遊心逍遙記

読書三昧は楽しいひととき。遊心と知的好奇心で本とネットを逍遥した読後印象記です。一書がさらに関心の波紋を広げていきます。

『利休とその妻たち』 上巻・下巻   三浦綾子   新潮文庫

2021-09-02 12:15:46 | レビュー
 今年の5月末に平凡社ライブラリーの1冊、村井康彦著『利休とその一族』(1995/5刊)を読んだ。この読後印象記は6月初旬にご紹介している。この本、もとは連載等での初出後、1987(昭和62)年1月に出版された。この本が私には千利休自身だけではなく、彼の家族・一族にも関心をいだくきっかけになった。
 その関心からまずこの『利休とその妻たち』を読んでみた。史実を踏まえた上で、歴史小説(フィクション)として、宗易(利休)の妻たちへの愛と対応が描かれている。そこには先妻と後妻それぞれの半生の対極的な生き方、有り様が描き出されている。また、息子・娘たちへの宗易の愛と対応も点描風に描き込まれていく。それは茶の湯の世界を確立するに至るまでの宗易の信念・思念と内心の懊悩のプロセスが表裏一体のものとして絡められながら描かれて行くことでもある。ストーリーは天文18年宗易28歳の時点から天正19年2月28日、70歳で切腹して果てるまでに及ぶ。
 この小説は、上掲書より早く、1980(昭和55)年3月に刊行され、1988(昭和63)年3月に文庫化された。その後増刷を重ねている。

 上掲書に「千家略系図」(p137)が載っている。利休には公式には2人の妻がいた。先妻は法名「宝心妙樹」、後妻は茶号「宗恩」で記されている。現存する文書類の記録では生前の名は不詳という。この小説は、先妻を「お稲」、後妻を「おりき」の名で描く。略系図には宗易と先妻・お稲との間に一男三女が明記されている。一人息子が紹安(のちの道安)である。三女の名は不詳。「女」とのみ記し、嫁ぎ先を併記する。一方、後妻・おりきには連れ子・少庵(のちの宗淳)が居て、おりきと宗易との間に2男児をもうけたがいずれも幼くして死んだ。「宗林童子」「宗幻童子」の法名で記されている。また、略系図に宗易には他にお亀と称する子の名が記されている。後にこのお亀が少庵の妻となる。この小説ではお亀を「おちょう」と読ませている。
 この小説で描かれた時期を外れるが、少庵とお亀の間には二男一女が略系図に記されていて、長男が茶道千家の三代目・宗旦である。宗旦の息子たちの代で千家が三家に分流していくことになる。

 この小説では、同年齢の紹安と少庵の幼名は、それぞれ与之介、吉兵衛として描かれる。お稲との間にできた三女は、長女・おゆう、次女・お袖、三女・おぎんと設定されている。だが、さらに著者は四女・おこうを加えている。

 では、このストーリーの世界に入って行こう。少し触れたが、宗易が己の茶の湯を確立していくプロセスが大きく絡みながら、宗易と「妻たち」との関わりかたがテーマになっている。ストーリーの構成としてお稲とおりきは対照的なキャラクターとして描かれていく。このストーリーの読ませどころは、妻たちの対極的なスタンス、有り様が宗易の茶の湯の道にどのように影響を及ぼしたのかという点にある。私にはその点が実に興味深かった。それは小説故のドラマティックな脚色なのか。大凡の事実を踏まえた描写なのか。どちらだろう・・・・。お読みいただきお考えいただきたい。
 ストーリーの冒頭は、お稲が4歳の与之介に男の子は外で戦ごっこをするもの。お茶のまねごとなどして遊ぶなと注意する場面から始まる。与之介の父の行う茶道を否定するのだ。なぜか? お稲は三好一族に生まれた。三好長慶の腹ちがいの妹であり、魚屋(ととや)と称する商家に嫁いだこと自体を悔やんで生きている。「茶の湯がいくらうまくても、城の主になれません」とお稲は与之介に言い聞かせる。武士を上に見て、商人を蔑む心を持つ女だった。お稲は兄の長慶から宗易に対する信頼を聞かされ、己の夫を見直す面が出てくるが、基本的には茶の湯の道に精進する生き方にはネガティブであり、三好一族の存在を優先する姿勢を貫く女、そして三好一族を滅ぼした元部下の松永久秀を恨み続ける女として描かれる。母に言われようと、与之介は父の行う茶を学ぶことを好む。
 宗易は19歳で父を失い、魚屋千家の跡を継いだ。19歳の秋に武野紹鴎の門を叩き、茶の湯を心の拠り所とし、その道を究めていこうとする。宗易の生き方をお稲は理解もせず、真っ向から否定するスタンスを抱き、己の態度にも出す。こんなところからストーリーが始まるのだから、この先どうなることか・・・・。読者としては、宗易がお稲の考え、態度にどのように対応していくかが関心事にならざるをえない。

 堺の商人たちの経済力には大名たちも一目置いている。武器の調達をはじめ、戦のためには力のある商人の協力が不可欠なのだ。一方、商人にはいくら財力があっても権力を買うことはできない。その点で武士への羨望があった。堺の商人の間で茶の湯が盛んだった。高価な名のある茶器を堺の大商人は贖うことができた。大名よりも高価な茶器を持っているという満足感を満たせた。さらに、茶の湯は教養を身につける道でもあった。つまり、茶の湯は大名と互角あるいはそれを上回る己を誇示できる場でもあった。武野紹鴎の茶に対する理念は別として、茶の湯もその次元から始まるわけである。過去に遡れば、闘茶の寄合の時期もあった。つまり、そんな茶の湯の次元から抜き出た茶の湯の世界は何か。それが宗易のテーマになっていく。
 著者は、「茶は『和敬静寂』でなければならぬ。茶は『宗教』でなければならぬ。宗易の宗教は禅であった。禅は譲ることであり、無になることでなければならぬ、と宗易は思っていた。」(上・p193)という視点から宗易の茶の湯の道を描いて行く。

 宗易の弟子に宮王三郎という猿楽の名手がいた。あるとき、宗易は宮王三郎に能を習うことにする。能の所作が茶の湯の点前の動き、流れの呼吸を会得する役に立つと判断したからだ。そして、能の師として宮王の指導を受ける為に、宮王の邸に出かけて行く。初日の稽古を終え、玄関から門に向かう途中で、偶然、宮王の4歳の子・吉兵衛と出会う。それが宗易の人生を変える契機になる。吉兵衛との会話のわずかのときが、息子を探す母との出会いに導かれることに・・・・。それが宮王の妻、おりきとの出会いである。
 宗易と名乗ったとき、おりきはありありと畏敬の表情を見せた。「これが、茶聖千利休と、後の妻宗恩、そして千家二代目少庵との奇しき出会いであった」(上・p25)と著者は記す。
 宗易は、おりきに対して「瑞々しさに溢れるような色香を湛えながらも、余にも清らかであった」(上・p107)「浄められた茶室の聖さにも似ていた」(上・p107)という印象を抱く。我が妻お稲とは対極的な存在として、宗易の心におりきへの思いが培われていく。

 このストーリー、大きく捕らえると、宗易が宮王の妻であるおりきをどのような経緯を経て、後妻に迎えるい至ったかを描いている。おりきへの宗易の愛のあり方、茶聖宗易ではなく人間宗易の側面が徐々に大きくクローズアップされていく。逆に、おりきの宗易に対する思いを描くプロセスでもある。その端的なエピソードが「阿波の碁石」として描かれる。その思いの深さを本文で味わっていただきたいと思う。
 宮王の妻・おりきとの出会いはおりき17歳の時。その後、宮王は求めに応じて阿波に渡り、その地で亡くなる。三好実休がおりきに思いを寄せる。さらに松永久秀がおりきを我がものにせんとする。実休の伝手でおりきは阿波から堺に戻ることに。宗易はこの実休・久秀二人の渦中に巻き込まれていく。
 おりきの人生の変転が始まる。おりきは堺から去り行方が知れぬことに。京の町で宗易が再会するのはそのときから11年後である。再会した宗易とおりきは深い関係になっていく。宗易の妻お稲は病に伏す身とはいえ、生きていた。
 宗易とおりきの間にできた子が幼くして死んだことを契機に、おりきはわが子の死を契機に、キリシタンの道に入って行くことに・・・・。再び宗易には新たな忍耐の始まりとなる。紹安はおりんの存在を受け入れる。
 天正5年、宗易56歳。7月にお稲が病没する。この頃に、お亀と少庵が結婚するという。翌天正6年、宗易57歳の頃、おりきは46歳で宗易の後妻となる。一旦嫁いだが千家に戻っていたおぎんもまたキリシタンとなっていて、おりきを義母として受け入れる。

 宗易はおりきに茶の湯を共に語れる喜びを見出していく。美貌で聡明なおりきは、茶道具についても目利きであり、思わぬ発想のできる女だった。茶の湯の道を確立せんとする宗易の信念と思念、行動に対して、おりきは常にポジティブであり、問われれば控えめに己の考えを語った。ストーリーの後半は、おりきを伴侶として、宗易が懊悩しながらも己の茶の湯の世界を切り開き確立していくプロセスである。宗易がおりきから己の茶の湯の道・世界を築き上げるうえで、どれだけ力強い支えを得たかが語られるストーリーでもある。著者はそんなおりきを描き込んで行く。読み進めて行くと、二人の会話を楽しめる場面が各所に盛り込まれている。

 このストーリーの中には、おりきがキリシタンになるという設定と絡め、宗易が己の茶の湯の世界を確立する一環として導入した事項について著者の仮説がエピソード風に盛り込まれて行く。たとえば、
*宗易は山崎の禅院妙喜庵に秀吉の命を受け茶室建築を行う。それは現存する二畳の茶室待庵である。この茶室に宗易は躙口を考案した。おりきがサンチョの御堂で聞いた話、狭き門より入れという話を宗易に語る。そのおりきの話がヒントになったと語る。
*おりきがキリシタンになりたいと宗易に告げたとき、宗易は日比屋了珪サンチョの建てた御堂に同行し、そこでの儀式を見聞する。その見聞から宗易は茶の湯における所作のヒントを得る。一例をとりあげよう。磔になり流されたイエズスの血に見立てた葡萄酒を器から飲み干した後に司祭が呑み干し空になった盃に行った仕種である。器の上に金襴のふくさをかけるときの仕種の美しさである。茶の湯でのふくさの扱い方、所作を工夫するヒントを宗易は得た。
*小田原の戦から戻った宗易は、おりきから『こんてむつすむん地』という翻訳書を借りて読む。そこには天下一の茶頭と自負もする宗易にとり実に痛い言葉を見出す。そして、天主(デウス)の教えも、茶の心も、つまるところは一つであったと気づく。近ごろの自分のあり方を内省する契機とする。それは、宗易にとり茶の湯での心のあり方を一歩深める結果となる。
こんなことが盛り込まれている。おもしろい仮説といえる。

 ストーリーは、上記の通り、宗易が切腹を命じられるに至る経緯とその切腹当日の描写が最後の山場となる。おりきは鮮血に染まった利休の遺体に小袖をかける。「おりきは只祈った。利休が天国に迎えられることをひたすら祈った。」(下・p301)と記す。
 そして、天正19年2月28日の利休切腹後、おりきは石田三成に召し出され、三成の屋敷に封じ込まれ、キリシタンとして信仰を抱き続ける場面の描写で終わる。それは石田三成に謀計を語らせ、石田三成という人物の一面を描写して終わることにもなっている。
 

 本書を読んで、印象に残る文を下巻からご紹介しよう。これらの文が本書への誘いになるかもしれない。ストーリーの文脈を知りたくなるのでは・・・・・。
*生きていた時には、嫌悪もいらだたしさもあった。だが人の死は、愛情を超えて、その心にふれることを可能とする。 (下・p29)
*お稲の目には、常に咎め立てようとする狭さがあったが、おりきには宗易のすべてに賛意を表した。いや、敬意を表した。それが男である宗易の心をのびやかにさせた。持っている力が、五倍にも八倍にも伸びていくような思いであった。 (下・p39)
*茶の湯は、つづまりは、茶に湯を入れて、茶筅で掻きまわし、それを味わうまでのことじゃ。只それだけのことだと、よくよく腹におさめてあれば、人の失敗もかばってやれるものじゃ。それを、ついきつく咎め立てをしてしまう。和敬を失った茶は、茶ではない。 (下・p87)
*茶は心の茶でなければなりませぬに。 (下・p87)  ⇒おりきの言
*利休の利は、利発の利を意味していた。利休の休は、その利が鈍磨しているの意である。
 禅では、この「利休」の境地を「悟り終わって未だ悟らざるに同じ」又は「絶学無為の閑道人」の境地とし、人間の究極の境地と見なしていた。  (下・p120)
*誰もが、自分の人生のシテを演じている。自分を中心に生きている。そして、それは根強い人間の姿なのだ。  (下・p131) ⇒ おりきの思い
*領民の幸せは、領主の存在を忘れて暮らせること。  (下・p146) ⇒高山右近の言
*すべては形から入って、形から出ねばならぬものである。が、一旦形に入ると、形から抜け切ることは容易にできることではない。茶の湯にとって、最も大いなるものは、和らぎであり、尊敬であり、清潔であり、静寂であった。茶会を幾度持とうと、同じ茶会は二度とは持てない。茶会は亭主一人で建立できるものではなく、客人の一人一人の心映えもまた、茶会を建立させる大きな要素であった。同じ顔ぶれであっても、それは一生に一度限りの茶会なのである。つまり「一期一会」なのであった。  (下・p238)

 ストーリーの構成は一気に最後まで読ませ、読者を惹きつけるものだと思う。一つの歴史フィクションとして見事にまとめ上げられている。

 最後に気づいたことに触れておきたい。冒頭に掲げた村井康彦著『利休とその一族』は評論書であり、史実・資料に論考を加えたものである。本文に、天正17年正月、大徳寺内の聚光院に利休が永代供養米の寄進を申し出た時の文書(寄進状)についての記述がある。利休は生前にこの聚光院に墓石を用意した。その永代供養米の寄進である。その書面には、宗易の父母の法名、宗林童子、宗幻童子の法名が記され、「利休宗易 逆修」「宗恩 逆修」の二行が記されていて、末尾に「但、墓に石灯籠在之、利休・宗恩、右燈籠ニシュ(朱)名在之」の一行が記されている。(p83)
 逆修という形で禅宗大徳寺に生前に墓石を設けた宗易は後妻の宗恩の名を連ねていることになる。
 この寄進状の文面に言及した『利休とその一族』の最初の出版が1987(昭和62)年だという。
 また、桑田忠親著『新版千利休』(角川文庫、1969/昭和44年)、『定本千利休-その栄光と挫折-』(角川文庫、1985/昭和60年)が手許にある。1955(昭和30)年に初版が出た以降の後継本である。新版・定本ともに、末尾の「利休年譜」が付され、「天正17年(1589) 正月 (68)大徳寺塔頭聚光院内の祖先の墓碑に供養し、米七石を寄進した」(定本)という記述がある。しかし、本文ではこの供養と寄進のことは考察されていないし、寄進状の内容にも言及はない。
 2009(平成21)年8月に出版された川口素生著『千利休101の謎』(PHP文庫)には、「Q12 利休が大徳寺で一族の追善を依頼した意図は?」という項を掲げ、寄進状の文面に言及している。

 本書の著者がこの小説を発表した時点では、この文書(寄進状)の存在が未公表あるいは未発見だったのかもしれない。つまり、具体的な情報はなかった。
 この寄進状を素直に読めば、宗恩は宗易とともに、逆修という形で供養を受けた、つまり仏教徒の一員となる。
 歴史小説のフィクションにおいて、おりきを最後までキリシタン信仰者と設定しているストーリーの構想という点から言えば、史実としての具体的情報が執筆時点ではなかったということだろう。
 そうでなければ、史料として残るこの寄進状の存在、その内容をどう解釈すればよいのか、フィクションといえどもその史実をどのようにストーリー内で整合させるかが論点になりうる。あるいは、歴史小説におけるフィクションはどこまでその構想に自由度があるのかという論点にもつながっていく。私にはそんな気がする。

 脇道に逸れた。小説ではあるが、茶聖千利休という人物の実像を追求する上で、興味深い小説と思う。ここに描き出されたおりきのような女性がいれば・・・・すばらしいことだろう。

 ご一読ありがとうございます。

本書を読み、関心事項をいくつか検索してみた。一覧にしておきたい。
千利休 堺市史第七巻
利休木像 :「茶の湯覚書歳時記」
南宗寺 :「堺観光ガイド 堺観光コンベンション協会公式サイト」
妙喜庵 ホームページ 
妙喜庵 :ウィキペディア 
第1回 妙喜庵待庵  :「窓研究所」
龍寶山大徳寺  :「臨黄ネット 臨済禅 黄檗禅 公式サイト」
大徳寺聚光院 特別拝観とお茶会  :「京都春秋 ことなり塾」
古渓宗陳  :「コトバンク」
見ないと損!京都・大徳寺の特別公開は驚きと感動の連続です 2018年:「家庭画報.com」
千紹安 ⇒ 千 道安 :ウィキペディア
千家二代 千少庵(宗淳) :「茶道本舗和伝.com」
大林宗套  :「コトバンク」
日比屋了珪  :「コトバンク」
こんてむつすむん地  :「コトバンク」
こんてむつすむん地  :「国立国会図書館デジタルコレクション」
インターネットに有益な情報を掲載してくださった皆様に感謝します。

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