遊心逍遙記

読書三昧は楽しいひととき。遊心と知的好奇心で本とネットを逍遥した読後印象記です。一書がさらに関心の波紋を広げていきます。

『天の光』 葉室 麟  徳間書店

2014-11-16 10:01:14 | レビュー
 本書のタイトル・ページの次のページには、「救わで止まんじ--(十一面観音菩薩誓願)」という一行のみ記されている。
 本作品は、博多の仏師高坂浄雲の門下になった清三郎とその妻おゆきの愛のあり方の物語である。悲哀の愛、一途な愛であり、忍ぶ愛でもある。一人の仏師の生き様とその生き様に巻き込まれた妻の数奇な生き様が織り上げられていく。
 巻末は次の文章で結ばれている。
 「おゆきの幸せこそ、自分が精魂込めて彫り上げた仏だった。
  わたしの命の火が消えても、おゆきは嘆かないで欲しい。わたしはたとえ、
  自分が救われなくとも、いつまでも変わらず、おゆきに降り注ぐ、
  --天の光
  なのだ。」

 清三郎は福岡藩普請方五十二石柊尚五郎の三男で部屋住みの身。それ故に17歳で仏師の道を歩み出す。17歳で入門した高坂浄雲は慶派の仏師である。清三郎は博多の祇園町にある浄雲の工房に住み込み修行する。23歳になった清三郎は師匠浄雲に見込まれて、「おゆきの婿になれ」と短く言い渡される。おゆきは18歳。
 兄弟子玄達は師匠の娘婿となった清三郎を憎らしげに思っている。
 清三郎は師匠がなぜ自分を婿に望んだのかと、浄雲に訊くと、「お前は悪性だからな」と浄雲はひと言答えたのだ。そして、浄雲は清三郎に淡淡と語った。「仏はな、まことに会いたし、と思う者の前にしか姿を現されぬ。悪性であるお前には、いつか仏に会いたいと心底、願う日がくる。それゆえ、わしの跡継ぎにふさわしいのだ」と。

 激しい気性を秘める清三郎は、「仏像を彫り始めると、すべてを忘れ、寝食すらなおざりに昼夜なく彫り続ける」タイプだった。それを玄達は「お前は彫ることに精進しているのではなく、淫しているのだ」と詰る。その玄達は清三郎とおゆきの祝言が近づいたある日、浄雲の門人3人をともなって出奔してしまう。この玄達がその後、清三郎・おゆき夫婦の元凶となっていく。
 
 清三郎は仏師としての技には習熟し優れていくが、木の中に仏の姿を見出せない。これまで見知った仏の像に似せて彫っているに過ぎない、職人であっても仏師ではないと自己批判する。さらに、一方で、師浄雲はまことに木の中に仏を見ておられるのだろうか、という疑いをすら抱くに至る。
 そして、京に出て院派に学び、頂相(ちんぞう)をやりたいと思うようになる。頂相制作に腕を振るう京仏師・吉野右京のことを伝え聞いたことによる。そして、京に上る希望を浄雲に願い出る。師の浄雲は、破門覚悟及びおゆきとは離縁を言い渡す。清三郎は浄雲に懸命に言う。
 「仰せであれば、破門はいたしかたございませぬが、おゆきとは夫婦のままでいたいと思っております。おゆきが別れたいと言うまで、わたしどもは夫婦でございます」
 それに対する浄雲の言ったことは、「そのようなわけにはいかぬ。手中にないものを得ようとすれば、手にしているものを失うは道理だ。失った後になって持っていたものの大事さに気づいても遅い。もはや元に戻りはせぬ」

 寛文3年(1663)1月、清三郎は三年たてば必ず戻るとおゆきに約束して京へ向かう。おゆきは三年間清三郎を待つとけなげに答えるのだが、清三郎が京へ立った後、父浄雲ともども、おゆきには危難が訪れる。
 京に入った清三郎の仏師としての修行と生き様。そして約束の三年で博多に戻ると状況が激変していた。危難に遭ったおゆきは行方知れず。その行方を追うことから、物語は急激に展開していく。
 危難に遭ったおゆきを一旦救うのは博多の豪商伊藤小左衛門だが、その小左衛門の庇護を受けることが、おゆきに別の危難と葛藤をもたらすこととなる。

 本作品は「(この世の悪しきものから逃れたいと思った者だけが仏を見ようとするのだ)仏師として生きるのは、自らの内にある仏を見出そうとすることにほかならないのではないか、と思い至った」(p13)という起点から、「ひとを救う仏像を彫ることは難しくはない、ただ心を籠めればよいのだ、とわかった」という終点・次元への仏師清三郎の軌跡を描き出している。
 その過程においては、京において知り合いから紹介された仏師愚斎の生き様と、伊藤小左衛門の清三郎に対する試すような言葉並びにその生き様、流刑の地・姫島での日蓮宗不受不施派の僧日辰との出会いが大きく影響を及ぼしていく。
 そこに危難に遭ったおゆきが清三郎に対する愛の有り様が深く関わっていく。元に戻ろうとする清三郎と、清三郎への愛故に、元に戻ることはできないいう思いのおゆきの愛の有り様の違い。一途な愛が、忍ぶ愛となる。

 本作品の構成展開を起承転結としてとらえてみると、
 起: 17歳で浄雲門下に入り、23歳でおゆきと結婚、寛文3年1月まで。
    仏師としての清三郎の懊悩と生き方の選択
 承: 京での仏師修行の3年の生き様。愚斎との出会い。
 転: 行方不明のおゆき探しと伊藤小左衛門屋敷での仏師としての生き様
 結: 流刑地姫島での日辰との出会い。おゆきとの関わり方と仏師としての生き様。
というところである。結の部分のストーリー展開が全体のボリュームの二分の一である。それだけ、このストーリーでは、姫島の展開がテーマに大きなウエイトを持っているといえる。

 本作品から副次的に仏像についての知識が広がること及び日蓮宗の中に不受不施派という宗派が存在し、ある意味でかくれキリシタンの日本版のような状況が江戸時代に現出していたということを学べることが興味深いところである。それと、伊藤小左衛門が実在した人物だったことである。
 伊藤小左衛門に関係して、そこに政治の非情さにさらりと触れているところに著者の視点が窺える。流刑地姫島の人間関係とその点描にも著者の視点が広がっていて興味深い。
 印象に残る文章をいくつか抽出しておきたい。
*仏の慈悲とは、文字通り悲しい心を慈しむこと。悲しみを抱いた人の心は仏様に慈しんでいただける。それゆえ時を待てばよい。  p170
*不動明王が邪鬼を退治できるのは憤怒の相の下に隠した慈悲によってだ。 p180
*闇の世を生きるひとびとが味わうのは嫉妬、欲望、我執の苦悩ばかりだ。それを照らし出し、ひとを導く光こそが仏であるだろう。仏の像を彫るとはすなわち、光を見出すことにほかならない。  p183



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仏に関する基礎知識:八大童子(はちだいどうじ):「高野山霊宝館」
  矜羯羅(こんがら)童子、制多迦(せいたか)童子ほか。
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十一面観音立像 滋賀・向源寺蔵
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乾漆十大弟子立像 :「興福寺」
弥勒菩薩半跏思惟像 :ウィキペディア
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吉野右京についての覚書  長谷洋一氏  pdfファイル
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伊藤小左衛門 :ウィキペディア
萬四郎神社 :「萬盛堂歳時記」
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  :「旅スケ」

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