検察修習は2か月半ほどの捜査修習と、2週間ほどの公判修習で構成されます。
時間配分からみても分かるように、検察修習のメインは捜査修習であり、その中でも、中心に来るのが、被疑者・参考人などの取調べです。
そして、取調べにおいては、事実関係をより詳細に把握することが第一の役割であるものの、その際の話を調書のかたちで記録に残すというのも重要な役割となります。
調書に残すことで、裁判の際に(被疑者が同意すれば)供述者は裁判所に来る必要がなくなりますし、事件後に記録が参照される場合にも便利なわけです(2~3年経って、その時のことを話せ、と言われても覚えていないことが多いでしょう)。
このような目的で書面を作成する方法としては、供述者が供述を自ら書面に起こすという方法も考えられます(供述書)。
もっとも、警察・検察で調書を作成する場合、検察官の側で、供述者の話をまとめ、それに供述者が署名・押印するという方法を用います(供述録取書、「供述を録取した書面」)。
一般に、供述録取書は、検察官(及び警察官)の作文である、という批判を受けており、特に、冤罪事件などではこのような批判がなされているようです。
他方で、検察修習を通して、供述録取書の利点も大きいように思えました。
そこで、以下、供述録取書について簡単に考察します。
第一に、供述録取書の利点として、供述者の主張を、その内容面において過不足なく記録するということが挙げられます。
供述書・供述録取書の目的は、当該事件の処理における事実関係の記録にあるのですから、これらの書面には事実関係を把握するのに必要な事実関係が記載されていることが必要です。
また、事後に記録を使用する観点からは、情報量が多すぎても処理が滞りますから、事実関係の把握に不要な事実に関する記載は少ない方が望ましいはずです(この点は、今後の刑事裁判で裁判員制度の導入に伴い、書面を原則として全文朗読方式にするのであれば、特に顕著なものとなるでしょう)。
供述書の場合、供述者が刑事事件の素人であることから、一面において必要な情報が不足し、他方で、不要な情報が多く残り、結果的に、記録としての有用性に問題が生じる場合が多くなるのではないかと思います。
他方、供述録取書においては、警察官・検察官が、刑事事件の専門家として、必要な情報・不要な情報を判断し、まとめることで、効率的な記録を作成することが出来るということがいえるでしょう。
第二に、供述録取書の利点として、供述者の主張を、形式面において正確・明確に表現・記録出来るという点が挙げられます。
主張を正確・明確に表現するというのは、存外に困難なことです。
例えば、日本語では、主語を省略した表現をすることが多いですが(このblogでもあえて主語は表現しないことがほとんどです)、記録としては、主体が誰であるか、客体が誰であるかなどが一義的に明確であることが必要ですので、主語を省略することは避けるべきです。
また、状態などに関する形容詞の使用も一義的に明確ではない場合が多く、表現には配慮を要します。
例えば、被疑者が事件当時酒に酔っていたとして、その程度を表す方法として、「私は、少しお酒に酔っていました」とした場合、「少し」というのがどの程度かが不明瞭です。そこで、飲酒量、飲酒した時間、ふらつきや顔の火照りなどの事実を摘示することで、程度を明確化するわけです。
これらの例にあげたように、曖昧な記述を避け、明確な表現をするための方法論に則った日本語というのは、通常の日本語の使用感覚に基づき書かれたものとは異なる、記録のための特異な表現であると思います。
そのため、供述者自身が記述するよりも、このような方法論を学んでいる専門家に供述を録取してもらう方が、正確な記録という観点からは望ましいと思います。
以上のような利点からも分かるとおり、供述録取書は、供述者の言うことを、テープレコーダーのように一言一句記録するというようなものではなく、検察官の側で、被疑者の供述内容をまとめて、構成・表現したものです。
そのため、形式的に文章を作成したのが検察官である、という意味では「供述録取書は検察官の作文」といえます。
では、内容面においても文章を作成したのが検察官である(被疑者の言い分と異なる、もしくは歪曲した内容の文章を作成している)という意味で「供述録取書は検察官の作文」というべきでしょうか。
この点について、内容面・形式面とも、検察官側のバイアスが介在しないかというと、これを完全に否定することは出来ないように思われます。
検察官が、公益の代表者たる立場から事件を処理するとはいえ、事件を起訴した場合に、検察官は被告人が有罪となるように主張・立証する立場にあるわけですから、一切のバイアスを排除することは実際問題として難しいでしょう。※1
もっとも、このバイアスの問題は、検察官による面前録取書に固有の問題ではなく、たとえば、弁護人が供述を録取したとしても生じる問題といえるでしょう。
検察官の場合には、被告人と対立の立場にある者による録取であることから、被告人に不利な方向に、弁護人の場合には、被告人を擁護する立場にある者による録取であることから、被告人に有利な方向に、それぞれバイアスがかかるわけですから。
現在の制度で、完全中立の立場から供述を録取することが出来ない以上、バイアスの介在の問題は、そのバイアスの存在を前提として、そのバイアスの排除及び信用性判断の適正化によって図られるべき問題というべきでしょう。
現状でも、証拠として用いるためには、原則として供述者の署名・押印が必要であり、訂正の申し出なども認められることは、こういったバイアスの除去にある程度機能しているように思いました(さらにいえば、署名・押印が拒絶できること、訂正の申出ができることなどを取調べの際に伝えることを制度化しておくと、バイアスの解消には有益なように思います。黙秘権告知みたいな。)
このように考えると、検察官の作文と批判される供述録取書については、問題点がないわけではないですが、利点も大きく、世間で批判される負の側面は過度に強調されている(利点の方がしっかりと評価されていない)ように思います。
すべての検事が、とまではいわないまでも、多くの検事の方は、公平な事件処理をしようと心を傾けている、というのが検察修習での印象でした。
※1
函館地裁平成9年3月21日(判例時報1608八号33頁)は「供述録取書は…捜査官による供述調書は、単に供述者が自発的に述べたことをそのまま書き取るものではなく、取調べの結果を事後的に整理し、編集要約して記載するものであるから、原供述が意識的無意識的にゆがめられて記載される危険性がある」と指摘しています。
※2
なお、警察の取調べの実態、供述録取書の作成過程については、直接見聞きしているわけではないので、以上の議論がそのまま妥当するかは不明です。
時間配分からみても分かるように、検察修習のメインは捜査修習であり、その中でも、中心に来るのが、被疑者・参考人などの取調べです。
そして、取調べにおいては、事実関係をより詳細に把握することが第一の役割であるものの、その際の話を調書のかたちで記録に残すというのも重要な役割となります。
調書に残すことで、裁判の際に(被疑者が同意すれば)供述者は裁判所に来る必要がなくなりますし、事件後に記録が参照される場合にも便利なわけです(2~3年経って、その時のことを話せ、と言われても覚えていないことが多いでしょう)。
このような目的で書面を作成する方法としては、供述者が供述を自ら書面に起こすという方法も考えられます(供述書)。
もっとも、警察・検察で調書を作成する場合、検察官の側で、供述者の話をまとめ、それに供述者が署名・押印するという方法を用います(供述録取書、「供述を録取した書面」)。
一般に、供述録取書は、検察官(及び警察官)の作文である、という批判を受けており、特に、冤罪事件などではこのような批判がなされているようです。
他方で、検察修習を通して、供述録取書の利点も大きいように思えました。
そこで、以下、供述録取書について簡単に考察します。
第一に、供述録取書の利点として、供述者の主張を、その内容面において過不足なく記録するということが挙げられます。
供述書・供述録取書の目的は、当該事件の処理における事実関係の記録にあるのですから、これらの書面には事実関係を把握するのに必要な事実関係が記載されていることが必要です。
また、事後に記録を使用する観点からは、情報量が多すぎても処理が滞りますから、事実関係の把握に不要な事実に関する記載は少ない方が望ましいはずです(この点は、今後の刑事裁判で裁判員制度の導入に伴い、書面を原則として全文朗読方式にするのであれば、特に顕著なものとなるでしょう)。
供述書の場合、供述者が刑事事件の素人であることから、一面において必要な情報が不足し、他方で、不要な情報が多く残り、結果的に、記録としての有用性に問題が生じる場合が多くなるのではないかと思います。
他方、供述録取書においては、警察官・検察官が、刑事事件の専門家として、必要な情報・不要な情報を判断し、まとめることで、効率的な記録を作成することが出来るということがいえるでしょう。
第二に、供述録取書の利点として、供述者の主張を、形式面において正確・明確に表現・記録出来るという点が挙げられます。
主張を正確・明確に表現するというのは、存外に困難なことです。
例えば、日本語では、主語を省略した表現をすることが多いですが(このblogでもあえて主語は表現しないことがほとんどです)、記録としては、主体が誰であるか、客体が誰であるかなどが一義的に明確であることが必要ですので、主語を省略することは避けるべきです。
また、状態などに関する形容詞の使用も一義的に明確ではない場合が多く、表現には配慮を要します。
例えば、被疑者が事件当時酒に酔っていたとして、その程度を表す方法として、「私は、少しお酒に酔っていました」とした場合、「少し」というのがどの程度かが不明瞭です。そこで、飲酒量、飲酒した時間、ふらつきや顔の火照りなどの事実を摘示することで、程度を明確化するわけです。
これらの例にあげたように、曖昧な記述を避け、明確な表現をするための方法論に則った日本語というのは、通常の日本語の使用感覚に基づき書かれたものとは異なる、記録のための特異な表現であると思います。
そのため、供述者自身が記述するよりも、このような方法論を学んでいる専門家に供述を録取してもらう方が、正確な記録という観点からは望ましいと思います。
以上のような利点からも分かるとおり、供述録取書は、供述者の言うことを、テープレコーダーのように一言一句記録するというようなものではなく、検察官の側で、被疑者の供述内容をまとめて、構成・表現したものです。
そのため、形式的に文章を作成したのが検察官である、という意味では「供述録取書は検察官の作文」といえます。
では、内容面においても文章を作成したのが検察官である(被疑者の言い分と異なる、もしくは歪曲した内容の文章を作成している)という意味で「供述録取書は検察官の作文」というべきでしょうか。
この点について、内容面・形式面とも、検察官側のバイアスが介在しないかというと、これを完全に否定することは出来ないように思われます。
検察官が、公益の代表者たる立場から事件を処理するとはいえ、事件を起訴した場合に、検察官は被告人が有罪となるように主張・立証する立場にあるわけですから、一切のバイアスを排除することは実際問題として難しいでしょう。※1
もっとも、このバイアスの問題は、検察官による面前録取書に固有の問題ではなく、たとえば、弁護人が供述を録取したとしても生じる問題といえるでしょう。
検察官の場合には、被告人と対立の立場にある者による録取であることから、被告人に不利な方向に、弁護人の場合には、被告人を擁護する立場にある者による録取であることから、被告人に有利な方向に、それぞれバイアスがかかるわけですから。
現在の制度で、完全中立の立場から供述を録取することが出来ない以上、バイアスの介在の問題は、そのバイアスの存在を前提として、そのバイアスの排除及び信用性判断の適正化によって図られるべき問題というべきでしょう。
現状でも、証拠として用いるためには、原則として供述者の署名・押印が必要であり、訂正の申し出なども認められることは、こういったバイアスの除去にある程度機能しているように思いました(さらにいえば、署名・押印が拒絶できること、訂正の申出ができることなどを取調べの際に伝えることを制度化しておくと、バイアスの解消には有益なように思います。黙秘権告知みたいな。)
このように考えると、検察官の作文と批判される供述録取書については、問題点がないわけではないですが、利点も大きく、世間で批判される負の側面は過度に強調されている(利点の方がしっかりと評価されていない)ように思います。
すべての検事が、とまではいわないまでも、多くの検事の方は、公平な事件処理をしようと心を傾けている、というのが検察修習での印象でした。
※1
函館地裁平成9年3月21日(判例時報1608八号33頁)は「供述録取書は…捜査官による供述調書は、単に供述者が自発的に述べたことをそのまま書き取るものではなく、取調べの結果を事後的に整理し、編集要約して記載するものであるから、原供述が意識的無意識的にゆがめられて記載される危険性がある」と指摘しています。
※2
なお、警察の取調べの実態、供述録取書の作成過程については、直接見聞きしているわけではないので、以上の議論がそのまま妥当するかは不明です。