遊心逍遙記

読書三昧は楽しいひととき。遊心と知的好奇心で本とネットを逍遥した読後印象記です。一書がさらに関心の波紋を広げていきます。

『黒田官兵衛 智謀の戦国軍師』 小和田哲男  平凡社新書

2013-12-29 11:33:02 | レビュー
 黒田官兵衛は関心を抱いている人物の一人だ。ストレートなタイトルに興味を抱いて本書を読んでみた。

 いくつかの小説に黒田官兵衛が現れることから官兵衛に関心を持ち始めた。そして葉室麟の『風の王国 官兵衛異聞』(現在、文庫本では『風の軍師 黒田官兵衛』(講談社文庫)と改題)を読んだことで、一層関心を深めている。遅ればせながら、だが司馬遼太郎『播磨灘物語』は未読である。これから読んでみようかと思っているところだ。

 本書は日本中世史専攻の学者、研究者の視点から、副題にある「智謀の戦国軍師」という側面に的を絞って記されたものである。学者という立場から当然のことだろうが、史実資料をベースにして考証されている。「はじめに」の冒頭で、著者は官兵衛の魅力を端的に「戦国時代の最も軍師らしい軍師」であり、「トップになれる力をもちながら、補佐役に徹したその生き方」にあると言う。本書はこのまとめを具体的に敷衍していった書だとも言える。

 官兵衛がどういう働きをしたのか、客観的な史実資料という裏付けを通して見た官兵衛像を把握できる点が本書のメリットといえる。
 本書は6章構成になっている。まず、章立てを眺めておこう。
 第1章 若き日の悩める官兵衛
 第2章 信長への接近と秀吉との出会い
 第3章 軍師としての片鱗をみせはじめる
 第4章 熾烈な毛利氏との戦い
 第5章 秀吉の天下統一を支えた官兵衛
 第6章 秀吉路線から家康路線へ

 著者は官兵衛の智謀が、孫子の説く「戦わずして人の兵を屈するは、善の善なるものなり」を実践するためにめぐらされたという側面を評価している。

 著者は黒田家のルーツについては、一応通説を支持し、滋賀県長浜市の木之本町黒田とする。『黒田家譜』にあるとおり、宇多源氏佐々木氏庶流とし、黒田宗満を初代とみて、5代高政のときに、近江から備前国邑久(おく)郡福岡(現在の岡山県瀬戸内市長船町福岡)に移住したとする。さらに、高政の子・重隆のときに播磨の姫路に移住したとする。このとき、黒田家伝来の目薬を玲珠膏とよび、播磨の広峰大明神とセットで販売することで、重隆の代に財をなしたという『夢幻物語』の内容を紹介している。そして、播磨中部に勢力をふるい、御着城を本城とした小寺政職(まさもと)の家老の一人として、重隆の子職隆が、御着城の支城だった姫路城の城主となるに至ったとする。

 官兵衛は姫路城主の長男として、天文15年(1546)11月29日に誕生する。官兵衛の母は、小寺家の家老の一人で、明石城の城主・明石備前守正風の娘である。正風は隠月斎宗和と号する文人でもあり、関白近衛稙家父子に歌道を授けたといわれる人である。著者は官兵衛の母も歌人だったろうと推測する。永禄2年(1559)14歳の時、母を亡くした官兵衛が歌道にのめり込んだ契機がここにあるととらえている。
 その官兵衛が17歳の頃、歌道を断ち、武芸の稽古と武経七書を読みその蓄積をはかったものと見る。官兵衛は16歳の時、80石を給され小寺政職の近習となり、永禄5年(1562)17歳で初陣をしたようだ。元服して幼名万吉から諱を孝高と名乗る。当初は孝隆と名乗っていたそうだ。官兵衛は通称なのだ。
 永禄10年(1567)、22歳で官兵衛は結婚する。相手は播磨の志方城城主櫛橋伊定の娘光(てる)15歳。光はふつう幸円の名で知られているそうだ。著者はこの結婚を主君小寺政職の意向による政略結婚とみている。このとき、官兵衛の父・職隆は官兵衛に家督を譲ったという。つまり、官兵衛は22歳で、当時の姫路城城主、小寺家の家老であり、家督を継承したということになる。そして、翌年、官兵衛・光の間に長男が生まれる。幼名・松寿、後の長政である。
 第1章は、このように官兵衛の順調な武将としてのスタートを詳細に記述していく。

 その官兵衛が、戦国の厳しい合戦の連続という修羅場に直面していくことになるが、そのプロセスの転換点を上記の如く、ステージ毎に切り分けて説明していく。読者にとってはわかりやすいステージ分けである。
 官兵衛が直接・間接に主に関わった合戦と主要事項を本書の記述から抽出してみる。詳細は本書でご確認願いたい。

第1章
 永禄12年(1569) 青山の戦い 龍野城の赤松政秀  迎え撃つ戦
 この頃  土器山(かわらけやま)の戦  家臣母里小兵衛・武兵衛父子の討ち死に
第2章
 天正3年(1575)6月 御着城での大評定 官兵衛は織田陣営に属することを主張
  著者は官兵衛の情報収集力とその分析を説明する。
 天正3年7月 官兵衛が岐阜城への使者となる。信長に謁見し、名刀「圧切」を得る。
 天正4年/5年 毛利軍との初戦(直接対決) 英賀(あが)合戦
  旗指物で後詰を偽装する奇策による作戦勝ち。官兵衛の智謀の始まりか?
 天正5年10月 15,000の大軍を率いる秀吉の姫路城入城。城を秀吉に譲る。
  息子松寿を人質に差し出し、二の曲輪に移る。後、妻鹿に国府山城を築き移る。
第3章
 天正5年(1577)11月 福原城の戦い 秀吉軍の城攻めの大将となっての戦い
  『孫子』の兵法「囲師必闕」を官兵衛は実践する。
 天正5年11-12月、翌年  上月城の戦い
  著者は秀吉軍のみせしめ的殺戮の実行に対する官兵衛の関与がどうか不明という。
 天正6年10月 有岡城主荒木村重の謀反に対し、官兵衛は説得に向かう。
  官兵衛は有岡城に幽閉される。村重謀反と幽閉に対する著者の推論が興味深い。
  この時の官兵衛の重臣たちの絆の強さを初めて知った。官兵衛の強みがここに。
 天正7年10月 有岡城落城で、官兵衛は幽閉から救出される。ほぼ1年間の幽閉
  この後小寺の姓を捨て黒田姓に戻る。最初の文書史料は1580.7.24付の秀吉書状
 天正8年 秀吉による知行宛行(あてがい)により、秀吉から1万石を与えられる。
  所領は姫路周辺に集中。『黒田家譜』では、居城は山崎城(宍粟市山崎町)
  著者は国府山城に官兵衛はいたのではないかと推論している。
第4章
 天正9年9-10月 篠原自遁の阿波木津城救援のため、阿波に出陣
  長宗我部元親との戦。同時期に秀吉は鳥取城攻めと「渇え殺し」を実行
 天正10年(1582)3月 蜂須賀正勝と備前常山城攻めし、落城させる。
  官兵衛は「境目七城」攻めにおいて、毛利方武将への勧降工作にも従事
 天正10年5-6月 備中高松城の水攻め 秀吉に従軍、軍師として行動
  「本能寺の変」の知らせに対する秀吉への官兵衛の行動と思考を著者は推論する。
  諸説を紹介した上での解釈と説明が非常に興味深い。 
  毛利方との和議、領土境界画定のための交渉に官兵衛は関わっていく。
  秀吉「中国大返し」の際、官兵衛が小早川隆景から毛利氏の旗を借用したという。
  このエピソードについての著者の説明がおもしろい。正に智謀官兵衛の面目躍如
 天正10年9月~天正13年2月 毛利氏との境界画定のための交渉とその完了
第5章
 天正11年(1583)賎ヶ岳の砦周辺の小屋の取り壊し作戦に従事
  目的は秀吉に、後方から軍勢を入れるねらいがあったと著者は説明する。
 天正11年9月-13年4月 大阪城の縄張を担当。第1期工事での普請惣奉行に。
 天正13年6月 長宗我部元親との戦い 四国攻めに出陣 岩倉城攻めの指揮をとる。
 天正14年7月 島津軍攻めの「露払い」として出陣
  豊前宇留津城(福岡県築上郡築上町)攻めの采配をふるう。11月に落とす。
  このとき官兵衛はあえて残酷な戦いをしかけたと著者は説明する。
 天正15年4月 秀長とともに、根白坂の戦い ここで島津軍の撤退、島津義久の降伏
 天正15年6/7月 豊前12万石に栄転
  一旦、馬ヶ岳城(福岡県行橋市大谷)に入るが、中津城を新規に築く(大分県)
  官兵衛が肥後一揆の鎮圧に出かけているとき、豊前一揆が起こる。
  著者はこの豊前一揆の状況を詳細に分析している。黒田家の地盤固めとなる。
 天正17年5月 家督を長政に譲って官兵衛は隠居する。このとき、官兵衛44歳
  著者は人心の一新がねらいとし、宇都宮鎮房謀殺の汚れ役を官兵衛が負うとみる。
  著者による官兵衛の隠居にまつわる周辺の分析が非常に興味深い。
 天正17年 毛利氏の広島への移転。この城の縄張は官兵衛が担当したという。
 天正18年(1590) 秀吉の小田原城攻め。官兵衛も秀吉の陣中につき従う。
  官兵衛は開城勧告の使者に選ばれる。
第6章 
 天正19年8月 『黒田家譜』は名護屋城の縄張をしたのが官兵衛と記す。
  傍証史料はないという。著者はその造り方などから類似性があると指摘する。
 文禄2年(1593)2月 秀吉の命を伝える立場として朝鮮に渡る。
  無断帰国という軍令違反を実行。蟄居謹慎を命じられ、そこで剃髪出家している。
  このときから、「如水円清」と号するようになる。
 慶長2年(1597) 第二次朝鮮出兵において、軍監の立場で渡海
  このとき、梁山城を1,500の兵で、朝鮮の軍勢の攻めから守り抜く。
  翌年5月、秀吉の命で帰国。
  官兵衛の二男熊之助16歳が朝鮮に渡海しようとし、嵐に遭遇し溺死する結果に。
 慶長5年(1600)6月 黒田長政は蜂須賀正勝の娘を離縁し、家康の養女と結婚
 慶長5年9月 石垣原の戦い(九州版・関ヶ原の戦い)
  関ヶ原の戦いに家臣を率いて出陣している長政に対し、留守部隊を使った戦い
  大友義統(よしむね)との戦い
  この石垣原の戦いに官兵衛の野心と真骨頂が現れている。
  著者が詳細に分析していておもしろいところである。特に、関ヶ原の戦との関連分析が興味深い。歴史にもしもがあればという点の考察もあり、読ませどころである。

 関ヶ原の戦いにおける論功行賞により、黒田長政は豊前中津から筑前福岡に転封となり、52万3000石となる。

 慶長5年12月 筑前名島城に入る。
 慶長6年-12年 福崎に築城し、福崎を福岡に改称する。
  翌7年 長政は本丸に入り、官兵衛は三の丸の御鷹屋敷にて隠居生活
 慶長9年3月20日 官兵衛は伏見の藩邸で死去 享年59歳

 当時は「軍師」という言葉が実在しなかったようだが、いわゆる軍師という局面についての考察は微細に及ぶ。資料的な裏付けが取れないことが原因かどうか不明であるが、世にキリシタン大名の一人と言われた黒田官兵衛の局面にはほとんど触れられていない。p115-117で「キリスト教への入信」として若干触れているくらいである。通説に従うとしている。官兵衛のキリスト教入信が一時期だけだったのか、心底生涯変わらぬものだったのか私にはわからない。しかし、キリシタンという心理的側面を内蔵した官兵衛が軍師という立場で行動するとき、そのことが軍略思考にどういう影響を及ぼしたのかという観点にも興味を持っている。勿論、それは全く無関係なのかもしれないが・・・・。この点で著者の言及が見られなかったように思う。公式な文書や歴史的資料の多くには、キリシタン禁令以降は極力キリシタンという局面の痕跡を残さないというのが当然の処置としてとられただろう。客観的証拠の裏づけのない分析は、学者・研究者の視点では論じられないとは思う。しかし、そこに少し私の勝手なこだわりが残る。
 
 官兵衛の辞世の句として伝わるのは

 思ひおく言の葉なくてついに行 道はまよはじなるにまかせて

だという。


 ご一読ありがとうございます。

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本書に出てくる語句関連でネット検索してみた。一覧にまとめておきたい。

黒田孝高 :ウィキペディア
黒田氏  :「戦国大名探究」
軍師黒田官兵衛とは黒田癒えとは(黒田孝高、黒田如水)
軍師 黒田官兵衛(黒田孝高、黒田如水) :「日本・歴史 武将・人物伝」
 
黒田氏家旧縁之地 ← 黒田氏発祥の地・木之本町黒田 :「DADA Journal」
  黒田氏発祥の地(長浜市・旧木之本町) :「不楽是如何~史跡めぐりドライブ~」
 
小寺政職 :ウィキペディア
小寺政職 黒田官兵衛の能力を高く評価した大名 :「戦国武将列伝」
 
御着城 :「城と古戦場 ~戦国大名の軌跡を追う~」
志方城 :「城と古戦場 ~戦国大名の軌跡を追う~」
有岡城  :「いたみ官兵衛プロジェクト 情報交流サイト」
 有岡城惣構の図と「官兵衛の有岡城幽閉」の投稿記事等が掲載されている。
中津城 :ウィキペディア
福岡城と城下町  福岡歴史なび :「福岡市の文化財」
福岡城跡 :「よかなびweb」
福岡城 :ウィキペディア
 
石垣原の戦い :ウィキペディア
吉弘統幸と石垣原古戦場(大分県別府市):「城跡散歩」
大友氏の終焉 石垣原の戦い :「戦国 戸次氏年表」

赤壁 合元寺 ホームページ
血痕が絶えない合元寺の赤い壁 :「九州大図鑑」
崇福寺 :「福岡市の文化財」
福岡藩主黒田家墓所 :「福岡市の文化財」
黒田家代々の墓がある崇福寺  博多の豆知識 Vol.73 :「福岡市」
太宰府天満宮 :「晴れのち平安」
 如水の井戸、如水社の写真が掲載されている。
 
左の手は、何事を為したりしか…『黒田如水伝』1916年 :「YOMIURI ONLINE」
なっとく日本史:黒田官兵衛 逸話の多く、疑わしい 一次史料で実像研究を
 毎日新聞 2013年10月05日 西部朝刊  :「毎日新聞」
 
黒田家譜メモ(中途半端) :「資料メモログ」
 
国宝刀 名物「へし切長谷部」:「福岡市博物館」
国宝太刀 名物「日光一文字」:「福岡市博物館」
 
福岡藩 黒田家 :「江戸三百藩HTML便覧」
 

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『風の王国 官兵衛異聞』
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