遊心逍遙記

読書三昧は楽しいひととき。遊心と知的好奇心で本とネットを逍遥した読後印象記です。一書がさらに関心の波紋を広げていきます。

『決戦! 忠臣蔵』 葉室・朝井・夢枕・長浦・梶・諸田・山本  講談社

2017-06-08 22:14:29 | レビュー
 講談社から戦国時代を舞台にした「決戦!」シリーズが既刊として第5弾まで出版されている。同社から、「決戦!」は戦国時代だけじゃないという観点から、別に発刊された1冊がこれである。既に『決戦! 三國志』が発刊されているのを、この本の裏表紙から知った。いずれこれも読んでみたいと思う。

 さて、本書は見かけは泰平の世となっている元禄年間の大事件、後に「忠臣蔵」という言葉が定着した赤穂浪士の吉良邸討ち入りという事件をテーマにした短編競作集である。 元禄14年(1701)3月14日、江戸城中松之廊下で、浅野内匠頭長矩が、高家筆頭の吉良上野介義央を小刀で切りつけて傷を負わせる事件が発生する。取り押さえられた浅野長矩は、将軍の裁決で即日切腹を申し付けられる。そして赤穂藩は改易となる。国家老大石内蔵助良雄は赤穂城を明け渡し、長矩の弟、浅野大学による御家再興願いの根回しに取り組むが幕府は認めない。吉良義央にはお咎めがなかった。ただ、後に幕府から屋敷替えの命を受け、呉服橋内から本所二ツ目に住まいを移さざるを得なくなっていた。そして、元禄15年12月14日の夜更けに、大石内蔵助を含む47人の浪人が、吉良邸に討ち入り、吉良上野介の首を落とし、泉岳寺に至る。赤穂浪士が泰平の世に、決死の義挙を決行し、赤穂義士と称されることになる。この討ち入りの日は、西洋暦でカウントすると、1703年1月30日にあたるそうである。
 赤穂浪士が赤穂義士と称されるようになるのは、死を賭して武士の一分を立て、成就した12月15日から世評が変化したからだろう。瓦版が江戸市中に広まったことだろうが、「忠臣蔵」という物語として世に親炙するのは、かなりずれる。「仮名手本忠臣蔵」として、寛延元年(1748)竹本座で初演されて以降である。45年のタイムラグがある。人形浄瑠璃・歌舞伎の演目として上演され、人気を博し、「忠臣蔵」という言葉とその意味が世の中に定着していくのである。勿論、そこには様々な推測、想像が加えられていく。ほぼ半世紀経って、やっとフィクションの形式での上演が幕府のお咎めなしとなったのだろう。 その結果、「日本人が愛し続けた物語」が存続してきたのである。
 どこまでが史実で、どこにフィクションが含まれるか・・・・多分、当事者以外には、当時も現代人にもほとんどがグレーゾーンの世界にあることかもしれない。
 この「忠臣蔵」、誰の立場、価値観、視点に立つかで、その見え方がかなり変化するはずである。それ故に、戦国時代と同様に、忠臣蔵の世界も、様々な作家、脚本家、演出家、映画監督などの関心を引き続けているのだろう。

 忠臣蔵の世界を、短編作品で描く。それは、どの局面を、誰の立場・価値観・視点から切り取るか、その発想と一点凝縮として描き出すかにかかる。今回の「決戦!」の面白さと興味深さは、戦国時代の舞台と比較すると、かなり限られた忠臣蔵の世界の中で、どういうアプローチを各作家が行うか、というところにもある。
 以下、この短編集の掲載順に読後印象をまとめてみたい。

<鬼の影> 葉室 麟
 赤穂の城の明け渡しを無事終えて、山科に居を移した時期の大石内蔵助良雄の立場と視点から、大石の山科時代の姿が鮮やかに描き出される。伏見の橦木町の遊郭で一見遊び呆ける中で、大石が作った歌詞、そこに秘めた思いを底流にしながら、大石の多面的戦略が描かれている。大石の虚と実のないまぜとなった行動の描き方がおもしろい。大石の鏡となって描きこまれるのが小野寺十内と山科まで江戸から出向いてきた堀部安兵衛である。 この短編、3つのキーフレーズが中核となっている。一つは『山鹿語類』にあるという「士ハソノ至レル天下ノ大事ヲウケテ、其大任ヲ自由ニイタス心アラザレバ、度量寬カラズシテセバセバシキニナリヌベシ」であり、あと2つは著者が十内に語らせたた「やわらかなる心」と、『近思録』にあるというフレーズである。「感慨して身を殺すは易く、従容として義に就くは難し」。短編の中での山場づくりが実に巧みである。

<妻の一分> 朝井まかて
 赤穂の街道筋の茶屋が設定場所となる。そこで、なぜか男言葉の江戸弁で茶屋の客に語りかけるように一人語りが始まって行く。なぜ、江戸弁? また、大石内蔵助とその家族の身近に居て、これらの人々と関わりを持ち観察していた立場で語られて行く。大石家のプライベートが題材になっていく。語るのは誰か? その発想がまずおもしろい。一人語りの途中で、その語り部が自ら語るので、ネタばらしはやめておく。妻の一分の妻とは?大石内蔵助の妻、りくである。ストーリーの半ばから大石内蔵助の「妻の一分」を中心にこの語り部が江戸弁で語っていくという構想である。
 一人語りを聞き終えた茶屋の客は誰か? その客は、作家であり、話を聞いて浄瑠璃にする題を思いついたという。『仮名手本忠臣蔵』だと。構想として、おもしろい落ちである。

<首なし幽霊> 夢枕獏
 忠臣蔵が題材で、首なし幽霊というタイトルならば、首なし幽霊は吉良上野介という連想がはたらく。しかし、この短編、忠臣蔵自体を扱わず、その後に起こった幽霊話となっていて、吉良上野介のある能力の側面に光を当てていて、一つの謎解き話になっているところが面白い。
 人形町の鯰長屋に住む遊斎の家に、長門屋六右衛門が訪ねてきた場面から話が始まる。六右衛門は遊斎の特注品である釣り竿を届けにきたのだ。仕舞い込み寸法1尺6寸で、伸ばすと全長9尺(約2.7m)ほどになるものである。六兵衛は遊斎になぜ自分のところにその特注の依頼が来たのか、どこで六兵衛のところの竿のことを聞いたのか、と尋ねるのだった。遊斎は『魚人道知邊(ぎょじんみちしるべ)』という書に懐中振出し竿の記述があったからという。それを聞いた六兵衛がその書の著者である玄嶺が小普請組の加山十三郎という侍であり、十三郎が首なし幽霊が夜になると出てくると悩んでいると言う。そして、十三郎は遊斎の噂を聞いていて、六右衛門に遊斎に幽霊の問題解決を依頼したいと頼むのだ。そこから、遊斎と十三郎が会う事になる。なかなかおもしろい発想のストーリーだ。 ちょっと変わった切り口の短編である。『大江戸釣客伝』を書いている著者ならではの発想か。

<冥土の契り> 長浦京
 吉良邸討ち入りに加わった四十七士の一人、不破数右衛門正種を主人公にした短編。不破数右衛門の人物像を描き出していく。討ち入りの夜、赤穂浪士の一人として隊列を作り吉良邸に進む不破数右衛門の胸中の思いから書き出される。数右衛門が、同志からどこかで裏切るのではないかと信用されていないということを自覚している一方で、「俺自身も今ここにいることが半ば信じられない」と思っているという心理描写から書き出される。「右に左に曲がりながら行く先には、幸運も不運も、大義もない。ただ負うた義理を消し去るため、この道を進み、壊し、斬り、首級を挙げ、そしてこの身も死して終わるのみ」と不破数右衛門が覚悟している。それはなぜか? それがこの人物を描くテーマとなっている。討ち入りの夜から1年8ヵ月前に遡って、ストーリーが始まる。
 ところで、不破数右衛門は4年前に赤穂藩を追われ、浪人となり江戸に住んでいたのである。つまり、浅野内匠頭の松の廊下事件の時点で、既に赤穂藩とは縁が切れていた存在なのだ。その不破が四十七士の一人に加わっていたという事実を、この短編で初めて知った。その事実に著者の想像力が羽ばたき、奇想が生まれたというところか。

<雪の橋> 梶よう子
 討ち入りという事象を吉良側から眺めると、当然ものの見方は変わる。この短編は、高家旗本吉良家中小姓、清水一学の立場で、討ち入りを想定し上野介を護ろうと身構え、その夜、行動した武士の思いと生き様を描く。上野介の目にとまり、百姓の倅から武士に取り立てられた男にとり、日頃接した主君である上野介、所領では「赤馬の殿さま」と呼ばれ慕われていたという上野介がどのような人物であったかを描く。一学の思いは、「大殿を打たせてはならん。討たれれば、我らが不忠者と誹られる」(p172)である。そして、あるとき上野介の妻富子が自分の髪に差していた櫛を抜き取り、「これを送ってあげなさい」と言って与えた雪景色の橋の意匠の櫛のエピソート、一学の美与への思いが重ねられていく。赤穂事件の真実は何か? 吉良上野介義央の実像とは? この短編はステレオタイプの忠臣蔵像へ一石を投じたともいえるフィクションである。事実を求めたくなる興味深い読み物となっている。

<与五郎の妻> 諸田玲子
 森家の江戸下屋敷のお長屋に住む江見甚右衛門の妻・ゆいを主人公にした物語である。半年ほど前に森家下屋敷の御用達になった酒屋の庄助が、美作屋善兵衛という扇の行商をする小間物屋から託されたという扇をゆいに届けに来た場面から書き出される。ゆいの前夫は神崎与五郎。5年前に美作国津山城主であった森家は騒乱が起こり、改易となった。ゆいは離縁を余儀なくされた。その後、森家は小大名として返り咲くことができた。与五郎との間にできた一男一女を連れて、ゆいは再嫁して江戸作事奉行・江見甚右衛門の妻となっていた。
 赤穂浪士のそれぞれには、家族が居て、人間関係がある。赤穂藩の家臣となる前の過去もある。しかし、赤穂藩改易後、忠義を目的とした浪士たちは一切の柵を斬り捨てて、目的完遂を優先する選択をした。津山森家の家臣で改易により浪人し、その後赤穂藩家臣となったが、ここでも改易のために浪人に戻った神崎与五郎が、討ち入り決行の前に、ゆいに一度再会したいという思いを託したのが舞鶴の絵柄の扇だった。そこから、ゆいの思いの乱れが始まって行く。一種ハムレット的心理が描写されていく。ゆいがどういう行動を選択するか。甚右衛門がどういう反応と行動をするか。その心理描写が読ませどころである。

<笹の雪> 山本一刀
 著者は高知県宿毛市立宿毛歴史館に赤穂義士四人の遺墨原本が保存されていると記す。そこは泉岳寺で修行した僧白明の在所だという。(ネット検索で調べてみると、宿毛市史には、東福院に遺墨が残ると記されている。宿毛歴史館のホームページには、この遺墨のことについてのページはなさそうである。)
 土佐国宿毛の東福寺に属する雲水の白明は、元禄15年3月から泉岳寺の衆寮に寄宿する雲水として修行を続けていた。新年を迎えれば20になる雲水である。大鍋で作る粥当番を進んで引き受け、任されていた。
 この短編は、泉岳寺で修行する白明を中心人物とし、討ち入りを果たして浅野内匠頭の墓がある泉岳寺に向かってくる赤穂浪士を、泉岳寺がどのように受け入れたかを描いて行く。赤穂浪士が泉岳寺に向かってくるという情報を結果的にいち早く伝えたのは、泉岳寺の裏山伝いに、境内に入り込んできた瓦版屋の耳鼻達(記者)だった。境内で密かに様子を取材するつもりだったのだ。その不審者の侵入を白明が発見したことから、話が進展していく。史実とフィクションの狭間がどこにあるかは知らないが、白明の思考と行動、泉岳寺の上層の僧の対応が鮮やかに描かれていて、躍動感と読み応えがある。白明と白明が世話役となった4人の赤穂義士との心の交流が最後のクライマックスとなる。
 「ご住持は、これからお見えになるであろう方々を、赤穂義士とお呼びになられた。本日ただいまより当寺においては、赤穂義士とお呼び申し上げる」(p239)と著者は描き込む。この時、赤穂浪士は赤穂義士に変容したのである。

 裏表紙に記されているが、元禄15年12月14日を西暦に変換すると、1703年1月30日に相当するそうだ。暦は西暦で太陽暦になったが、討ち入りの日は、太陰暦での12月14日の日付が、そのまま現在のカレンダーでの12月14日に継承されている。江戸時代を通じて続いた日付の思いが、そのままスライドして忠臣蔵のシンボル、記号として定着したのだろう。1月30日という読み替えの感覚を全く持ち合わせて居なかった己に気づいた。裏表紙をみて、アア、ソウナンダ!とはわかっても、心に刷り込まれた日付は、やはり12月14日だなあ・・・・と思う。
 
 ご一読ありがとうございます。

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本書に関連し、関心事項をネット検索してみた。一覧にしておきたい。
仮名手本忠臣蔵  :ウィキペディア
仮名手本忠臣蔵  :「文化デジタルライブラリー」
赤穂事件  :ウィキペディア
赤穂事件  :「コトバンク」
赤穂事件の人物一覧  :ウィキペディア
赤穂四十七士と萱野三平  :「元禄赤穂事件の一部始終」
元禄赤穂事件の詳細その1  :「元禄赤穂事件の一部始終」
忠臣蔵の謎と真実 :「SENGOKU SURVIVAL」
萬松山泉岳寺 ホームページ
  境内案内 
宿毛市立宿毛歴史館 ホームページ
赤穂義上の遺墨と東福寺 宿毛市史[近世編-文化人と宿毛]
赤穂浪士と土佐  土佐史研究家 広谷喜十郎氏  :「高知市歴史散歩」
吉良義央  :ウィキペディア
吉良上野介を巡る旅 領民から慕われる悲劇の名君  西尾市観光協会
華蔵寺  :「西尾市観光協会」
吉良上野介義央と吉良左兵衛義周の生涯:「元禄赤穂事件の一部始終」
清水一学 :ウィキペディア
清水一学の墓  :「墓地・終焉地写真紀行」
討入り名場面-その12-  :「忠臣蔵新聞」


(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれません。
その節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。
その点、ご寛恕ください。)


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決戦シリーズを読み継いできました。以下もご一読いただけるとうれしいです。
『決戦! 桶狭間』 冲方・砂原・矢野・富樫・宮本・木下・花村  講談社
『決戦! 川中島』 冲方・佐藤・吉川・矢野・乾・木下・宮本 講談社
『決戦! 本能寺』 伊東・矢野・天野・宮本・木下・葉室・冲方  講談社
『決戦! 大坂城』 葉室・木下・富樫・乾・天野・冲方・伊東  講談社
『決戦! 関ヶ原』 伊東・吉川・天野・上田・矢野・冲方・葉室  講談社



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