遊心逍遙記

読書三昧は楽しいひととき。遊心と知的好奇心で本とネットを逍遥した読後印象記です。一書がさらに関心の波紋を広げていきます。

『天下人の茶』  伊東 潤   文藝春秋

2016-01-30 10:46:58 | レビュー
 映画にはオムニバスと呼ばれる方式がある。辞書には「それぞれに独立したいくつかの短編をまとめ、全体として一貫した作品にした映画」(『日本語大辞典』講談社)と説明されている。本書は読後印象として短編小説をオムニバス方式で構成した短編集といえるように思う。
 本書のタイトルにテーマの一極が表出されているが、この短編集は、天下人(てんかびと)が求めた茶の道具性と千利休が目指した茶の精神の美の相剋というテーマが一貫している中で、様々な切り口から短編小説が織りなされている。
 このオムニバスの中で千利休が直接に語る、あるいは利休に関連して語られる場面からテーマに関わる箇所として私が着目したものをまず抽出しておきたい。
 *「人の侘びをまねるだけでは、己の侘びを見つけることはできないのです。・・・・人と同じ道、すなわち常道を行かず、奇道を行くことが大切です。・・・・奇道こそ佗茶の境地」    p37-38 (A)
 *「茶の湯とは・・・人の備える本源的なものを、作意によって他人の目に供するに足るものとする一つの道なのです」 p81 (B)
 *「深山をそのまま写さずに深山の風情を出す。これが利休居士の言う作意なのだ」 p134(C)
 *「茶の湯を続けさせるためには、権力者の意を迎えつつ、独自の境地を開ける茶人が、茶の湯を牽引せねばなりません」 p146 (D)
 *「尊師の曲尺割は、この世の森羅万象を司っている」 p202  (E)
 *「侘びとは人それぞれ。弟子一人ひとりにも、そう教えてきました。」p229 (F)
 *「侘びは、それがしだけが司るものなのです。・・・・
   殿下は現世の天下人。それがしは心の内を支配する者です。互いの領分に踏み込まぬことこそ、肝要ではありませぬか」 p234 (G)
 一方、千利休の持つもう一つの顔をストーリーに絡み合わせていく。千宗易が堺の商人、会合衆の一人であることに起因する側面である。単に茶頭、茶の師匠という枠組みからはみ出し、政治・外交から謀略に至るまで天下人・秀吉の相談役としての役割を担っていたことである。著者はその真意に言及していく。究極のところ、この側面でも千利休の真意と秀吉の政治の意図の間に乖離が生まれて行くと著者は描く。その大胆で具体的な描写が興味深く、かつおもしろい。

 そして、このオムニバスに関わることとしてもう一つここでふれておきたいことがある。それは、「利休七哲」と称された高弟の7人に関係する。七哲とは、蒲生氏郷を筆頭として、細川忠興(三斎)・古田重然(織部)・芝山宗綱(監物)・瀬田正忠(掃部)・高山長房(右近/南坊)・牧村利貞(兵部)をいう。本書のおもしろいところは、芝山宗綱(監物)を除き他の6人の高弟が本書を構成する短編小説の中で、主人公としてあるいは副主人公として、深く関わってくる点である。これが、天下人の茶を語る中で、茶の世界を語ることに繋がっている。

 それではオムニバスに仕立てられた本書を構成する短編小説についての読後印象をまとめてみたい。

[ 天下人の茶 第一部 ]
 文禄5年(1596)5月、秀吉が宮中にて三度目の禁中能を催し、後陽成帝の面前で自ら『明知討』という演目でシテを演じる場面から始まる。その終盤にさしかかる中で、秀吉が当時を回想するという展開となる。この短編は本書全体の導入の役割と「天下人の茶」の始まりとして、天正4年(1576)6月、妙覚寺方丈で信長が己の考えを丹羽長秀、明智光秀、秀吉と堺の三商人に語る場面を描く。「わしは、茶の湯によって天下を統(す)べようと思う」と信長が語る。信長が茶の湯の道具性に着目する。信長による茶道具の収集、「茶の湯張行(ちょうぎょう)」の始まりである。
 信長にこの策が千宗易の発案だと著者は語らせている。政治と茶の関わり始めである。この場面での参会者の対応が興味深く描かれて行く。そして千宗易のプロフィールで締めくくられる。
 この短編は、最後の「第二部」と照応していく。

[ 奇道なり兵部 ]
 テーマに関わる箇所として上記に抽出した(A)がここの主題となる。利休七哲の一人、牧村兵部の生き様が描かれる。
 天正12年(1584)2月、師匠の宗易を一客一亭の茶会に誘う。その茶会で客の宗易を見送る際に、兵部は「奇道こそ佗茶の境地」と宗易に教えられる。兵部にとっての茶の湯、そして師から学んだ「奇道」を戦場で活かすエピソードが描かれ、キリシタン及び高山右近との関わりが描かれる。
 この短編自体が本書の構成と同じパターンをとる。冒頭は文禄2年(1593)7月、朝鮮の慶尚南道東端に布陣中、歪んだ古茶碗の美に出会う場面を置き、10年前の天正12年に時を遡らせ、回想のストーリーが展開する。再び、布陣の地に戻るが、そこでの行動が兵部の死に繋がっていく。
 牧村兵部は、「天正8年にはのちに流行するユガミ茶碗(変形茶碗)をいち早く使用した茶会を行っていたことが知られる。」(『朝日日本歴史人物事典』)という。「侘びは奇道なり」を実践した人が牧村兵部だったようだ。兵部の心の変遷を著者は描いて行く。
 
[過ぎたる人]
 この短編は利休七哲の一人・瀬田掃部の生き様が活写される。
 天正19年(1591)1月、掃部が自邸の草庵数寄屋に利休を招き、自ら削った茶杓の自信作を利休に見せている場面から書き出される。この短編、冒頭で茶杓についての基礎知識が学べるところがおもしろい。余談だが、茶杓の真の格と草の格。なぜ茶杓が竹を使うかの由来。櫂先(かいさき)・追取(おつとり)・蟻腰の角度などという名称がすんなりと頭に入ってきておもしろい。
 常は荒ぶる心を封じ込めている掃部は「何事にも過ぎたる人」と評されていたようだ。利休は掃部の茶杓を見て、蒲生氏郷と細川忠興がこう評したと言う。そして、この茶会の対話で上記の(B)が語られる。その続きに「中でも茶杓は、茶人が手ずから削るもの。茶人の心映えを知るには、茶杓を見ればよいわけです」という利休の言葉が出てくる。これは現代の茶人にも当てはまることなのだろうか?
 著者はこの日の朝会で掃部が使った皿のような古高麗平茶碗に利休が「水海」と銘を与え、掃部の見せた茶杓には「瀬田」と名づけるとよいと述べたと描いている。調べてみると、あるサイトの記事に『南方録』には、利休が茶杓を削り「勢多」と名づけて掃部に贈ったということが記されているという。流れとしてはこの短編の方がおもしろい気がする。
 ストーリーはこの茶会で利休が掃部に残した言葉が、掃部のこの後の生き様に影響を与えることになる。「冬が来ているにもかかわらず、春や夏を取り戻そうとするほど愚かなことはありません。そんな無理を押し通そうとすれば、多くの者が迷惑をします。本人がそれに気づいておらぬなら、誰か、それをきづかせねばなりません」(p86)
 利休の死の後、天正19年(1591)12月、秀次が関白職を継承した折り、秀吉直臣の掃部は秀次の家臣とされる。天正20年3月から朝鮮の役が始まるのだが、そこから利休の残した言葉の意味を掃部は明確に解釈し、ある決意を抱くことになる。ストーリーはいくつかの茶会の場面とそこでの会話を中心にしながら進展していく。その茶会の一つに、小田原での山上宗二と掃部の茶会のエピソードも織り込まれる。
 クライマックスは文禄4年7月8日の秀次・秀吉の仲直り茶会である。手前は掃部が務める。ここで事件が起こる。
 この日に茶会が行われたのは史実なのだろうか。これ自体もフィクションの一部なのか。手許に情報がなく不詳。「太閤と関白の間での不始末ということもあり、この事件は秘匿された」と著者は書き込んでいる。フィクションだとしてもおもしろい。なぜなら、この日の2日後10日に、秀次が高野山に追われ、15日には切腹するのだから。
 
[ ひつみて候 ]
 これは利休死後の古田織部の生き方を描く短編である。この短編の最初の場面と最後の場面に小堀遠江守政一(遠州)が登場する。これも最初と最後の遠州の登場のしかたの対比が興味深くて、かつおもしろい。この短編の最初の場面で出てくるのが上記(C)である。興味深いのは古田織部が遠州を「優れてはいるが、道を究めることはできぬ」と評価し、一方で「働きのある茶人」とみていたと著者が書き込んでいる点である。
 この短編は、織部のプロフィールから始め、信長の「御茶湯御政道」の結果をみた秀吉が、茶の湯の道具性を逆手に使い、「天下万民、茶の湯の下では一座平等である」と唱道し、庶民の不満をやわらげ天下の静謐を保ち、己への人望を集める策をとった。そして、秀吉が絶対的な権力を手に入れると、茶の湯に対する方針転換を図ろうとする。そこに、利休との相克が生まれる。それが、上記の(D)という発言になる。そして、その才があるのは、織部だと利休は言う。利休の高弟のうち、「独自の境地」に達しているのは織部だと認め、利休が死を予見する直前に、茶の湯における精神世界の支配者の座を、利休が織部に譲り渡すのだ。利休が織部に託したのは「茶の湯の力で人の心に巣食う猛りを抑え、世を静謐に導いてください」ということだった。
 それは、現世でより強固な支配者となりうる徳川家康への政権の移行を見越しての織部の行動として具現する。そして織部の創案した茶の湯の世界が武家社会の中に浸透していく。だが、政治と茶の湯が結びつく結果は、再び茶の湯の道具性という点で、織部が利休の轍を踏むことへと導くプロセスとなる。つまり、政治の道具としての茶の湯に、利休の考える「独自の境地」は不用ということなのだろう。茶の湯の作法と形式美、茶会という形態の社交的場の設定、道具性にこそ意義が見出されているということか。政治・ビジネスとゴルフの繋がりに通じる側面かもしれないと思う。
 この短編でおもしろいのは、利休七哲の一人、細川忠興を織部が「働きのある茶人」の典型と見、また忠興自身が己の限界を自覚している人と描いていることだ。そして、小説の最後の場面、織部の切腹に臨んだ織部と遠州の交わす対話がおもしろい。二代将軍秀忠が受け入れた小堀遠州の生み出した「きれいさび」が武家茶道の本流として栄えていくのだ。政治と茶の湯の相剋がここにも活写される。

[ 利休形 ]
 この見出し「形」を「なり」と読ませる。「りきゅうなり」である。
 この短編の主人公は、利休七哲の中の蒲生氏郷と細川忠興である。文禄4年(1595)正月8日、病状が悪化している蒲生氏郷の屋敷に、忠興が病気見舞に出向き、対話する。その二人の対話から現在の状況が語られ、秀吉・利休に関わる過去の経緯が描かれて行く。この頃が、利休の切腹後に秀吉が演能にのめり込んでいる時期であり、最初の短編にリンクしていくのである。
 この短編の興味深いところは、氏郷と忠興が秀吉と利休の関わり方並びに二人の人物を分析的に語るところにある。「殿下は尊師の中に何を見、尊師は殿下の中に何を見たのだろうか。そして二人の間に起こったことは、われらの知る秘事だけが原因だろうか」
 ここに、上記の(E)、(F)、(G)がストーリーの展開の中で、語られて行く。
 このストーリーの中で一つの圧巻は、再び秀吉による小田原城攻略戦中の一場面だ。北条氏の和睦の使者として山上宗二が登場し、宗二が秀吉に暴言を吐く。秀吉の命により利休が宗二の鼻と耳をそぎ落とし、宗二を殺す仕儀に至る場面である。それと、氏郷が忠興に語る「われらの知る秘事」だ。
 著者の目を通した秀吉と利休の両人物像については、この短編が読み応えがある。
 末尾の部分をご紹介しておこう。
 「-利休形か。
  しかし忠興は、利休に倣うつもりはなかった。
  忠興は、己の形を見出すべき時が来たと覚ったからである。」
忠興は忠興形を見出したのだろうか。著者はいつかこのアフター、忠興形がどういうものかを作品化するのだろうか。

[ 天下人の茶 第二部 ]
 この短編は、最初の第一部と照応し、その続きが描かれて行く。つまり、信長の「御茶湯御政道」の始まりからだ。勿論、秀吉を中心としてである。
 秀吉は天正5年12月、但馬・播磨両国の攻略成功の褒賞として、信長から乙御前釜を拝領し、「茶の湯張行」の許可を得た。「四十石」の銘がある名物茶壺を入手した後、天正6年(1578)10月、播磨三木城包囲戦の中で、津田宗及を招き口切の茶会を開催したという。そして、秀吉は茶の湯の虜になっていく。そして、まず山上宗二が秀吉の茶頭となる。その宗二が突然、秀吉への断りもなく勝手に堺に帰ってしまう。師匠として千宗易が秀吉を謝罪のために訪れるところから、秀吉が宗易の手前をアルティスタの仕事と評価することから関係が始まると描く。
 宗易の語るキーフレーズが「われら二人で、天下万民が安楽して暮らせる世を創りませぬか」である。
 政治と茶の湯を結び付ける中に、自ら乗りだして言った千宗易。天正13年(1585)に正親町天皇から利休という居士号を下賜され、茶の湯に独自の美の価値体系を創出した千利休。第一部と照応し連続するなかで、千宗易(利休)の多面体像が描きだされていく。実に興味深い。それは表裏一体の如くに、秀吉像を描くことでもある。

 天下人の茶は、信長の茶道具の名物に着目し茶を道具として使う入口から始まり、秀吉の下での利休の”佗茶”、秀吉から家康への政権移行期における織部の”かぶいた茶”を経て、江戸時代の武家社会での遠州の”きれいさび”の茶に変遷していく姿を、このオムニバスの小説は活写している。

 千宗易は時の権力者の政治と結びつく形で世に出、茶の湯を広め、帝から利休居士の号を賜るまでに至る。政治に加担する一方で、茶の精神美を極める道に突き進む己と天下人の求める茶との間の相剋により、政治によって抹殺される。それは千利休の必然だったのかもしれない。だからこそ、千利休が不朽の輝きを今の世まで残すのだろう。
 「人生七十 力囲希咄 吾這寶剣 祖佛共殺 堤る我得具足の一太刀 今此時ぞ 天に抛つ」 これが切腹して果てた、利休の遺偈だという。

 ご一読ありがとうございます。

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本書に出てくる語句を契機に、関心事をネット検索してみた。一覧にしておきたい。
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紙本墨画洞庭秋月図〈玉澗筆/自賛がある〉 :「文化遺産オンライン」
紙本墨画遠浦帰帆図〈玉澗筆/自賛がある〉 :「文化遺産オンライン」
大村由己   :ウィキペディア
第9話 由己と秀吉 :「三木市」
豊臣秀吉が舞った新作能とは? 能楽トリビア :「the 能.com」
牧村兵部  :「コトバンク」
枯木猿猴図の謎 4.実の父、牧村兵部  味・歴史めぐり :「室屋長兵衛」
瀬田掃部  :「コトバンク」
2013.10.31 さらし茶巾、瀬田掃部(せたかもん)   :「朋庵・茶咄し」
利休七哲  :ウィキペディア
利休七哲 【違いがわかる漢達】 【集え数寄武将】  :「NAVERまとめ」
芝山監物  :「コトバンク」
今井宗久  :「コトバンク」
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大名物 唐物茄子茶入 付藻茄子(松永茄子)  :「静嘉堂文庫美術館」
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茶道 式正織部流(しきせいおりべりゅう) 文化財(県指定):「市川市」
茶 楽しむ遊び心 織部流の型破り 2013.11.20 :「YOMIURI ONLINE 関西発」
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こちらもお読みいただけると、うれしいかぎりです。

『国を蹴った男』  講談社 

『決戦! 関ヶ原』 作家7人の競作集  講談社
   伊東 潤 の短編作品「人を致して」が収録されています。
『決戦! 大坂城』 葉室・木下・富樫・乾・天野・冲方・伊東  講談社



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