一条天皇の中宮となった藤原道長の長女・彰子の人生、その生き様を描いた小説である。清少納言を介して中宮定子を、紫式部を介して中宮彰子に触れるということが今までのパターンだった。そして、藤原道長が長女・彰子を一条天皇へ入内させたことにより、藤原一族における摂関政治をより強固なものにし始めたという側面だけの知識に留まっていた。今までストレートに藤原彰子の宮廷における生き方とその存在感そのものを考えたことがなかった。一条天皇を軸にした書としては、『源氏物語の時代 一条天皇と后たちのものがたり』(山本淳子、朝日新聞社)という評論書を読んだことがあり、一条天皇に興味を抱き、彰子を后の一人という形で読み通していた。
この小説は、入内し中宮となり国母という立場に移っていった彰子の視点から語られていく。平安時代の宮廷がどのような状況を呈していたかを具体的に描き出している。宮廷における貴族たちの政権争い、勢力争いの生々しい確執とその状況が詳述されていく。宮廷は優雅で煌びやかなものではなかった。そこには様々な怨みが渦巻いていた。実に人間くさいドロドロとした人間心理と葛藤が日常となっていた。その本質はどの時代にも巨大な組織においては底流として人間行動と心理に共通するものだろうと思う。
入内した彰子は一種の疎外感・孤独感に捕らわれる。一条天皇とどのように接するかから始まる。一条天皇の心と考え・行動に接する機会が増えるに従い、徐々に己の立ち位置を認識し、一条天皇の信念に共鳴し、それを受け入れていくようになる。それまでに長い年月がかかる様子が描き込まれていく。そして、彰子は一条天皇の理念を己が引き継ぎそれを実践していこうと決意する。史実を踏まえて、著者は彰子の思いと考え、行動の軌跡をフィクションとして描き込んで行く。
藤原道長は己が力を得て宮廷政治における覇者として活動するための手段に、長女の彰子を筆頭に、妍子、威子、嬉子、寬子を次々と宮廷に入内させた。彰子は12歳で一条天皇のもとに入内させられた。その時点から彰子は父道長を客観的に見つめていくようになる。そして、一条天皇の心を知ることで、彰子は父道長とは時に対立する立場を取ることも辞さない己を築き上げていく。ここには、平安時代の宮廷政治のダイナミズムが赤裸々にフィクションの形で描かれて行く。断片的に記録に残る史実を踏まえて著者は宮廷政治の世界を鮮やかに生々しさを加え巧みに描写している。実に人間くさい側面が描き込まれている。
藤原彰子の人生を、さらには道長をもビビッドに感じさせ、イメージさせてくれる作品である。
この作品の全体構成と要点を少しご紹介しておこう。
「望月の章」「初花の章」「日輪の章」の三章構成になっている。
<望月の章>
この世をば わが世とぞ思ふ 望月の
欠けたることも なしと思へば
冒頭は、道長がこの歌を詠んだ日、寬仁2年(1018)10月16日から始まる。この時、彰子は31歳。既に1011年6月に一条天皇が崩御し、彰子は二年前に即位した後一条天皇(敦成)の産みの母として、太皇太后になっていた。この時点で、彰子が父道長をどのように客観的に見つめているかがまず描写される。それがこのストーリーの基調にもなる。
そして、彰子が入内した長保元年(999)時点が回想されていく。
12歳で入内した彰子の生活環境。当時の一条天皇にとった彰子の態度と一条天皇の対応。彰子の抱く疎外感、孤独感などが描写され、徐々に一条天皇の思い、考えなどが見え始める。彰子が中宮定子をどのようにとらえていたかが後の展開での重要なポイントになっていく。なぜなら、翌年、先例のない一帝二后制が創出された。中宮定子が皇后となり、彰子が中宮となる。だが、その年の12月に皇后定子は世を去った。彰子は定子と会うことはなかったようだ。著者は彰子が定子に経緯を抱いていたとする。彰子は定子の生んだ敦康親王を引き取り育てる立場になる。そこには道長の意図が働いていた。
この章では、道長の思いと行動、一条天皇の思いと行動が徐々に見えてくることと、彰子の思いが変化し始めるプロセスが描かれるところがポイントと思う。特に、彰子が、一条天皇を生んだ母である詮子と、詮子が40歳になることを祝う算賀の前日に、彰子のいる土御門第において対話する場面が読ませどころである。この対話は、国母である詮子の怨みが吐露される機会となる。彰子は、先帝円融天皇の后であった詮子から、先帝時代までの宮廷政治の実態と人間関係、宮廷とはどういう世界かを聞かされる。その中には花山天皇の出家の裏話も出てくる。詮子は国母として知るべき怨みの数々を吐露した。それは彰子にとり、反面教師となっていく。
長保3年(1001)閏12月に詮子が亡くなる。定子の死後に、定子の妹である御匣殿(みくしげどの)は一条天皇の子を授かるが、長保4年(1002)年6月、17歳で腹の子とともに死ぬ。道長の視点からは、この宮廷の状況は歓喜となる。争いの種は消滅した。定子の産んだ敦康親王は彰子が母として育てている。朝廷には平穏がもたらされる。
<初花の章>
寛弘2年(1005)年11月、敦康親王のための読書始の儀式の経緯から始まる。敦康7歳。彰子は18歳。中宮彰子が女として華開く時期が描かれて行く。宮廷に住む己の環境を中宮彰子は自分の意志で変化させていく行動を取り始める。
そして、ここに紫式部が登場してくる。紫式部の宮仕えに対するエピソードの描写がおもしろい。彰子は一条天皇を手助けできる力を身につけたいという意欲に燃え始める。それが、紫式部に『白氏文集』を使った漢語の進講を要求するという形に進展していく。
寛弘4年(1007)、遂に彰子は一条帝の子を身ごもった。それは、42歳の道長が8月に吉野の金峯山へ御嶽詣をした後、しばらくしてからである。
道長の記した『御堂関白記』(全現代語訳、倉本一宏、講談社学術文庫)を参照すると、寛弘4年閏5月17日の条に金峯山詣長斎始の記録があり、8月2日の条の金峯山詣に出立から始まり、14日の条の帰京まで、事実だけの記録が残されている。
寛弘5年(1008)9月9日に陣痛が始まり、11日に難産の末に無事男子を出産する。敦成親王の誕生である。男子誕生の波紋が描き込まれていく。道長は歓喜の絶頂となり、様々な振る舞いを始める。一方、呪詛する一群の人々も現れる。勢力関係がゆれ動く。
一条天皇が30歳となった寛弘6年(1009)2月に彰子は第二子を懐妊する。敦良親王である。
彰子が己の子を持つことで、ますます一条天皇の思いを理解するようになっていく。一条天皇と我が子の病悩の発生並びに宮廷の勢力関係の状況が描かれる。
章末は一条天皇の崩御である。寛弘8年(1011)6月22日の夜半。享年32歳。
<日輪の章>
寛弘8年、夫の一条天皇が世を去ったことを起点にして、国母となった彰子の活躍が始まって行く。彰子は一条天皇の政治に対する考え、人々のことを常に配慮するという思いを伝え遺そうとする側に立つ。この点では父、道長の考えと対立する側面が出てくるが、彰子は己の意思を実践していくことに生涯をかける道を選ぶ。
この章は、彰子が国母の立場に立ち、一条天皇の信念を軸に、宮廷政治の中で重要な決断を担っていくプロセスを描き出していく。それは宮廷に関わる全ての人々に、日輪の如く慕われるという生き方になっていく。
彰子が、一条天皇と結ばれてのち、三条天皇、後一条天皇、後朱雀天皇、後冷泉天皇、後三条天皇と六代の天皇を見届けることになるプロセスでもあった。
三条天皇は冷泉天皇の子・居貞。後一条天皇は彰子の長男・敦成。後朱雀天皇は彰子の二男・淳良。後冷泉天皇(親仁)と後三条天皇(尊仁)は後朱雀天皇の子で、彰子には孫にあたる。
この日輪の章を通読すると、もし彰子が二子を産んだ後、夫の一条天皇の崩御からそれほど時をおかずに亡くなっていたとしたら、藤原道長一族の摂関政治の時代はどのようになっていただろうか、という思いを起こさせる。ひょっとしたら、歴史は大きく異なった進展をしていたのではないかと思わせる。
藤原彰子という人は、あの時代で実に重要な要としての役割を担った才媛だったようである。著者はそのような視点から、彰子に光をあてて描いていると感じた。
平安時代の摂関政治の内実をイメージしやすくなる小説と言える。
本書は、月刊『歴史街道』(2018年5月号~2021年6月号)に連載された後、加筆修正し、2021年9月に単行本として刊行された。
ご一読ありがとうございます。
本書に関連して、少し検索してみた事項を一覧にしておきたい。
藤原道長 :「コトバンク」
平安時代の名政治家!藤原道長を紐解く :「ベネッセ 教育情報サイト」
藤原彰子 :「コトバンク」
一条天皇 :ウィキペディア
一条天皇 :「コトバンク」
第66代「一条天皇」 20人の天皇で読み解く日本史 :「DiscoverJapan」
三条天皇 :ウィキペディア
後一条天皇 :ウィキペディア
後朱雀天皇 :ウィキペディア
後冷泉天皇 :ウィキペディア
後三条天皇 :ウィキペディア
初恋の君が忘れられなくて。愛されすぎた后・定子と、愛されたかった后・彰子の生涯
:「warakuweb 日本文化の入口マガジン」
コラム 「女房」ってそもそも何? :「教育出版」
紫式部 :ウィキペディア
ご一読ありがとうございます。
この読後印象記を書き始めた以降に著者の作品を読み、書き込んだのは次の作品です。
こちらもお読みいただけるとうれしいかぎりです。
『剣樹抄』 文藝春秋
『破蕾』 講談社
『光圀伝』 角川書店
『はなとゆめ』 角川書店
『決戦! 大坂城』 葉室・木下・富樫・乾・天野・冲方・伊東 講談社
この小説は、入内し中宮となり国母という立場に移っていった彰子の視点から語られていく。平安時代の宮廷がどのような状況を呈していたかを具体的に描き出している。宮廷における貴族たちの政権争い、勢力争いの生々しい確執とその状況が詳述されていく。宮廷は優雅で煌びやかなものではなかった。そこには様々な怨みが渦巻いていた。実に人間くさいドロドロとした人間心理と葛藤が日常となっていた。その本質はどの時代にも巨大な組織においては底流として人間行動と心理に共通するものだろうと思う。
入内した彰子は一種の疎外感・孤独感に捕らわれる。一条天皇とどのように接するかから始まる。一条天皇の心と考え・行動に接する機会が増えるに従い、徐々に己の立ち位置を認識し、一条天皇の信念に共鳴し、それを受け入れていくようになる。それまでに長い年月がかかる様子が描き込まれていく。そして、彰子は一条天皇の理念を己が引き継ぎそれを実践していこうと決意する。史実を踏まえて、著者は彰子の思いと考え、行動の軌跡をフィクションとして描き込んで行く。
藤原道長は己が力を得て宮廷政治における覇者として活動するための手段に、長女の彰子を筆頭に、妍子、威子、嬉子、寬子を次々と宮廷に入内させた。彰子は12歳で一条天皇のもとに入内させられた。その時点から彰子は父道長を客観的に見つめていくようになる。そして、一条天皇の心を知ることで、彰子は父道長とは時に対立する立場を取ることも辞さない己を築き上げていく。ここには、平安時代の宮廷政治のダイナミズムが赤裸々にフィクションの形で描かれて行く。断片的に記録に残る史実を踏まえて著者は宮廷政治の世界を鮮やかに生々しさを加え巧みに描写している。実に人間くさい側面が描き込まれている。
藤原彰子の人生を、さらには道長をもビビッドに感じさせ、イメージさせてくれる作品である。
この作品の全体構成と要点を少しご紹介しておこう。
「望月の章」「初花の章」「日輪の章」の三章構成になっている。
<望月の章>
この世をば わが世とぞ思ふ 望月の
欠けたることも なしと思へば
冒頭は、道長がこの歌を詠んだ日、寬仁2年(1018)10月16日から始まる。この時、彰子は31歳。既に1011年6月に一条天皇が崩御し、彰子は二年前に即位した後一条天皇(敦成)の産みの母として、太皇太后になっていた。この時点で、彰子が父道長をどのように客観的に見つめているかがまず描写される。それがこのストーリーの基調にもなる。
そして、彰子が入内した長保元年(999)時点が回想されていく。
12歳で入内した彰子の生活環境。当時の一条天皇にとった彰子の態度と一条天皇の対応。彰子の抱く疎外感、孤独感などが描写され、徐々に一条天皇の思い、考えなどが見え始める。彰子が中宮定子をどのようにとらえていたかが後の展開での重要なポイントになっていく。なぜなら、翌年、先例のない一帝二后制が創出された。中宮定子が皇后となり、彰子が中宮となる。だが、その年の12月に皇后定子は世を去った。彰子は定子と会うことはなかったようだ。著者は彰子が定子に経緯を抱いていたとする。彰子は定子の生んだ敦康親王を引き取り育てる立場になる。そこには道長の意図が働いていた。
この章では、道長の思いと行動、一条天皇の思いと行動が徐々に見えてくることと、彰子の思いが変化し始めるプロセスが描かれるところがポイントと思う。特に、彰子が、一条天皇を生んだ母である詮子と、詮子が40歳になることを祝う算賀の前日に、彰子のいる土御門第において対話する場面が読ませどころである。この対話は、国母である詮子の怨みが吐露される機会となる。彰子は、先帝円融天皇の后であった詮子から、先帝時代までの宮廷政治の実態と人間関係、宮廷とはどういう世界かを聞かされる。その中には花山天皇の出家の裏話も出てくる。詮子は国母として知るべき怨みの数々を吐露した。それは彰子にとり、反面教師となっていく。
長保3年(1001)閏12月に詮子が亡くなる。定子の死後に、定子の妹である御匣殿(みくしげどの)は一条天皇の子を授かるが、長保4年(1002)年6月、17歳で腹の子とともに死ぬ。道長の視点からは、この宮廷の状況は歓喜となる。争いの種は消滅した。定子の産んだ敦康親王は彰子が母として育てている。朝廷には平穏がもたらされる。
<初花の章>
寛弘2年(1005)年11月、敦康親王のための読書始の儀式の経緯から始まる。敦康7歳。彰子は18歳。中宮彰子が女として華開く時期が描かれて行く。宮廷に住む己の環境を中宮彰子は自分の意志で変化させていく行動を取り始める。
そして、ここに紫式部が登場してくる。紫式部の宮仕えに対するエピソードの描写がおもしろい。彰子は一条天皇を手助けできる力を身につけたいという意欲に燃え始める。それが、紫式部に『白氏文集』を使った漢語の進講を要求するという形に進展していく。
寛弘4年(1007)、遂に彰子は一条帝の子を身ごもった。それは、42歳の道長が8月に吉野の金峯山へ御嶽詣をした後、しばらくしてからである。
道長の記した『御堂関白記』(全現代語訳、倉本一宏、講談社学術文庫)を参照すると、寛弘4年閏5月17日の条に金峯山詣長斎始の記録があり、8月2日の条の金峯山詣に出立から始まり、14日の条の帰京まで、事実だけの記録が残されている。
寛弘5年(1008)9月9日に陣痛が始まり、11日に難産の末に無事男子を出産する。敦成親王の誕生である。男子誕生の波紋が描き込まれていく。道長は歓喜の絶頂となり、様々な振る舞いを始める。一方、呪詛する一群の人々も現れる。勢力関係がゆれ動く。
一条天皇が30歳となった寛弘6年(1009)2月に彰子は第二子を懐妊する。敦良親王である。
彰子が己の子を持つことで、ますます一条天皇の思いを理解するようになっていく。一条天皇と我が子の病悩の発生並びに宮廷の勢力関係の状況が描かれる。
章末は一条天皇の崩御である。寛弘8年(1011)6月22日の夜半。享年32歳。
<日輪の章>
寛弘8年、夫の一条天皇が世を去ったことを起点にして、国母となった彰子の活躍が始まって行く。彰子は一条天皇の政治に対する考え、人々のことを常に配慮するという思いを伝え遺そうとする側に立つ。この点では父、道長の考えと対立する側面が出てくるが、彰子は己の意思を実践していくことに生涯をかける道を選ぶ。
この章は、彰子が国母の立場に立ち、一条天皇の信念を軸に、宮廷政治の中で重要な決断を担っていくプロセスを描き出していく。それは宮廷に関わる全ての人々に、日輪の如く慕われるという生き方になっていく。
彰子が、一条天皇と結ばれてのち、三条天皇、後一条天皇、後朱雀天皇、後冷泉天皇、後三条天皇と六代の天皇を見届けることになるプロセスでもあった。
三条天皇は冷泉天皇の子・居貞。後一条天皇は彰子の長男・敦成。後朱雀天皇は彰子の二男・淳良。後冷泉天皇(親仁)と後三条天皇(尊仁)は後朱雀天皇の子で、彰子には孫にあたる。
この日輪の章を通読すると、もし彰子が二子を産んだ後、夫の一条天皇の崩御からそれほど時をおかずに亡くなっていたとしたら、藤原道長一族の摂関政治の時代はどのようになっていただろうか、という思いを起こさせる。ひょっとしたら、歴史は大きく異なった進展をしていたのではないかと思わせる。
藤原彰子という人は、あの時代で実に重要な要としての役割を担った才媛だったようである。著者はそのような視点から、彰子に光をあてて描いていると感じた。
平安時代の摂関政治の内実をイメージしやすくなる小説と言える。
本書は、月刊『歴史街道』(2018年5月号~2021年6月号)に連載された後、加筆修正し、2021年9月に単行本として刊行された。
ご一読ありがとうございます。
本書に関連して、少し検索してみた事項を一覧にしておきたい。
藤原道長 :「コトバンク」
平安時代の名政治家!藤原道長を紐解く :「ベネッセ 教育情報サイト」
藤原彰子 :「コトバンク」
一条天皇 :ウィキペディア
一条天皇 :「コトバンク」
第66代「一条天皇」 20人の天皇で読み解く日本史 :「DiscoverJapan」
三条天皇 :ウィキペディア
後一条天皇 :ウィキペディア
後朱雀天皇 :ウィキペディア
後冷泉天皇 :ウィキペディア
後三条天皇 :ウィキペディア
初恋の君が忘れられなくて。愛されすぎた后・定子と、愛されたかった后・彰子の生涯
:「warakuweb 日本文化の入口マガジン」
コラム 「女房」ってそもそも何? :「教育出版」
紫式部 :ウィキペディア
ご一読ありがとうございます。
この読後印象記を書き始めた以降に著者の作品を読み、書き込んだのは次の作品です。
こちらもお読みいただけるとうれしいかぎりです。
『剣樹抄』 文藝春秋
『破蕾』 講談社
『光圀伝』 角川書店
『はなとゆめ』 角川書店
『決戦! 大坂城』 葉室・木下・富樫・乾・天野・冲方・伊東 講談社