遊心逍遙記

読書三昧は楽しいひととき。遊心と知的好奇心で本とネットを逍遥した読後印象記です。一書がさらに関心の波紋を広げていきます。

『「阿修羅像」の真実』 長部日出雄  文春新書

2018-12-21 20:11:45 | レビュー
 先般、『阿修羅像のひみつ』(興福寺監修 田川・今津他共著 朝日新聞出版)という本を読んだ。X線CTスキャンという技術を駆使して、阿修羅像を解析しその造立に関わる未知の部分、いままでわからなかったひみつに挑んだ本だった。この読後印象記は既に書いている。その影響があって、このタイトルを見つけたとき、すぐ読んでみる気になった。どんな真実にアプローチするのだろうという興味と期待である。奥書を見ると、2009年12月の出版だった。東京で「国宝 阿修羅展」が開催された年の出版である。それ以前に、興福寺で阿修羅像を拝見していたので、当時この東京での開催報道を読んでいたが、この頃の阿修羅像関連出版物を気にも留めなかったのだろう。そんな気がする。

 タイトルから勝手に期待を膨らませていたのは、阿修羅像が仏教世界に取り入れられたのはなぜか。阿修羅像の導入経緯において造像の表現変容プロセスに触れられているのか。興福寺の阿修羅像があの姿に造立されたのはなぜか。・・・・などの事実、真実というイメージだった。
 本書を読み始め、私の勝手なイメージは半ば崩れた。著者は最後の最後まで、阿修羅像のことに全くと言って良いほど、触れていない。
 そして、最後の第6章の「苦悩する光明皇后」及び「阿修羅のモデル」という小見出しの中で、興福寺の阿修羅像は、「阿修羅のモデルは、いったい誰であったのか。・・・・光明皇后以外の人ではあり得ない。」(p211)、「天才彫刻家万福が、精魂籠めて作り上げた光明皇后の肖像と観て、おそらく間違いあるまい」(p214)という結論を著者は仮説として導きだした。これが著者にとってのこの阿修羅像の真実である。
 つまり、この結論を確信するに至るプロセスを解き明かす点に、著者はこの一冊を書いたと言える。が、なぜそう考えるのかのプロセスは一見遠回りな論点の提示と説明を重ねて光明皇后像を描き出していくという展開になっている。
 私の読後印象として、阿修羅像=光明皇后肖像という仮説は興味深いのだが、勝手な当初の期待からすると、なるほどという感想である。一方、それよりもまず、光明皇后並びに聖武天皇という人物について理解を深める一助になったことの方が興味深い。光明皇后という歴史上の人物を知るための伝記風テキストと考えると、読み応えがある。そして、その中にエピソード風に幾人もの人物が点描されていく。それらの人物を知ることも興味深かった。

 本書の章構成を紹介しておこう。そこに少し印象・コメントを記してみる。
第一章 美貌の皇后
 美貌の皇后とは勿論、光明皇后をさす。光明皇后を引き出すために、『大和古寺風物詩』を代表作の一つとする亀井勝一郎のエピソードから話が始まる。かつてこの書を読んでいたので、亀井勝一郎の人生の一側面を本書で知ったこと自体が私には興味深い。

第二章 安宿(あすか)に生まれた藤原家の娘
 臣下から出た史上最初の皇后・光明皇后の出生と立后までの背景が簡略に語られる。光明皇后という通称の由来がどこにあるかについて触れている。いままで考えたことがなかったので、おもしろい。『金光明最勝王経』に由来するという。なるほどである。

第三章 光明皇后の夢
 『金光明最勝王経』と当時の日本との関わりを論じ、この経の要点を部分説明するとともに光明皇后との関わりを論じていく。また、聖武天皇による大仏建立の発願と華厳経に触れていく。「天平12年(740)2月、難波宮に行幸されたさい、河内の知識寺に詣で、当時日本最大の石仏であった毘盧遮那仏を仰がれたのがきっかけであった」(p98)という。 このきっかけのことを初めて知った。『続日本紀』に難波宮行幸の事実記載はあるが、そこには知識寺云々のことは言及がない。調べてみると、天平勝宝元年12月27日条の後半に「去る辰年(天平12年)河内国大県郡の智識寺においでになり、盧舎那仏を拝み奉って」という記述があった。(『続日本紀(中)全現代語訳』宇治谷孟・講談社現代新書、p92)

第四章 天竺から奈良までの長い旅
 一転して、三蔵法師玄奘の事績に話が及ぶ。本書のタイトルを抜きにして、この玄奘の伝記風語りは仏教伝来のプロセスを知る上でも、興味深い。
 玄奘-道昭-行基という形で、仏教思想が繋がって行くプロセスが生まれたという論点が、眼目となっていく。大仏建立に行基が最終的に関わって行くのだから、時の経過と話が遠大となる。
 そして、ここで、玄奘、道昭、行基という3人の人物像を少し深く知ることとなる。この3人の連なりを知ったことも、私には本書の副産物である。

第五章 大仏開眼
 聖武天皇が発願された盧舎那仏建立について、行基の関わりを軸としてそのプロセスが描かれて行く。大仏開眼に行基がどのような役割を果たしたかが具体的に理解できる。行基の評価が時代と共に極端に変化していく様が興味深い。また、聖武天皇の崩御の後、七七忌に光明皇后が太上天皇(=聖武)遺愛品を東大寺に献納されたことが記されている。現在の正倉院御物である。「日常の生活に選り抜きの舶来高級ブランド品を愛用されていた御様子が髣髴としてくる」と著者が記しているのがおもしろい。言われてみれば、そうだな・・・と思う。それ故に、時を超えた優品を展示する正倉院展を毎年見に出かけているのかもしれない。

第六章 光明皇后の面影
 著者は和辻哲郎著『古寺巡礼』と亀井勝一郎著『美貌の皇后』を引用し、その記述と論点を足がかりにして、己の考え方を展開していき、最後の結論を導き出す。
 この章で著者が説明する要点をご紹介しておこう。
*光明皇后は亡き母・橘夫人のために興福寺に西金堂を建立した。
 その西金堂の為に造立された諸仏の中に、阿修羅像が含まれている。
*いままで仏像の作家が文答(問答)師とされてきたが、仏師・将軍万福に該当する。
これらの論点を踏まえて、上記の結論が導き出されている。詳細は本書をお読み願いたい。

余談だが、思い出したので関連として書き加えておきたい。梓澤要という作家が『阿修羅』という小説をフィクションとして書いている。「仏師田辺嶋は、もう何日も思い悩んでいた」という書き出しから始まる。彼の師匠が仏師将軍万福という設定になっていて、阿修羅を彫るという仕事を与えられているのだ。このストーリーでは田辺嶋は脇役的な存在である。だが、フィクションとして阿修羅像のモデルが設定されている。光明皇后ではない点だけ付記しておく。この小説については、後日印象記をまとめてみたいと思っている。
 阿修羅像は、興福寺宝物館での展示をかなり昔に初めて拝見した。そして、2017年の秋、後期として「阿修羅 天平乾漆群像展」が興福寺仮金堂で開催された時、阿修羅像が仮金堂内で諸像の中に配置されて祀られていたのを拝見した。群像の中の阿修羅像が魅力的だった。あの正面の相貌にはやはり惹きつけられてしまう。
モデルは誰か? 確信することと、物理的あるいは文献的根拠で確証することとはやはり一線が画されることだろう。確証はできていない故に、ロマンに満ちた謎にとどまらざるを得ない。本書で一つの仮説が提起されたことは興味深い。一層想像の翼を羽ばたかせるロマンが広がることになったのだから。
 
 ご一読ありがとうございます。

本書からの波紋で、いくつか調べてみた。一覧にしておきたい。
阿修羅像  文化財 :「興福寺」 
阿修羅像を特別公開 奈良・興福寺   :YouTube
【アーカイブ】興福寺中金堂再建記念・興福寺シンポジウム「阿修羅像 天平の心と技を未来へ」   :YouTube
国宝・阿修羅像の「三面六臂」の意味するものとは【ニッポンの国宝ファイル1】:「サライ」
阿修羅像について   :「阿修羅の魅力」
智識寺  :「柏原市」
光明皇后  :「コトバンク」
「集一切福徳三昧経(じゅういっさいふくとくざんまいきょう)」:「国立国会図書館」
    光明皇后御願経。
光明皇后 悲田院、施薬院を作り慈善事業を始める 高嶋久氏 :「APTF」
50-40 聖武天皇と光明皇后 -実は反藤原の聖武天皇と胸キュンの光明皇后-
   :「seko-yaブログ」

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読後印象記とは無関係ですが、もう一つの拙ブログにおいて、興福寺仮金堂で「「阿修羅 天平乾漆群像展」が開催された時のことを少し書いています。そこに仮金堂内での阿修羅像を含む群像の配置図を入手リーフレットから引用してご紹介しています。
ご覧いただけると、うれしいです。
観照  展覧会の秋-京都と奈良ー、そして秋の紅葉

こちらもご覧いただけるとうれしいです。
『阿修羅像のひみつ』 興福寺監修 田川・今津他共著 朝日新聞出版



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