北海道人からみた関西圏の鉄道事情

関西圏の鉄道・その他についての諸々の雑感

楕円をモチーフにした観光用車両「ひえい」がデビュー!

2018年03月29日 | 嵐電・叡電
以下の写真2枚は、私が今から15年程前に京都市内の某学校に在学していた当時の恩師で現在も京都に住んでおられるK先生が、数日前に撮影し私に送信して下さった、今月21日にデビューしたばかりの叡山電鉄700系リニューアル電車「ひえい」です。





京阪グループの経営戦略のひとつに位置付けられている「比叡山・琵琶湖を周遊する観光ルートの活性化」の一環として、京都中心部から比叡山と琵琶湖(出町柳~八瀬比叡山口間)を繋ぐ新たな観光用車両が叡山本線に導入される事になり、その計画を受けて、当初は新たなパノラマ車両をデビューさせる案も検討されたようですが、叡電では既に900系電車「きらら」というパノラマ車両が活躍している事から、特徴ある別のコンセプトとして、比叡山・鞍馬山の持つ神秘的なイメージを楕円をモチーフした意匠で内外装に再現した車両をデビューさせる事になりました。
そして、導入から30年が経過し改修の時期に達していた叡山電鉄700系電車の、8両(いずれも両運転台構造・ワンマン対応の1両編成)のうちの1両「732号車」を、種車として改造する事になり、その732号車を川崎重工業兵庫工場が大胆に改造して完成させたのが、この「ひえい」です。

この観光用車両「ひえい」に於ける、外観上の最大の特徴は、やはり、とてつもなくインパクトの強い「楕円」ですが、この楕円は、叡電のふたつの終着点にある「比叡山」と「鞍馬山」から感じられる荘厳で神聖な空気感・深淵な歴史・木漏れ日・静寂な空間、そして、それらからイメージされる「神秘的な雰囲気」「時空を超えたダイナミズム」などを再現したデザインとの事です。

ちなみに、観光用車両とはいえ、日々の通勤・通学客にも対応するため、運転台向き固定座席・窓向き固定座席・ボックスシートなどが設けられている前出の「きらら」とは異なり、「ひえい」車内の座席配置は、全てロングシートになっています。
とはいえ、従来のロングシートとは異なり、ゆったりとしたバケットシートが採用され、一人ひとりの着席スペースが明確になると共に、座り心地も配慮されています。
ロングシート車でありながら、内外装共に様々な非日常感が演出されており、運賃のみ(特別料金不要)で、その非日常感が味わえるのは嬉しいですね。


以下の写真2枚は、神仏霊場会のFacebookでの公式ページ「神仏霊場巡拝の道」で公開されていた写真で、今月21日に八瀬比叡山口駅で執り行われた、「ひえい」の披露式典(発車式セレモニー)の様子です。





同式典では、比叡山延暦寺の僧侶達により「ひえい」の安全運行を祈願する仏事も併せて執り行われたそうで、このような“鉄道と仏事”の組み合わせは、ある意味、いかにも京都らしい光景といます。言うまでもなく、京都は他都市に比べて寺院や僧侶の数が格別に多く、各宗派の総本山・大本山なども林立していますからね。

私も、次に京都に行く機会があった時は、是非この「ひえい」に乗ってみたいです!

青函連絡船廃止と青函トンネル開業から30年

2018年03月13日 | 北海道の鉄道


昭和63年3月13日は、当時のJR青森駅とJR函館駅との間を海上で連絡していた青函連絡船の通常運行最終便と、津軽海峡の海底下に造られた青函トンネルを走行する初めての通常営業列車が、同日に運行された日、つまり、青函連絡船と青函トンネルそれぞれでの通常営業が重なった最初で最後の、唯一の日であり、北海道や青函圏などの郷土史に於いてのみならず、我が国の交通史・物流史に於いても確実に大きな節目となった特別な日でした。

早いもので、その日から、今日で丁度30年が経ちました。
当時、私はまだ中学1年生でしたが、私自身も青函連絡船にはそれまでに何度か乗船した経験があり、また、廃止間近という事でその頃はテレビなどのメディアでも青函連絡船がよく取り上げられていた事もあって、青函連絡船の廃止には強い関心と惜別の念を感じていました。
しかし同時に、当時の私は、同時代の他の人達同様、青函トンネルが開業する事には大きな期待感も抱いていました。




青函連絡船は、ずっと北海道に住んでいる人であっても、恐らく30代半ばよりも若い世代の人達には特に思い入れは無いだろうと思いますが(そもそも青函連絡船って知らない、という人も少なくはないでしょう)、それよりも上の世代の道民にとっては、北海道と本州を結ぶ大動脈としてのみならず、単なる移動手段としての意味以上の意義や価値を持つ、特別な船であり航路でした。

北海道から本州へと修学旅行に旅立つ中高生、東京に就職するため故郷の北海道を巣立って上京する若者、出稼ぎのため北海道から単身で本州の現場へと向かう労働者、出張や転勤など仕事の都合で北海道を離れるサラリーマン、北海道から本州在住の男性へと嫁ぐ女性、余暇を利用して本州へ旅行に行く人達などのほとんどは、函館駅の連絡船桟橋から青函連絡船に乗り込み、本州へと発って行ったからです。
青函連絡船は、希望や失意などの様々な感情を胸にした、様々な立場や境遇の、双方の島の人々を、毎日北へ南へと運んで、津軽海峡を行き来し続けて来たのです。



進学・就職・転勤シーズンの3月は、函館駅の桟橋は乗船客を見送る大勢の人達で溢れかえりました。
夏休み、特にお盆の時期は、帰省客や観光客等で、函館・青森両駅の桟橋や、青函連絡船の船内は、大混雑しました。
また、函館駅や青森駅で青函連絡船から下船した乗客達が、良い自由席を獲るため、乗り換える列車に向かって桟橋から列車の停まっているホームまで駅構内を一目散に走る姿は、一年を通じて毎日見られた光景でした。
そういったシーンも、今となってはいずれももう見る事の出来ない、青函連絡船ならではの、懐かしくも郷愁の感じられる光景です。



青函連絡船が全盛を迎えたのは、昭和40年代後半(旅客は昭和48年、貨物は昭和46年がピーク)で、昭和50年以降は、急速に進んだ北海道~本州間の航空輸送化によって、青函連絡船の需要は凋落する一方で、廃止2年前の昭和61年には、輸送旅客はピーク時の半分以下にまで落ち込みました。
運航本数も次第に削減されていき、最盛期には一日30往復も運航されていましたが、昭和62年には一日8往復にまで減便されていました。
青函トンネルの開業によって青函連絡船が廃止されたのは事実ですが、仮に青函トンネルが開業しなかったとしても、このように北海道と本州を結ぶ主要な交通手段は既に航空機に取って代わられていましたから、どのみち、青函連絡船はいずれは無くなる運命にあったとも言えます…。

それでも、今から50年近く前までは、青函連絡船が北海道と本州を結ぶほとんど唯一の交通機関であり、それだけに、青函連絡船では様々なドラマが生まれ、また、青函連絡船は人々の郷愁を誘う、かくも特別な存在だったのです。



しかし、明治41年の「比羅夫丸」就航以来、戦禍(青函大空襲)や洞爺丸台風(青函連絡船洞爺丸の沈没は、タイタニック号沈没に次ぐ世界第二の海難事故として知られています)などの悲惨な痛手を受けながらも、航海数70万回、地球2千周に匹敵する距離を走り続け、1億6千万人の旅客と2億4千万トンの貨物を運んできた青函連絡船は、青函トンネルの開業と同時に鉄道連絡船として使命を完全に終え、丁度30年前の昭和63年3月13日、多くの人々に惜しまれながら、80年の歴史に幕を閉じました。

そして同じ日に、北海道民の長年の悲願であった青函トンネルが開業し、これにより北海道から鹿児島までが鉄路で連結され、この日の午前7時23分、北海道と本州を結ぶ一番列車である、函館発・盛岡行特急「はつかり」が、函館駅から超満員で発車し、青函の新時代が幕を開けました。




世紀の大建築物である青函トンネルは、洞爺丸台風以来、多くの北海道民が開業を長く待ち続けた、ある一定の世代以上の道民にとっては思い入れの強い特別なトンネルです。
青函トンネルは、総工事費約6,900億円、作業員延べ人数約1,400万人、使用したセメント量約85万トン(セメント袋を積み上げると富士山の850倍)、掘った土砂の量約630万立方メートル(霞ヶ関ビル12.1杯分)、工事期間は約24年間という、国家を挙げての超巨大プロジェクトとして建設が進められました。
開業して30年が経った今でも、総延長53.85km(東京の山の手線一周半に相当する距離です)という世界最長海底トンネルの記録は未だ破られておらず、私は、青函トンネルは“あらゆる土木・建築技術の結集体”であると思っています。

そして、青函連絡船の船上で様々なドラマが展開されたのと同様、完成まで24年間もの歳月を要した青函トンネルの建設現場に於いても、様々なドラマが展開されました。
世界最長の海底トンネル建設という、世界初の試みであるが故に、工事は幾多の試練と挫折を繰り返しながら進められ、何度もの異常出水にも遭い、特に昭和51年5月に発生した瞬間最大毎分85トンの大出水では、現場の多くの作業員達がトンネルの水没を覚悟した程でした。
また、青函トンネルの建設工事では、竜飛側で18人、吉岡側で16人、合わせて34人もの作業員が殉職しています。青函トンネル開業の陰で、34人の尊い人命が犠牲になった事を、私達は永遠に忘れてはいけません。




ところで、青函トンネル開業の前年には、国鉄の解体が行われ、それに伴いその翌日には国鉄の継承法人として新たにJR各社が発足し、そして、青函トンネル開業の翌月には瀬戸大橋が開業し、その開業によって日本の本土4島(北海道・本州・四国・九州)が初めて鉄路で繋がるなど、あの頃は、我が国の近現代史や鉄道史に於いても後世に語り継がれていく事になる大事業が続いた時代でもありました。
ちなみに、昭和63年3月、青函トンネルが開業した事と翌月に瀬戸大橋が開業する事を受け、JRグループが発足して初となる全国的なダイヤ改正が行われましたが、その時のダイヤ改正のキャッチコピーは「レールが結ぶ、一本列島。」で、このキャッチコピーは、本土4島が陸路で繋がった事を多くの人達に実感させ、非常に大きなインパクトを与えました。

また、時代区分としても、青函トンネル開業(昭和63年)の翌年は、「昭和64年」と「平成元年」が重なった、代替わりの年でもあり、今振り返ってみると、あの頃は、いろいろな意味で時代の大きな変動の時期だった、と言えます。
ちなみに、青函トンネル開業の翌年には、JR札幌駅も、それまでの地上駅から、現在の高架駅へと変わり、それに伴い札幌駅周辺の風景も大きく変わりました。




それにしても、時の流れというものはまさに「光陰矢の如し」で、青函トンネル開業時の30年前まで遡らなくとも、この10年という短い間を振り返っただけでも、青函トンネルを取り巻く状況はかなりと大きく変わっており、その変化の早さや大きさには改めて驚かされます。
「世界一長いトンネル」という座を他のトンネルに譲り渡した、という事も挙げられます。青函トンネルは、海底下のトンネルとしては前述のように今も依然として世界一の長さと深さを持つ交通機関用トンネルですが、海底や山中などの全てを含めた交通機関用トンネルとしては、平成28年6月に開業したスイスのゴッタルドベーストンネルにその最長記録を塗り替えられ、現在の青函トンネルは「世界で2番目に長いトンネル」になりました。

しかし、そういった形式的なランキングの変動よりも、青函トンネルを利用する人達や私達北海道民にとってずっと大きな出来事だったのは、やはり、平成28年3月の北海道新幹線開業です。
北海道新幹線が新青森~新函館北斗間で暫定開業した事により、青函トンネルは開業から28年の時を経て、漸く、建設時に想定されていた本来の用途に供される事になり、現在は、10年前は走っていなかった北海道新幹線の最新の電車(JR東日本のE5系と、JR北海道のH5系)が毎日青函トンネルを疾走しています。



しかし北海道新幹線の開業に伴い、逆に在来線(海峡線)の旅客列車は、ほぼ全てと言っても差し支えない程廃止されてしまい、10年前青函トンネルを走っていた寝台特急「北斗星」「カシオペア」「トワイライトエクスプレス」、特急「白鳥」「スーパー白鳥」、急行「はまなす」などは、残念ながら今はいずれも運行されておらず、それらの列車で使われていた車両の中には、廃車されるなどして既に現存していないものも多数あります。

ちなみに、北斗星は最後まで残ったブルートレインでもあったため、北斗星の運転終了は、青函トンネルの開業以来運行され続けてきた同列車が27年で終焉を迎えたという事のみならず、昭和33年に登場した国鉄20系客車による「あさかぜ」から始まったブルートレインの歴史が、約60年を以てついにピリオドが打たれたという事をも意味します。



平成30年3月現在、青函トンネルを走る在来線の旅客列車は、JR東日本が運行するクルーズトレイン(周遊型臨時寝台列車)の「TRAIN SUITE 四季島」のみで、これも時勢とはいえ、個人的には何とも寂しい限りです。
このように、この10年で、青函トンネルを走る列車は、完全に一新されたのです。




ところで、まだ着工は決定していないものの、最近になって注目されている大規模な構想のひとつに「第二青函トンネル構想」というものがあります。
現在の青函トンネルは、新幹線と在来線が共用する三線軌条による複線ですが、この線路容量では、北海道新幹線が新函館北斗から札幌まで延伸した際大幅に旅客需要が増えるにも拘わらずこれ以上の列車の増発がほぼ不可能であり、また、トンネル内では安全確保のため、低速な在来線の貨物列車に合わせて新幹線も低速で走行せざるを得ないなどの大きな不都合もあるため、青函トンネルをもう一本造って新幹線と在来線を完全に分離させる事でそれらの問題を一挙に解決しよう、という構想です。

複数のゼネコンやコンサルタント会社により発足した「鉄道路線強化検討会」によると、第二青函トンネルは、工費は約3,900億円、工期は約15年を想定しており、この計画では、現在の青函トンネルは新幹線専用に、新しく建設する第二青函トンネルは在来線専用にするとしています。
また、この構想以外にも、工費や工期は更に大幅に増すものの、第二青函トンネルに自動車道、送電線、ガスパイプラインなども併設しようという構想もあります。
ただ、我が国には既に青函トンネル建設のノウハウがあるため、第二青函トンネルの建設は技術的には十分可能なのでしょうが、やはり事業費が莫大なものとなるため、そういった事情から、現時点ではまだ実現の目途はたっていません。



他にも、現在の青函トンネルを新幹線専用にしてトンネルでの在来線の列車運転を全て取りやめた上で、第二青函トンネルは建設せず、在来線による貨物輸送は、青函トンネル開業以前に青函連絡船で行なっていた「車両航送」に戻してはどうか、という提案もされています。
車両航送というのは、鉄道車両を線路の上を走らせて桟橋から船内へと積み込む事により、時間と手間のかかる貨物の積み替えを省略して列車ごと船で運搬する方式の事です。

下の写真2枚は、平成23年3月に、当時大阪市港区波除にあった交通科学博物館の館内で私が撮影してきた、青函連絡船と同じく鉄道連絡船のひとつであった「宇高連絡船」とその桟橋の模型で、この模型では、その車両航送(連絡船への車両の積み込み、連絡船からの車両の積み降ろし)の様子が再現されています。
連絡船との乗り換え駅であり桟橋と直結していた青森駅や函館駅では、かつてはこういった光景が日常的に見られていました。





但し、この構想の実現のためには、船内の一部甲板に線路が敷かれた専用の大型船や、陸上の線路と船内の線路を繋ぐ特殊な構造の桟橋(青函連絡船が運航されていた時代は青森駅と函館駅にそれぞれありましたが今は現存しません)などを新たに建設する必要があり、当然それらの建設には巨費がかかります。しかし、それでも青函トンネルをもう一本新たに掘るコストに比べると安上がり、というメリットがあります。
ただ、船での航行となると、鉄道車両がトンネルを直接自走するよりは所要時間が相当長くなり、また、その運航の可否は常に津軽海峡の天候に左右される、といったデメリットもありますが。


兎も角、新幹線にとっても貨物列車にとっても、現状の青函トンネルでは容量不足である点は否めないため、今後の需要拡大を考えると、今から10年後、20年後、青函トンネルにはまた更なる大きな変化が訪れていそうです。

青函トンネルの建設が実際に始まる前まで、津軽海峡にトンネルを造るという構想は、ほとんどの人達から「そんなの、まるで現実性の無い、夢物語に過ぎない」として、一笑に付されていました。
実際に青函トンネルを造った人達の述懐を本などで読み返しても、これから現場の最先端でトンネルを掘る事になるというトンネルマン達ですから、工事に従事する事が決まった当初は「本当にここにトンネルが出来るなんて、あの頃は俺たちでさえ、誰も本気では思っていなかった」と語っておられる程です。
それを思うと、今から10年後、20年後に、今はまだ「実現の可能性は乏しい」としか思えないような大きな変化が津軽海峡に起こっていたとしても、それはさして驚く程の事ではないのかもしれません。