この日、幌内鉄道は正式に営業を開始しました。この時の列車は、客車3両を牽引した弁慶号で、午前9時に手宮を出発し、3時間かけて正午に札幌に到着したのですが、札幌停車場では、開拓使の官僚や札幌の住民達が興奮を隠し切れない様子で列車の到着を朝から待っていたそうで、列車が到着すると、列車は人々の歓喜に包まれたのでした。
ちなみに、下の写真は明治15年に撮影された札幌停車場の情景で、手宮行きの客貨混合列車が発車する所です。
手宮~札幌間の鉄道建設は、起工から完成まで僅か11ヶ月という、驚異的とも言える短期間でしたが、このような短期間で工事を終える事ができたのは、アメリカで開拓鉄道を手がけたクロフォードの技術と、前年に開通していた小樽~銭函間の車道や既にあった銭函~札幌間の人道に枕木を並べレールを犬釘で止めるだけという工法を採った事によります。
とはいえ、前述のようにクロフォードは機関車等の購入のためアメリカに一時帰国していたため、クロフォードが実際に現場で自ら陣頭指揮をしたのは明治13年6月~11月までの5ヶ月間だけで、それだけに、クロフォードの代理を務めた松本荘一郎副長の苦労は実に大きいものがあり、この時期に日本人が経験した鉄道技術は、その後の日本の鉄道建設に多大な貢献を果たす事になりました。
クロフォードは、明治14年2月、北海道での鉄道建設の功績により勲四等旭日小綬章を贈られ、明治15年8月31日、任期満了により解職された後は(クロフォードが設計した豊平川鉄橋の流失が解任の理由という説もあります)アメリカに帰国し、ペンシルバニア鉄道副社長補佐、ニューヨーク連絡鉄道技師長、ペンシルバニア鉄道顧問などを務めて生涯鉄道開発に携わり、日本からの留学生の面倒もよく見るなど日本との交流も長く続け、明治40年には勲三等旭日章を追贈され、大正13年、83歳でフィラデルフィアで亡くなりました。
幌内鉄道はその後も工事が続けられて、レールは札幌から更に東へと敷設され、明治15年11月13日には当初の計画通り線路は幌内でまで達し、手宮~幌内間約90kmが全線開通しました。
手宮~幌内間は、当時は国内最長の鉄道路線(走行時間は約5時間)で、幌内鉄道の全通によって手稲、厚別、野幌、江別、岩見沢などの新しい集落が沿線に開かれていき、また、幌内炭鉱を始め各地で掘り出された豊富な石炭はこの鉄道を介して小樽まで輸送され、小樽からは船で各地に輸送されて国内の産業を支えました。
そして、鉄道が漸次内陸に延長されるに従って、開拓の前線は急速に前進・拡大していき、北海道の開拓は大いに促進されていったのです。
ちなみに、下の写真はマイクロエース社から発売されている、Nゲージ鉄道模型の7100形蒸気機関車(弁慶号)と客車4両のセットです(定価17,640円)。こうして模型で見てみると、より具体的に当時の列車編成のイメージが湧いてきます。
なお、客車4両のうち「にさ35」は2等・3等合造客車で、他の3両はいずれも3等客車です。