花耀亭日記

何でもありの気まぐれ日記

ルーベンス《シャルル・ル・テメレールの肖像》(1)(^^;

2021-12-08 12:30:19 | 西洋絵画

ウィーン美術史美術館にルーベンス描く《シャルル・ル・テメレールの肖像》がある。

ピーテル・パウル・ルーベンス《シャル・ル・テメレールの肖像》(1618年頃)ウィーン美術史美術館

https://www.khm.at/objektdb/detail/1627

ヴァロワ朝フランス王国の分家であるブルゴーニュ公国のシャルル(Charles de Valois-Bourgogne, 1433 - 1477年)、すなわち通称シャルル・ル・テメレール(Charles le Téméraire:突進公・むこうみず)は、ブルゴーニュ公国の領域拡大と王国化を図りながらも、その突進的無鉄砲さをもってナンシーの戦場で亡くなる。

フランス王国とも互角以上に渡り合うほどの栄華を誇ったブルゴーニュ公国は彼の死とともに崩壊したしたが、ブルゴーニュ公の称号そのものは一人娘のマリーと婿ハプスブルグ家マクシミリアン1世を通じ、息子フィリップ・ル・ボー、そして、曾祖父シャルルの名を継ぐカール5世(カルロス1世)へと続く。

さて、このルーベンス《シャルル・ル・テメレール肖像》だが、来歴を見ると、「おそらくルーベンスの財産から」とあるので、多分、受注ではなくルーベンス自身が自発的に描いた作品だと思われる。

私的に興味深い点(素朴な疑問)が二つある。

(1)ルーベンスが何故シャルル・ル・テメレール(140年前に死去)を描いた,のか?

(2)ルーベンスはシャルルの顔を、どの先行作品を参考として描いたのか?

と言うことで、まずは(1)から妄想推理してみたい

1608年、ルーベンスは母親の病気の報に、イタリアからアントウェルペンに向けて旅立つが、母は到着する前に亡くなる。彼の帰還は、スペインからのオランダ独立戦争中の「アントウェルペン条約」(1609年)による12年間の休戦が始まる都市の繁栄の時期と一致した。1609年9月、ルーベンスは、ネーデルラントの統治者であるオーストリア大公アルブレヒト7世とスペイン王女イザベラ・クララ・ユージニアにより、宮廷画家に任命される。

アルブレヒト7世はルドルフ2世の弟であり、イザベルはフェリペ2世の娘である。要するにハプスブルグ家の両者はシャルル・ル・テメレールの末裔なのだよね。それに、アントウェルペンはブルゴーニュ公国の栄華の記憶を残しているフランドルの土地柄だし、妄想するに、ルーベンスのアントウェルペン市民としてのアイデンティティの発露と、二人に対する忖度(?)も多分に働いたんじゃないかと想像するのだけど、どうなのだろう??

いずれにしろ、ルーベンスがシャルルを凛々しい騎士姿で描いたことが私的に意外であり、フランドルにおけるブルゴーニュ公国の記憶が決して悪いものではなかったと思えるのがなんだか嬉しい。(ヘントやイープルなんてどうなんだろうね?