遊心逍遙記

読書三昧は楽しいひととき。遊心と知的好奇心で本とネットを逍遥した読後印象記です。一書がさらに関心の波紋を広げていきます。

『峠しぐれ』 葉室 麟  双葉社

2017-06-13 09:28:44 | レビュー
 岡野藩の領内で、隣国結城藩との境に弁天峠がある。その峠は朝方、霧に白く覆われて道も定かでなくなるところから、朝霧峠とも呼ばれる。峠を西に一町ほど下がったところに昔、峠での遭難除けを祈念して建てられた辨財天を祀る瓦葺の小さな弁天堂があるので、弁天峠と称される。弁天峠の麓には安原宿があり、岡野城下まではこの安原宿を経由して十八里ほどある。この小説は、主にこの弁天峠が舞台となる。
 峠には茶店があり、草鞋や笠も売っている。店の主人は半平、その妻は志乃という。半平は四十過ぎの寡黙な男で、店の奥で茶や団子の支度をする一方、草鞋を編んでいる。それが安くて丈夫なので評判が良い。志乃は三十五、六で目鼻立ちがととのいほのかな色気があり、応対もそつが無く巧みであるので、峠の弁天様という通称で親しまれている。この半平・志乃という茶店を営む夫婦がこの小説の主人公である。なぜか?

 十年ほど前までは茶店を老夫婦がやっていた。いつの間にか半平と志乃が茶店を手伝うようになり、いつしか半平と志乃が茶店を引き継ぎ、十年の歳月が過ぎたのである。
 結城藩では国境に口留番所を設けている。いわば関所である。ある年の初夏、それも朝方に町人の身なりをし、子ども3人を連れた夫婦という親子連れが茶店の前を通り過ぎようとする。一見、番所の役人の目をくぐってきたらしいので関わらない方がいいと思いながら、つい志乃が「お休みになりませんか」と声を掛ける。そんな場面からストーリーが始まって行く。男は吉兵衛といい、結城藩城下の味噌問屋の倅で店を継いだのだがうまくいかず夜逃げしてきたという。このとき志乃は吉兵衛から結城藩の実情の一端を知ることになる。
 この親子連れが峠を下り、麓の安原宿の金井長五郎の旅籠に泊まる。翌朝、奉行所の宿改めがあり、その際親子連れの荷の中から高価そうな珊瑚の簪が出てきたことから、10日ほど前の岡野藩城下での押し込み強盗の一味ではないかという嫌疑を掛けられたのである。
 吉兵衛親子があらぬ嫌疑でお縄になったことが糸口となり、半平志乃夫妻が関わりを持つことになる。そこから様々に波紋が広がり、様々な人々の個別の人間関係の間に、いろいろなつながりができている、あるいはできていたことがわかるにつれて、それが影響を及ぼしていくという興味深い展開になる。そのプロセスが、少しずつ半平志乃の過去の人生の柵を明らかにしていき、二人が過去に繋がる現在状況の渦中に投げ込まれていくというストーリー展開である。そして二人の過去の行為、柵、思いの精算、浄化へと導いていく。
 
 安原宿で大野屋という旅籠の主人である長五郎は、藩から苗字帯刀を許されていて、宿場役人の役目を担っている。さらに、街道筋のやくさ者も憚る顔役だった。奉行所の宿改めで吉兵衛は嫌疑をかけられ取り調べられる。その過程で、吉兵衛が結城藩城下の味噌問屋三根屋の息子とわかったことから、長五郎には若い頃に半ばやくざ者となって流れ歩いて居たころに、吉兵衛の父親に世話になったという恩義が甦ってくる。吉兵衛はその前日に弁天峠を越えて岡野藩に来たことを証言できるのは志乃であるという。そこで、恩義を感じる長五郎が峠を登り志乃に安原宿まで下って協力を依頼する。ここから10年近く峠の茶店の夫婦が背負う過去の人生経緯が明るみに出ざるを得ないという形にストーリーが展開していき、半平志乃は他人の事件から自分たちの過去の柵に立ち向かって行く結果になる。
 二人の秘められた過去が、いくつかの現在事象の進行と関わりあいながら、徐々に表に出てくるプロセスが読ませどころである。

 吉兵衛の幼い娘おせつは、簪を弁天様からもらったと役人に告げる。峠の弁天様と呼ばれるのは志乃である。はたと困惑する志乃。志乃がおせつに尋ねると、それはお堂の弁天様だという。そこで、弁天堂に盗賊一味が一時身を潜めていたことがわかる。
 吉兵衛にかかった嫌疑という最初の事象、小さな謎は、徐々に解明されていく。峠の弁天堂に夜盗夜狐一味が潜んでいたならと、役人の甚十郎は捕り手をかき集め峠に登る。弁天堂は焼かれ、巡礼僧の六部の姿をした強盗が現れる。峠での捕り物となるが、そこに半平が手助けにくる。仕込み杖を振るう六部に半平は薪を手にして対応していく。一味の頭らしき六部は剣の心得がある者だった。頭は半平に仕込み杖を打ち据えられて取り落とすと、その場から逃走する。なぜか半平は追おうとしなかった。このことから半平には夜盗夜狐との関わりが生じてしまう。甚十郎は、薪を剣代わりにして扱った半平の動きから半平が雖井蛙(せいあ)流を使うと判断する。半平がもと武士であったようだと見破るのだ。
 半平志乃がなぜ茶店の夫婦になっているのか。夜狐一味の暗躍という現在事象に巻き込まれたが故に、二人の過去の一端が表に出ることとなる。半平は対応した夜狐の頭らしき者が雖井蛙流の太刀筋をみせたと見抜いたことが、その逃走を追わない理由だったのだが、それがまた別の現在時点の謎を生むことになる。半平志乃の過去の人生という謎解きがこのストーリーの本流としてとして始まって行くとともに、話が思わぬ方向に展開していく契機にもなる。

 ストーリー展開として、宿場役人の長五郎は半平志乃を事件に深く巻き込んでいくきっかけを生み出す狂言回し的な役割りとなる。その一つが、現在事象として、半平が甚十郎の息子の剣術指導を行わざるを得なくなる契機となる。また、甚十郎との関係ができることが、半平志乃のその後の行動にも関わりが深まるという側面が生まれている。長五郎及び甚十郎は、半平と志乃に対する協力者としても働きを担っていくことになる。人のつながりの不可思議さが織り込まれていく。

 半平が武士を捨てた契機がどこにあったのか。その謎がすこしづつ解きほぐされていくのだが、そこには結城藩の藩内の派閥抗争が関係していた背景が見えていく。それは根深く十年を経た今も継続していて、岡野藩をも巻き込む事態になっていたのだ。
 半平志乃はその状況に深く関わって行かざるをえない立場になっていく。それは、長五郎、甚十郎、吉兵衛など主な登場人物がすべて関わって行く事態に進展していくのである。

 このストーリーの構想がなかなかおもしろい。
 小さな事件の謎解きがきっかけとなり、大きな謎に関わりができていく。その大きな謎は、単純なものではなくて、複雑にいくつかの側面を持ち、様々な要因が絡まり合って複合していることが徐々に明らかになっていく。
 そして、「親子の情」という要素が事態の打開にとり重要な梃子となって働いていく。
 この小説のテーマは「情」の有り様を描きあげることにあると受け止めた。その裏に出世欲、権勢欲という情念の発露とその帰着するところはどこかが副次的テーマとなっているように思う。著者はここでもまた、人の「こころ」の有り様を追い続けている。

 ご一読ありがとうございます。


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