「葛飾北斎」というタイトルにまず目がとまった。好きな絵師の一人。さらに「江戸のジャーナリスト」というフレーズに一層興味を抱き、読んでみた。葛飾北斎を様々な観点から論じた伝記風評論書に位置づけられるのだろう。2021年5月に出版された。
本書の特徴と感じた点をまず取り上げておこう。
1.ジャーナリストを職業としてきた著者の目から見た葛飾北斎論である。
著者は新聞者に入社。海外駐在の記者活動や論説委員経験を有するジャーナリスト。
2.葛飾北斎という人物とその絵を論じながら、葛飾北斎に所縁の場所・資料ならびに絵など、関連写真が一枚も掲載されていない。美術関連書としてはめずらしい。
「あとがき」に「本文で取り上げた北斎の作品は、ほぼすべてネット鑑賞することができます」と記す。それ故に、意識的・意図的に画像資料類は一切掲載しなかったのだろう。小さなサイズのモノクロ写真を掲載しなくても、ネットを主体的に併用すればカラーでもっと北斎にアプローチできますよ、という趣旨かもしれない。
3.大凡の漢字にルビが振られている。幅広い年代の人々に葛飾北斎に親しんでほしいという意図があるのだろう。一般的に評論書は特に難しい漢字以外はルビをそれほど多用していない。
たとえば「はじめに」だけを事例にとりあげても、次の漢字・語句にルビが振られている。「江戸・浮世絵師・葛飾北斎・経ち・神出鬼没・査証欄・生誕・富嶽・景・刷り・神奈川県沖浪裏・傑作・審査官・中風・推測・超・長寿・亡くなる・生涯現役・膨大・行方・大政奉還・明治維新・激動・鎖国・渡航・本望・LIFE・偉大・肝心・偉業・謎・探り・魅力・解き」ここに著者のスタンスが出ているのではないか。
4.研究者の伝記、評論などと比べると、です・ます調の文体で記述され、文章が読みやすくてわかりやすい。やはり、ジャーナリストの筆致が反映しているようだ。
5.北斎の生い立ちから最晩年まで、北斎の生涯について、北斎の好奇心を主軸にして、その折々の作品実例に触れながら論じている。伝記風評論書と記した由縁である。
ニュース報道では意識していず、本書の「はじめ」を読み再認識したことが3点ある。
あなたはご存知でしたか?
1.2020年に、日本の新規パスポート査証欄のページに北斎の絵が刷り込まれた。
北斎の『富嶽三十六景』から10年用は二十四作品、5年用は十六作品を使用。
2.2024年からの新発行千円札に『神奈川沖浪裏』が使用される。
著者はジャーナリストを次のように定義している。
「日々起きる新しい出来事(ニュース)にアンテナを張り、追いかけ、その内容を明らかにしてゆく。しかもだれよりも先に。それが基本的にジャーナリストという職業です。一つのことや場所に安住せず、好奇心いっぱいで、新しい分野に向かっていく。」(p20)
そして、その続きに、「北斎もまた過去の人気や評判、栄光にひたるよりも、新たに登場してくる事象や現象の方に関心をかき立てられていった。そのような絵師に思えます。しかも、新たな挑戦に選んだ分野が鳥瞰図だったところに、ジャーナリストとしての目を感じてしまうのです。」(p20)
また、北斎の描いた「日本橋本石町長崎屋」の絵を例に「北斎の、つねにニュース(新しいこと)を探しもとめ、それを描かずにはいられないジャーナリスト魂を感じます。」(p79)
「ネタ本の存在をきちんとおさえ、使節来訪というタイミングに合わせてシリーズを出すとは、北斎はニュース感覚だけでなく、情報を商売に結びつけるビジネスセンスもなかなかのものです。」(p93)
また、著者は「ジャーナリズムの世界で、よく使われる表現に『鳥の目と虫の目』があります。ある現象をとらえるのに、全体の姿をつかむために空高く飛ぶ鳥のような目と、細部の把握のために、地をはう小さな虫のような目が必要で、両方の視点が大切であるというたとえです。」(p21)と語る。そして、北斎の描いた壮大な鳥瞰図『東海道名所一覧』に鳥の目の視点、一方、『北斎漫画』に虫の目の視点が見られるという。
こんなところから、著者は本書に「江戸のジャーナリスト」というフレーズを冠したのだろう。
伝記風評論書という表現を使ったが、本書の構成と覚書をまとめてみる。
<1章 北斎を探る旅>
長野県小布施町に建つ「北斎館」を著者が訪ねる。その鑑賞体験記から始まる。
『「七小町」の八曲一隻屏風』『東海道名所一覧』を論じる。
<2章 生い立ち・浮世絵師への道>
1760年9月23日、下総国本所割下水(現墨田区亀沢1丁目~4丁目あたり)での生誕から浮世絵師・勝川春朗時代を経て葛飾北斎を名乗った時代まで。
飯島虚心著『葛飾北斎傳』(岩波文庫)を典拠にしながら、要点を押さえていく。
勝川春朗時代に浮世絵師としてあらゆる分野に挑戦。浮絵にも取り組んだという。破門された理由に言及する。俵屋宗理の二代目を継ぐ。その名を門人に譲り、雅号を北斎辰政に。そして、1806年に葛飾北斎と名乗る。
江戸の地本問屋蔦屋重三郎の許で狂歌絵本の挿絵を描く。滝沢馬琴の読本『椿説弓張月』の挿絵を担当する。これが大ヒットし、葛飾北斎の名が有名になる。
北斎が手掛けた挿絵(読本)に言及し、文化年間に出版の『北斎漫画』に言及する。
<3章 家族とその暮らしぶり>
小見出しがキーワードになっている。列挙してみよう。「結婚二回、子供は二男四女」「父ゆずりの三女お栄」「引越し魔」「ゴミ屋敷」「きわめて弊衣粗食」「なぜ貧乏だったかのか」
三女のお栄は、北斎最後の日まで寝食を共にし世話した。雅号を応為という絵師でもある。
あれほど有名になった北斎がなぜいつも貧乏だったのか。著者は「せんじつめれば、『根っからの江戸っ子』だった。つまり北斎は、江戸っ子の代表的な気質にあげられる『宵越しの金を持たない』暮らしぶりを、身上としていたのではないか。」(p63)と論じている。
<4章 海外情報への好奇心>
北斎は日本の外の世界にも関心を向けていた人で、「国際人」「国際派」の資格がある絵師だと論じる。馬琴の読本での共作は、北斎が中国古典にも精通していたこと。オランダ商館長(カピタン)が江戸参府の折に出会っている可能性が高いこと、カピタンから絵の注文を受け、日本人男女の一生を絵巻物に描いたこと。その時のエピソードなどを書き込んでいる。『北斎漫画』が欧州に伝えられた契機になったという。
「北斎はシーボルトと会っていたか?」という疑問を提起し、著者はジャーナリストの視点から調べ、ここで結論を述べている。
著者は『東海道五十三次 十四 原』に北斎が朝鮮通信使を描き込み込んでいる事例を挙げ、外交使節、朝鮮通信使への北斎の関心も論じている。尚、ネット検索していて、この絵に描かれている人々については、異論もあることを知った。今の私には判断できないが・・・・。
また、歌川広重の『東海道五十三次』出版され大ヒットした年の翌年に北斎が『富獄百景』を発表しているというタイミングだったことを本書で初めて知った。
北斎は広重をライバル視する意識があったのだろうか・・・・・。著者は「つねにトップランナーたるべく新境地を開くことを真骨頂としてきただけに、広重の人気と評価に北斎の心には、おだやかならざるものがあったのではないかと推察されます。」(p88)と述べる。
著者は、北斎が琉球使節、琉球八景並びに西洋画の透視図(画)法(遠近法)にも関心を抱いていたことに触れている。最後に、北斎の絵との関連でベロ藍(プルシアン・ブルー)の重要性を論じている。
<5章 世界を魅了した『北斎漫画』>
『北斎漫画』がどういう経緯で生み出され、どういう影響を国内外に与えて行ったのか。北斎が関西への旅に向かう中で生まれ、それが出版されると大ヒットなり、次々に続編が描き継がれていったそうだ。北斎55歳のときに初編が出版され、何と最後の第15編は明治11年(1878)だと言う。知らなかった!
上記したが、この『北斎漫画』に、北斎の「虫の目」が反映していると著者は論じる。その説明に、ネットで得た『北斎漫画』の絵を見て、ナルホド!
『北斎漫画』がシーボルトに大きな影響を与え、さらに19世紀後半のフランスにおいて、印象派やポスト印象派の画家たちに与えた北斎の影響に触れていく。
<6章 生涯通しての現役絵師>
1834(天保5)年、北斎75歳のとき、雅号を為一から画狂老人卍に改めた。その後の15年は、画狂老人卍が最後の雅号として使われる。著者はこの期間、北斎が現役絵師として活動を続けた姿を綴っていく。
『富獄百景』を発表した1834年が一つの転機となったようだ。だがその時、世の中は「天保の大飢饉」のさなかだった。この頃、北斎は三浦屋八右衛門と変名して浦賀に半ば雲隠れしている状況だったという。これは本書で初めて知ったこと。その理由が諸説紹介されていて興味深い。北斎も私生活ではいろいろ苦労があったようだ。
この章では、北斎が肉筆画の世界に大きく踏み込んで行ったことが論じられている。
冒頭で触れた小布施は晩年の北斎と大きな関わりが生まれる逗留地となった。北斎は4度小布施に旅しているという。この章を読むと、小布施に北斎館ができた理由がよくわかる。小布施行は、北斎より30歳ほど若い豪商農の高井鴻山との親交が根底にあるそうだ。鴻山が北斎に住まいとアトリエ「碧漪軒(へきいけん)」を提供し、活動を支えるスポンサーとなった。小布施での北斎の姿が具体的にわかる章になっている。
<7章 最晩年の日々>
88歳から90歳で亡くなるまでの3年間も、北斎の創作意欲は衰えなかったという。
絵手本『画本彩色通』、錦絵『地方測量之図』に触れた後、肉筆画『虎図(雨中の虎)』と『雲龍図』が一緒に展示される機会が生まれたことで、対の作品であることが発見されたエピソードが語られる。
そして、北斎が自らを龍に託した『富士越龍図』(北斎館蔵)を論じる。これが北斎の絶筆にもっとも近い一枚と考えられている肉筆画だという。
最後に、北斎を支え続けた三女のお栄(雅号応為)に触れている。
<8章 北斎を復活させたロシア人>
パリの印象派、ポスト印象派の画家たちが北斎画の魅力やその芸術的価値を見出し、ジャポニスムを生み出したことは、彼等の絵を鑑賞する中で知ったことである。だが、ロシアに北斎の価値を認め、北斎に復活させることに貢献した人々がいたことを本書で初めて知った。
一人は、帝政ロシア時代の海軍士官セルゲイ・キターエフ(1864~1927)。彼は太平洋航路に勤務中北斎に魅せられ日本美術のコレクションを始めたという。ロシアで最も早く浮世絵の芸術的価値を評価したコレクターであり研究家だそうだ。彼は自分のコレクションをもとに最初の日本美術の展覧会をペテルブルグやモスクワで開催した。ロマノフ王朝が倒れた際、彼は膨大なコレクションをロシアに残したまま日本に亡命し、日本で亡くなった。
ロシアに残されたこのコレクションは、革命後、ソ連に引き継がれ、倉庫に埋もれていた。このコレクションに出会い研究に取り組んだのが、プーシキン美術館の女性学芸員、ベアタ・ヴォロノワ(1926~2017)。彼女の研究が原動力となり、プーシキン美術館においてソ連初の葛飾北斎展(日ソ共催)が実現することになったという。
この最後の章で、キターエフ、彼のコレクション、ヴォロノアの研究について詳しく語られている。
葛飾北斎を知りたい人には、その全貌を知るガイドブックとして有益な本である。北斎の人生のプロセスと関連付けて彼の作品群の変遷をとらえ、北斎画の全体イメージをまず形成するのに役立にたつと思う。
ご一読ありがとうございます。
本書に関連する北斎画と関連事項をネット検索してみた。一覧にしておきたい。
北斎について :「すみだ北斎美術館」
世界が認めた天才! 浮世絵師・葛飾北斎ってどんな人? :「北斎今昔」
葛飾北斎とは?浮世絵「富嶽三十六景」など有名作品と人物像を徹底解説!:「warakuweb」
富嶽三十六景 :ウィキペディア
2020年旅券 :「外務省」
日本が新紙幣発表、千円札に北斎の浮世絵 :「CNN style」
東海道名所一覧 :「文化遺産オンライン」
東海道名所一覧 :「石本コレクション 東京大学総合図書館蔵」
葛飾北斎 日本橋本石町長崎屋 :「古典籍総合データベース」(早稲田大学図書館)
146.葛飾北斎と朝鮮通信使 :「蒼天求白雲」
[フリー絵画] 葛飾北斎 「東海道五十三次 絵本駅路鈴 原」
:「パブリックドメインQ:著作権フリー画像素材集」
『東海道五十三次』 =葛飾北斎筆= :「みんなの知識 ちょっと便利帳」
来朝の不二...『富岳百景』三編 :「matta」
北斎ー富士を描く展 @日本橋三越 :「Art & Bell by Tora」
『琉球八景』 =葛飾北斎= :「みんなの知識 ちょっと便利帳」
朝鮮通信使来朝図 羽川藤永 :「文化遺産オンライン」
北斎の浮絵 :「ArtWiki」
葛飾北斎 新版浮絵 浦島竜宮入之図 (名品揃物浮世絵9 北斎IIより)
:「600dpi パブリックドメイン美術館」
新板浮絵両国橋夕涼花火見物之図 :「すみだ北斎美術館」
「新版浮絵化物屋鋪(=舗)百物語の図」 葛飾北斎 :「Image Archives」
北斎漫画 :ウィキペディア
北斎漫画 :「太田記念美術館」
北斎漫画. 1編 :「国立国会図書館デジタルコレクション」
2編~15編まですべて見ることができます。
北斎漫画早指南 :「国立国会図書館デジタルコレクション」
『富獄百景』=葛飾北斎= <写真の不二> :「みんなの知識 ちょっと便利帳」
《北斎漫画》《冨嶽三十六景》《富嶽百景》の全頁(ページ)・全点・全図を展示。「北斎づくし」が六本木で開催へ 2021.3.25 :「美術手帖」
男浪図・女浪図 :「信州小布施 北斎館」
鮮やかな八方睨み鳳凰図の天井絵が美しい・岩松院
:「北信濃・妙高エリア観光情報 ふるさとを旅する」
画本彩色通初編 :「富山市立図書館」
学芸員のつぶやき 「富士越龍図」 :「信州小布施 北斎館」
北斎が描いたのは朝鮮通信使ではなく琉球使節 :「朝鮮通信使報道研究所」
信州小布施 北斎館 ホームページ
すみだ北斎美術館 ホームページ
太田記念美術館 ホームページ
北斎今昔 ホームページ
浮世絵が見られる美術館・博物館まとめ(日本編)
インターネットに有益な情報を掲載してくださった皆様に感謝します。
(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれません。
その節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。
その点、ご寛恕ください。)
本書の特徴と感じた点をまず取り上げておこう。
1.ジャーナリストを職業としてきた著者の目から見た葛飾北斎論である。
著者は新聞者に入社。海外駐在の記者活動や論説委員経験を有するジャーナリスト。
2.葛飾北斎という人物とその絵を論じながら、葛飾北斎に所縁の場所・資料ならびに絵など、関連写真が一枚も掲載されていない。美術関連書としてはめずらしい。
「あとがき」に「本文で取り上げた北斎の作品は、ほぼすべてネット鑑賞することができます」と記す。それ故に、意識的・意図的に画像資料類は一切掲載しなかったのだろう。小さなサイズのモノクロ写真を掲載しなくても、ネットを主体的に併用すればカラーでもっと北斎にアプローチできますよ、という趣旨かもしれない。
3.大凡の漢字にルビが振られている。幅広い年代の人々に葛飾北斎に親しんでほしいという意図があるのだろう。一般的に評論書は特に難しい漢字以外はルビをそれほど多用していない。
たとえば「はじめに」だけを事例にとりあげても、次の漢字・語句にルビが振られている。「江戸・浮世絵師・葛飾北斎・経ち・神出鬼没・査証欄・生誕・富嶽・景・刷り・神奈川県沖浪裏・傑作・審査官・中風・推測・超・長寿・亡くなる・生涯現役・膨大・行方・大政奉還・明治維新・激動・鎖国・渡航・本望・LIFE・偉大・肝心・偉業・謎・探り・魅力・解き」ここに著者のスタンスが出ているのではないか。
4.研究者の伝記、評論などと比べると、です・ます調の文体で記述され、文章が読みやすくてわかりやすい。やはり、ジャーナリストの筆致が反映しているようだ。
5.北斎の生い立ちから最晩年まで、北斎の生涯について、北斎の好奇心を主軸にして、その折々の作品実例に触れながら論じている。伝記風評論書と記した由縁である。
ニュース報道では意識していず、本書の「はじめ」を読み再認識したことが3点ある。
あなたはご存知でしたか?
1.2020年に、日本の新規パスポート査証欄のページに北斎の絵が刷り込まれた。
北斎の『富嶽三十六景』から10年用は二十四作品、5年用は十六作品を使用。
2.2024年からの新発行千円札に『神奈川沖浪裏』が使用される。
著者はジャーナリストを次のように定義している。
「日々起きる新しい出来事(ニュース)にアンテナを張り、追いかけ、その内容を明らかにしてゆく。しかもだれよりも先に。それが基本的にジャーナリストという職業です。一つのことや場所に安住せず、好奇心いっぱいで、新しい分野に向かっていく。」(p20)
そして、その続きに、「北斎もまた過去の人気や評判、栄光にひたるよりも、新たに登場してくる事象や現象の方に関心をかき立てられていった。そのような絵師に思えます。しかも、新たな挑戦に選んだ分野が鳥瞰図だったところに、ジャーナリストとしての目を感じてしまうのです。」(p20)
また、北斎の描いた「日本橋本石町長崎屋」の絵を例に「北斎の、つねにニュース(新しいこと)を探しもとめ、それを描かずにはいられないジャーナリスト魂を感じます。」(p79)
「ネタ本の存在をきちんとおさえ、使節来訪というタイミングに合わせてシリーズを出すとは、北斎はニュース感覚だけでなく、情報を商売に結びつけるビジネスセンスもなかなかのものです。」(p93)
また、著者は「ジャーナリズムの世界で、よく使われる表現に『鳥の目と虫の目』があります。ある現象をとらえるのに、全体の姿をつかむために空高く飛ぶ鳥のような目と、細部の把握のために、地をはう小さな虫のような目が必要で、両方の視点が大切であるというたとえです。」(p21)と語る。そして、北斎の描いた壮大な鳥瞰図『東海道名所一覧』に鳥の目の視点、一方、『北斎漫画』に虫の目の視点が見られるという。
こんなところから、著者は本書に「江戸のジャーナリスト」というフレーズを冠したのだろう。
伝記風評論書という表現を使ったが、本書の構成と覚書をまとめてみる。
<1章 北斎を探る旅>
長野県小布施町に建つ「北斎館」を著者が訪ねる。その鑑賞体験記から始まる。
『「七小町」の八曲一隻屏風』『東海道名所一覧』を論じる。
<2章 生い立ち・浮世絵師への道>
1760年9月23日、下総国本所割下水(現墨田区亀沢1丁目~4丁目あたり)での生誕から浮世絵師・勝川春朗時代を経て葛飾北斎を名乗った時代まで。
飯島虚心著『葛飾北斎傳』(岩波文庫)を典拠にしながら、要点を押さえていく。
勝川春朗時代に浮世絵師としてあらゆる分野に挑戦。浮絵にも取り組んだという。破門された理由に言及する。俵屋宗理の二代目を継ぐ。その名を門人に譲り、雅号を北斎辰政に。そして、1806年に葛飾北斎と名乗る。
江戸の地本問屋蔦屋重三郎の許で狂歌絵本の挿絵を描く。滝沢馬琴の読本『椿説弓張月』の挿絵を担当する。これが大ヒットし、葛飾北斎の名が有名になる。
北斎が手掛けた挿絵(読本)に言及し、文化年間に出版の『北斎漫画』に言及する。
<3章 家族とその暮らしぶり>
小見出しがキーワードになっている。列挙してみよう。「結婚二回、子供は二男四女」「父ゆずりの三女お栄」「引越し魔」「ゴミ屋敷」「きわめて弊衣粗食」「なぜ貧乏だったかのか」
三女のお栄は、北斎最後の日まで寝食を共にし世話した。雅号を応為という絵師でもある。
あれほど有名になった北斎がなぜいつも貧乏だったのか。著者は「せんじつめれば、『根っからの江戸っ子』だった。つまり北斎は、江戸っ子の代表的な気質にあげられる『宵越しの金を持たない』暮らしぶりを、身上としていたのではないか。」(p63)と論じている。
<4章 海外情報への好奇心>
北斎は日本の外の世界にも関心を向けていた人で、「国際人」「国際派」の資格がある絵師だと論じる。馬琴の読本での共作は、北斎が中国古典にも精通していたこと。オランダ商館長(カピタン)が江戸参府の折に出会っている可能性が高いこと、カピタンから絵の注文を受け、日本人男女の一生を絵巻物に描いたこと。その時のエピソードなどを書き込んでいる。『北斎漫画』が欧州に伝えられた契機になったという。
「北斎はシーボルトと会っていたか?」という疑問を提起し、著者はジャーナリストの視点から調べ、ここで結論を述べている。
著者は『東海道五十三次 十四 原』に北斎が朝鮮通信使を描き込み込んでいる事例を挙げ、外交使節、朝鮮通信使への北斎の関心も論じている。尚、ネット検索していて、この絵に描かれている人々については、異論もあることを知った。今の私には判断できないが・・・・。
また、歌川広重の『東海道五十三次』出版され大ヒットした年の翌年に北斎が『富獄百景』を発表しているというタイミングだったことを本書で初めて知った。
北斎は広重をライバル視する意識があったのだろうか・・・・・。著者は「つねにトップランナーたるべく新境地を開くことを真骨頂としてきただけに、広重の人気と評価に北斎の心には、おだやかならざるものがあったのではないかと推察されます。」(p88)と述べる。
著者は、北斎が琉球使節、琉球八景並びに西洋画の透視図(画)法(遠近法)にも関心を抱いていたことに触れている。最後に、北斎の絵との関連でベロ藍(プルシアン・ブルー)の重要性を論じている。
<5章 世界を魅了した『北斎漫画』>
『北斎漫画』がどういう経緯で生み出され、どういう影響を国内外に与えて行ったのか。北斎が関西への旅に向かう中で生まれ、それが出版されると大ヒットなり、次々に続編が描き継がれていったそうだ。北斎55歳のときに初編が出版され、何と最後の第15編は明治11年(1878)だと言う。知らなかった!
上記したが、この『北斎漫画』に、北斎の「虫の目」が反映していると著者は論じる。その説明に、ネットで得た『北斎漫画』の絵を見て、ナルホド!
『北斎漫画』がシーボルトに大きな影響を与え、さらに19世紀後半のフランスにおいて、印象派やポスト印象派の画家たちに与えた北斎の影響に触れていく。
<6章 生涯通しての現役絵師>
1834(天保5)年、北斎75歳のとき、雅号を為一から画狂老人卍に改めた。その後の15年は、画狂老人卍が最後の雅号として使われる。著者はこの期間、北斎が現役絵師として活動を続けた姿を綴っていく。
『富獄百景』を発表した1834年が一つの転機となったようだ。だがその時、世の中は「天保の大飢饉」のさなかだった。この頃、北斎は三浦屋八右衛門と変名して浦賀に半ば雲隠れしている状況だったという。これは本書で初めて知ったこと。その理由が諸説紹介されていて興味深い。北斎も私生活ではいろいろ苦労があったようだ。
この章では、北斎が肉筆画の世界に大きく踏み込んで行ったことが論じられている。
冒頭で触れた小布施は晩年の北斎と大きな関わりが生まれる逗留地となった。北斎は4度小布施に旅しているという。この章を読むと、小布施に北斎館ができた理由がよくわかる。小布施行は、北斎より30歳ほど若い豪商農の高井鴻山との親交が根底にあるそうだ。鴻山が北斎に住まいとアトリエ「碧漪軒(へきいけん)」を提供し、活動を支えるスポンサーとなった。小布施での北斎の姿が具体的にわかる章になっている。
<7章 最晩年の日々>
88歳から90歳で亡くなるまでの3年間も、北斎の創作意欲は衰えなかったという。
絵手本『画本彩色通』、錦絵『地方測量之図』に触れた後、肉筆画『虎図(雨中の虎)』と『雲龍図』が一緒に展示される機会が生まれたことで、対の作品であることが発見されたエピソードが語られる。
そして、北斎が自らを龍に託した『富士越龍図』(北斎館蔵)を論じる。これが北斎の絶筆にもっとも近い一枚と考えられている肉筆画だという。
最後に、北斎を支え続けた三女のお栄(雅号応為)に触れている。
<8章 北斎を復活させたロシア人>
パリの印象派、ポスト印象派の画家たちが北斎画の魅力やその芸術的価値を見出し、ジャポニスムを生み出したことは、彼等の絵を鑑賞する中で知ったことである。だが、ロシアに北斎の価値を認め、北斎に復活させることに貢献した人々がいたことを本書で初めて知った。
一人は、帝政ロシア時代の海軍士官セルゲイ・キターエフ(1864~1927)。彼は太平洋航路に勤務中北斎に魅せられ日本美術のコレクションを始めたという。ロシアで最も早く浮世絵の芸術的価値を評価したコレクターであり研究家だそうだ。彼は自分のコレクションをもとに最初の日本美術の展覧会をペテルブルグやモスクワで開催した。ロマノフ王朝が倒れた際、彼は膨大なコレクションをロシアに残したまま日本に亡命し、日本で亡くなった。
ロシアに残されたこのコレクションは、革命後、ソ連に引き継がれ、倉庫に埋もれていた。このコレクションに出会い研究に取り組んだのが、プーシキン美術館の女性学芸員、ベアタ・ヴォロノワ(1926~2017)。彼女の研究が原動力となり、プーシキン美術館においてソ連初の葛飾北斎展(日ソ共催)が実現することになったという。
この最後の章で、キターエフ、彼のコレクション、ヴォロノアの研究について詳しく語られている。
葛飾北斎を知りたい人には、その全貌を知るガイドブックとして有益な本である。北斎の人生のプロセスと関連付けて彼の作品群の変遷をとらえ、北斎画の全体イメージをまず形成するのに役立にたつと思う。
ご一読ありがとうございます。
本書に関連する北斎画と関連事項をネット検索してみた。一覧にしておきたい。
北斎について :「すみだ北斎美術館」
世界が認めた天才! 浮世絵師・葛飾北斎ってどんな人? :「北斎今昔」
葛飾北斎とは?浮世絵「富嶽三十六景」など有名作品と人物像を徹底解説!:「warakuweb」
富嶽三十六景 :ウィキペディア
2020年旅券 :「外務省」
日本が新紙幣発表、千円札に北斎の浮世絵 :「CNN style」
東海道名所一覧 :「文化遺産オンライン」
東海道名所一覧 :「石本コレクション 東京大学総合図書館蔵」
葛飾北斎 日本橋本石町長崎屋 :「古典籍総合データベース」(早稲田大学図書館)
146.葛飾北斎と朝鮮通信使 :「蒼天求白雲」
[フリー絵画] 葛飾北斎 「東海道五十三次 絵本駅路鈴 原」
:「パブリックドメインQ:著作権フリー画像素材集」
『東海道五十三次』 =葛飾北斎筆= :「みんなの知識 ちょっと便利帳」
来朝の不二...『富岳百景』三編 :「matta」
北斎ー富士を描く展 @日本橋三越 :「Art & Bell by Tora」
『琉球八景』 =葛飾北斎= :「みんなの知識 ちょっと便利帳」
朝鮮通信使来朝図 羽川藤永 :「文化遺産オンライン」
北斎の浮絵 :「ArtWiki」
葛飾北斎 新版浮絵 浦島竜宮入之図 (名品揃物浮世絵9 北斎IIより)
:「600dpi パブリックドメイン美術館」
新板浮絵両国橋夕涼花火見物之図 :「すみだ北斎美術館」
「新版浮絵化物屋鋪(=舗)百物語の図」 葛飾北斎 :「Image Archives」
北斎漫画 :ウィキペディア
北斎漫画 :「太田記念美術館」
北斎漫画. 1編 :「国立国会図書館デジタルコレクション」
2編~15編まですべて見ることができます。
北斎漫画早指南 :「国立国会図書館デジタルコレクション」
『富獄百景』=葛飾北斎= <写真の不二> :「みんなの知識 ちょっと便利帳」
《北斎漫画》《冨嶽三十六景》《富嶽百景》の全頁(ページ)・全点・全図を展示。「北斎づくし」が六本木で開催へ 2021.3.25 :「美術手帖」
男浪図・女浪図 :「信州小布施 北斎館」
鮮やかな八方睨み鳳凰図の天井絵が美しい・岩松院
:「北信濃・妙高エリア観光情報 ふるさとを旅する」
画本彩色通初編 :「富山市立図書館」
学芸員のつぶやき 「富士越龍図」 :「信州小布施 北斎館」
北斎が描いたのは朝鮮通信使ではなく琉球使節 :「朝鮮通信使報道研究所」
信州小布施 北斎館 ホームページ
すみだ北斎美術館 ホームページ
太田記念美術館 ホームページ
北斎今昔 ホームページ
浮世絵が見られる美術館・博物館まとめ(日本編)
インターネットに有益な情報を掲載してくださった皆様に感謝します。
(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれません。
その節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。
その点、ご寛恕ください。)