京都・東山に「六波羅密寺」という有名な寺がある。そこに、本書のカバーに使用されている「空也上人立像」が安置されている。勿論、これは後の鎌倉時代の運慶の四男康勝の作と称される写実彫刻の作品である。もう一つ、ここに「平清盛坐像」がある。かつて、この2つが拝見したくて、六波羅密寺を訪れた。勿論、それが契機で諸仏、所蔵品を拝見できた。空也上人立像を観たときは、空也の唱えた南無阿弥陀仏という念仏が、口から六躰の小さな阿弥陀仏立像として彫刻していることに、やはり惹きつけられていた。
この立像は、六波羅密寺ホームページの「寺史」の後半に記された「開山空也上人」の項に載せてあるコマ写真をクリックしていただくと手軽に拝見できる。
この六波羅密寺のある場所が、空也が東山の地に「死者の菩提を弔い、勢社の救済を願う道場」を建て、人々が仏との結縁を結べる場を広げようとしたところなのだ。道場の建立を発願し、開創したのが1年後の天歴5年(951)秋と、著者は記す。当時鴨川の東にあるこの地は、庶民の骸を野棄する場所であり、いつしか髑髏原(どくろっぱら)と称されていた場所だった。また、道場が開かれた頃は、その4年前ほどから発生した痘瘡が再び京中に蔓延するという状況であったようだ。
この道場を開創すると同時に、空也が大般若経書写のための勧進を始める。14年の歳月を経て、大般若経供養会を行うに至り、いつしかこの道場が「西光寺」と呼ばれるようになったという。これは、この空也についての伝記小説の最後のステージで描かれて行く読ませどころの一つとなる部分である。冒頭で六波羅密寺から読後印象をまとめ始めたので、つい先にそれとの関連で記した。
なぜなら、六波羅密寺を訪れた時には、最初に空也がこの地に西光寺を開いたのが六波羅密寺の始まりと知ったことと、空也が京の市井の人々に市聖として念仏を弘めたということで思考停止し、それ以上に深く考えることはなかったからともいえる。空也の生き様に触れてみたかったのは、著者の『荒仏師 運慶』という小説を読み、奥書を読んでこの伝記小説が出されていることを知ったことによる。
この伝記小説は、「ふたりの子」というプロローグから始まる。冒頭の一文は、「菅原道真が筑紫で憤死したその年、ふたりの赤子がこの世に生まれ出た」から始まる。ひとりは坂東の武士の子、もう一人は京の都の天皇の子として。同年に生まれ出た子供は他にも大勢いただろうが・・・・。プロローグでは、坂東の武士の子とは誰かの名前は記されていない。日本史を学んだ人ならその記述から直ぐに推測がつくだろう。その子とは平将門である。そして、天皇の子というのが、後の空也上人である。
この小説は、醍醐天皇の皇子五宮常葉丸(ごのみやとこはまる)つまり後の空也が、13歳の折、宇多法皇が常葉丸の披露目を思い立ち呼び寄せた歌会の場に出て、歌会が終わった後の宴会から抜け出すという場面から第1章が始まる。母の屋敷に戻る途中、鴨川の河原で牛車から降りて近づき目にするのが、野棄(のずて)の亡骸(なきがら)を燃やす数十人の男たちの行為だった。この時の衝撃がその後の空也の生き様に関わって行くと著者は投げかけている。
「五宮の母は醍醐帝の後宮の更衣で、生家の身分こそ高くないが寵愛が著しく、常葉丸を儲けた。だが五宮が二歳のとき、女御藤原穏子(やすこ)所生の同い年の皇子保明(やすあきら)親王が皇太子に立てられた」(p13)のである。一方、五宮は親王宣下すらされないという扱いになる。このことに激高した母は五宮を高殿の縁から放り投げたことにより、五宮は地べたに叩きつけられて左肘を骨折し、ねじれたまままっすぐ伸ばせなくなったと著者は描く。その後、母子は後宮を去り、母の実家に引きとられる。常葉丸は父・醍醐帝に一度も会う事無く、父の顔も知らぬままに終わったという。
常葉丸16歳の夏、母が塔身自殺をした後、鴨川で亡骸を焼くという行動をしていた喜界坊、猪熊らの後を追う形で、出奔する。ここから後に空也という沙弥になる生き方が始まって行く。
この小説は、空也が西方に向かって端坐し、胸の高さに香炉を掲げ持った姿勢のままで息絶えた場面を描いて終わる。末尾の一文は、「天禄3年(972)9月11日、春秋七十」である。
16歳から70歳まで、常葉丸が常葉と自称し、やがて尾張の阿育知(あいち)郡にある願興寺で悦良という住僧について学び、受戒・出家して空也となり、西光寺にて寂滅するまでの生き様が綴られていく。
上掲の六波羅蜜寺の「開山空也上人」、第1パラグラフには、
”第60代醍醐天皇の皇子で、若くして五畿七道を巡り苦修練行、尾張国分寺で出家し、空也と称す。再び諸国を遍歴し、名山を訪ね、錬行を重ねると共に一切経をひもとき、教義の奥義を極める。天暦2年(948)叡山座主延勝より大乗戒を授かり光勝の称号を受けた。森羅万象に生命を感じ、ただ南無阿弥陀仏を称え、今日ある事を喜び、歓喜躍踊しつつ念仏を唱えた。上人は常に市民の中にあって伝道に励んだので、人々は親しみを込めて「市の聖」と呼び慣わした。”と紹介されている。
この小説を簡略に言えば、この引用文をご紹介することで済む。その背後にある常葉から空也への転換、沙弥としての空也の生き様が実際にどういうものだったのか? 平安時代中期の社会状況並びに、その中での空也の生き様を知りたい人には、イメージを膨らましていくのに好材料となる書である。史実の間隙に著者の想像力が翔け巡り、空也像の肉づけがなされているのだろと思う。一気に読ませる書であり、苦悩する空也に惹きつけられていく。
「六波羅密寺の歴史」(「六波羅密寺」寺史のページ)の冒頭には、「六波羅蜜寺は、天暦5年(951)醍醐天皇第二皇子光勝空也上人により開創された西国第17番の札所である」と記されている。ここでは、「第二皇子」として説明されている。この小説では「五宮常葉丸」と書かれている。「五宮」を素直に読むと、5番目の宮(皇子)と読めるのだが、この辺りは不詳。著者は「五宮」の由来を説明してはいない。空也の出生には諸説があるのかもしれない。
第3パラグラフに、「現存する空也上人の祈願文によると、応和3年8月(963)諸方の名僧600名を請じ、金字大般若経を浄写、転読し、夜には五大文字を灯じ大萬灯会を行って諸堂の落慶供養を盛大に営んだ。これが当寺の起こりである。」とさらりと記されている。この小説ではこの場面に至るプロセスが最終段階での読ませどころであり、空也の壮大な意図が描き込まれていく。それと重ねて見ると、この簡略説明文の読み方が変わってくる。異なる見え方がしてくるとも言えよう。興味深いところである。
第4パラグラフの最初に、「上人没後、高弟の中信上人によりその規模増大し、荘厳華麗な天台別院として栄えた。」とある。六波羅密寺という寺名がどの時点から正式名になったのかは記されていないので不明であるが、少なくとも空也上人の死後のことだろう。 この小説では、正式な尾張・願興寺で受戒を経た後も、空也は市井の沙弥として念仏を説くという生き様を続ける。そして、空也の市堂を訪れた叡山座主延昌の勧めを受け入れ、空也は比叡山で受戒して大僧となる。京で念仏行脚を始めて10年、市堂を建立し、庶民と仏の結縁の場を築くに至ったこの時期に、空也は仏教界の変化、流れが変わりつつあることを感じていたと著者はとらえている。「既存の仏教界と対立するのは、自分だけが正しいという頑なな思い込みだ。我欲以外のなみものでもない。対立は何も生みださない。どちらも相手を排斥して自らを守ろうとするようになる。」(p309)変わり始めた流れを止めないための空也自身の止揚のための行動が比叡山での受戒だったという。著者は、座主延昌から光勝の名を受け、その意図もうけとめつつ、空也の沙弥名で生涯を過ごしたとする。
空也が市堂を建てたのは、「石塔婆を建てた市門の北東、六町と呼ばれる市町に、市の守護神の市姫大明神社がある。それと北小路をへだてた南側に一角に市姫社の付属地があり、そこを借りられることになった。市舍の裏手の空地である」(p273)という。調べてみると、三条櫛笥に当初市中道場があったそうである。
この空也の生き方の観点に立てば、天台別院として六波羅密寺が栄えたのは、空也死後の仏教界の流れが再び変化したからなのか。空也個人の生き様とは別物に変容して行く結果なのか・・・・。「規模増大し、荘厳華麗な」伽藍化と庶民の念仏信仰との関係はどうなって行ったのか? この小説の時代を離れ、興味が湧く。
さて、この小説を読み始めて、改めて空也の生きた時代状況との繋がりが全体像としてつかめるようになってきた。ある意味で、目から鱗のような認識をした。
901年(延喜1)に太宰府に左遷された菅原道真は、903年に太宰府で没する。その後、道真の怨霊による異変と称される事象が次々に発生する。その時代に空也が生まれ、成長し、苦悩して行くということ。面白いのは、空也の幼馴染みの藤原実頼に、「相次ぐ不幸と天災は管公の怨霊のしわざ、世間はそう噂しておりますが、しかし実は、わが父忠平がたくらんで故意に流したものでした」(p44)と語らせていることである。
930年代ごろから武士が台頭してくる。その矢先に、935年には「承平・天慶の乱」が起こり、939年には平将門の乱が発生する。「再び諸国を遍歴し」と上掲で説明されている箇所には、出家後の空也が、筑波山の西、下野国豊田郡にも遍歴し、乱を起こす前の将門の屋敷に結果的に逗留し、将門とも語り合っているという場面が描かれている。空也と将門に直接の接点があったとは思いもよらなかった。
空也が生きた時代は、神社でよく見かける「式内社」という言葉に関わる「延喜式」という枠組みが形成された時代だったこと。この小説では直接の関わりは無いが、年表を読むと、907年「延喜格完成」、927年「延喜式完成」、967年「延喜式施行」という時代である。社会の秩序づけを図っている時代でもあったのだ。それは、皮肉なことに、天変地異や将門の乱、藤原純友の乱が発生した時代でもある。
摂関政治が全盛を迎えていく時代の一方で、念仏の魁けとなった空也の没後に、浄土教の発展と末法思想が流布していく時代に入っていく。源信が『往生要集』を著すのは985年である。つまり、空也の死後、13年を経ての事である。『往生要集』で地獄の思想が明確に描かれて行く。だが空也は、富士山の噴火や大地震、大洪水などの天変地異や疫病の流行する時代に、現世の地獄の様をつぶさに眺め、その時代を生きたのだ。空也の心に潜む心理的地獄も眺めていたに違いない。
著者はこの時代の様相と空也の懊悩を克明に描き込んで行く。この時代の時間軸、地理的空間的広がり、人間関係の対立とネットワーク、諸事象の連環などの全体を展望していくのにも役立つ書である。
この本で、空也が出奔する前の懊悩の一時期に、常葉丸が阿古を犯し、阿古という女性に埋没するシーンを著者は唯一描き込んでいる。空也の人間味の発露だろう。
上記の中に「若くして五畿七道を巡り苦修練行」というフレーズがあるが、16歳で出奔した後、喜界坊、猪熊らの集団に加わり、亡骸の処置、道路や堤防の修復、井戸掘りなどの今でいう社会福祉活動に明け暮れる時期が当初に描かれる。いわゆる行基集団の系譜である。この中で、猪熊との係わりが空也のほぼ生涯にわたり断続的に繋がって行く。猪熊という人間の設定が、仏との結縁についての空也の信念を表象しているように思う。
空也という人間を支えた一人として藤原実頼が描かれる。空也との生涯に亘る交友関係の描写とともに、当時の朝廷や政治を描く上での結節点として登場する。一方で実頼の人間像を知るという意味でも面白い。
空也のサポーターとなった人々は様々居る。中でも、私は空也と共に歩み続けた頑魯という人物を好む。頑魯は浄土真宗の立場で言われる「妙好人」に近い人、あるいは寒山拾得的存在とも言えるキャラクターで描かれている。著者のフィクションだろうが、彼に相当する人物が変化しつつも空也のそば近くにいたのだと思う。
ワンシーンだけ出てくるが印象深いのは「捨ててこそ」という空也の信念をきちんと受け止めた天台僧として千観との出会いを描き込んでいるところである。
この小説、空也が苦悶懊悩しながら、「捨ててこそ」の実践行の中で、市井の人々との係わりを深め、仏との結縁の場作りに邁進した生き様が描かれている。
専修念仏を弘める法然上人が登場するのは鎌倉時代の初期である。歴史年表を読むと法然が『選択本願念仏集』を著したのは1198年である。120年余後になる。この小説を読み、空也の実践は法然の考えに繋がっていると思う。法然は空也という魁けの存在とその軌跡をどこまで知っていたのだろうか。それが法然の思想形成にどれだけ影響を及ぼしているのだろうか。この小説の読後印象として、関心を抱くところである。
「空也」と自ら名付けた名前は、『十二門論』に大乗仏教の要諦を説くくだりがあり、その文の末尾に「深義はいわゆる空なり」と記されているそうである。大乗の深義は空なりということを心に刻むために「空也」をわが名にしたという。さらにその空也は『維摩経』の仏国品第一にある一節につながると著者は空也の心をとらえている。
「空を修学して、空を以て証とせず、(中略)空無を観じて、しかも大悲を捨てず、(中略)衆生の病を滅するが故に有為を尽くさず」(p89)
最後に空也が詠んだ歌として本書に記されたものをご紹介しておきたい。
ひとたびも南無阿弥陀仏といふ人の 蓮(はちす)の上にのぼらぬはなし
平安京の囚獄が置かれた東市の市門傍に空也が勧進建立した石塔婆の裏面
この石塔婆、いずこかにあるのだろうか? 消滅してしまったのか?
極楽は遙けきほどと聞きしかど つとめていたる所なりけり
この小説を読み、改めて空也上人立像の実物を拝見したくなった。
ご一読ありがとうございます。
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補遺
空也 :ウィキペディア
六波羅密寺 ホームページ
空也堂 :「京都観光Navi」
1568十二門論 - 網路藏經閣
《十二門論》CBETA 電子版No. 1568 十二門論品目十二門論序
空也上人 :「一顆明珠~住職の記録~」
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その節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。
その点、ご寛恕ください。)
著者の作品で以下の読後印象記を書いています。
こちらもお読みいただけると、うれしいかぎりです。
『荒仏師 運慶』 新潮社
『百枚の定家』 新人物往来社
この立像は、六波羅密寺ホームページの「寺史」の後半に記された「開山空也上人」の項に載せてあるコマ写真をクリックしていただくと手軽に拝見できる。
この六波羅密寺のある場所が、空也が東山の地に「死者の菩提を弔い、勢社の救済を願う道場」を建て、人々が仏との結縁を結べる場を広げようとしたところなのだ。道場の建立を発願し、開創したのが1年後の天歴5年(951)秋と、著者は記す。当時鴨川の東にあるこの地は、庶民の骸を野棄する場所であり、いつしか髑髏原(どくろっぱら)と称されていた場所だった。また、道場が開かれた頃は、その4年前ほどから発生した痘瘡が再び京中に蔓延するという状況であったようだ。
この道場を開創すると同時に、空也が大般若経書写のための勧進を始める。14年の歳月を経て、大般若経供養会を行うに至り、いつしかこの道場が「西光寺」と呼ばれるようになったという。これは、この空也についての伝記小説の最後のステージで描かれて行く読ませどころの一つとなる部分である。冒頭で六波羅密寺から読後印象をまとめ始めたので、つい先にそれとの関連で記した。
なぜなら、六波羅密寺を訪れた時には、最初に空也がこの地に西光寺を開いたのが六波羅密寺の始まりと知ったことと、空也が京の市井の人々に市聖として念仏を弘めたということで思考停止し、それ以上に深く考えることはなかったからともいえる。空也の生き様に触れてみたかったのは、著者の『荒仏師 運慶』という小説を読み、奥書を読んでこの伝記小説が出されていることを知ったことによる。
この伝記小説は、「ふたりの子」というプロローグから始まる。冒頭の一文は、「菅原道真が筑紫で憤死したその年、ふたりの赤子がこの世に生まれ出た」から始まる。ひとりは坂東の武士の子、もう一人は京の都の天皇の子として。同年に生まれ出た子供は他にも大勢いただろうが・・・・。プロローグでは、坂東の武士の子とは誰かの名前は記されていない。日本史を学んだ人ならその記述から直ぐに推測がつくだろう。その子とは平将門である。そして、天皇の子というのが、後の空也上人である。
この小説は、醍醐天皇の皇子五宮常葉丸(ごのみやとこはまる)つまり後の空也が、13歳の折、宇多法皇が常葉丸の披露目を思い立ち呼び寄せた歌会の場に出て、歌会が終わった後の宴会から抜け出すという場面から第1章が始まる。母の屋敷に戻る途中、鴨川の河原で牛車から降りて近づき目にするのが、野棄(のずて)の亡骸(なきがら)を燃やす数十人の男たちの行為だった。この時の衝撃がその後の空也の生き様に関わって行くと著者は投げかけている。
「五宮の母は醍醐帝の後宮の更衣で、生家の身分こそ高くないが寵愛が著しく、常葉丸を儲けた。だが五宮が二歳のとき、女御藤原穏子(やすこ)所生の同い年の皇子保明(やすあきら)親王が皇太子に立てられた」(p13)のである。一方、五宮は親王宣下すらされないという扱いになる。このことに激高した母は五宮を高殿の縁から放り投げたことにより、五宮は地べたに叩きつけられて左肘を骨折し、ねじれたまままっすぐ伸ばせなくなったと著者は描く。その後、母子は後宮を去り、母の実家に引きとられる。常葉丸は父・醍醐帝に一度も会う事無く、父の顔も知らぬままに終わったという。
常葉丸16歳の夏、母が塔身自殺をした後、鴨川で亡骸を焼くという行動をしていた喜界坊、猪熊らの後を追う形で、出奔する。ここから後に空也という沙弥になる生き方が始まって行く。
この小説は、空也が西方に向かって端坐し、胸の高さに香炉を掲げ持った姿勢のままで息絶えた場面を描いて終わる。末尾の一文は、「天禄3年(972)9月11日、春秋七十」である。
16歳から70歳まで、常葉丸が常葉と自称し、やがて尾張の阿育知(あいち)郡にある願興寺で悦良という住僧について学び、受戒・出家して空也となり、西光寺にて寂滅するまでの生き様が綴られていく。
上掲の六波羅蜜寺の「開山空也上人」、第1パラグラフには、
”第60代醍醐天皇の皇子で、若くして五畿七道を巡り苦修練行、尾張国分寺で出家し、空也と称す。再び諸国を遍歴し、名山を訪ね、錬行を重ねると共に一切経をひもとき、教義の奥義を極める。天暦2年(948)叡山座主延勝より大乗戒を授かり光勝の称号を受けた。森羅万象に生命を感じ、ただ南無阿弥陀仏を称え、今日ある事を喜び、歓喜躍踊しつつ念仏を唱えた。上人は常に市民の中にあって伝道に励んだので、人々は親しみを込めて「市の聖」と呼び慣わした。”と紹介されている。
この小説を簡略に言えば、この引用文をご紹介することで済む。その背後にある常葉から空也への転換、沙弥としての空也の生き様が実際にどういうものだったのか? 平安時代中期の社会状況並びに、その中での空也の生き様を知りたい人には、イメージを膨らましていくのに好材料となる書である。史実の間隙に著者の想像力が翔け巡り、空也像の肉づけがなされているのだろと思う。一気に読ませる書であり、苦悩する空也に惹きつけられていく。
「六波羅密寺の歴史」(「六波羅密寺」寺史のページ)の冒頭には、「六波羅蜜寺は、天暦5年(951)醍醐天皇第二皇子光勝空也上人により開創された西国第17番の札所である」と記されている。ここでは、「第二皇子」として説明されている。この小説では「五宮常葉丸」と書かれている。「五宮」を素直に読むと、5番目の宮(皇子)と読めるのだが、この辺りは不詳。著者は「五宮」の由来を説明してはいない。空也の出生には諸説があるのかもしれない。
第3パラグラフに、「現存する空也上人の祈願文によると、応和3年8月(963)諸方の名僧600名を請じ、金字大般若経を浄写、転読し、夜には五大文字を灯じ大萬灯会を行って諸堂の落慶供養を盛大に営んだ。これが当寺の起こりである。」とさらりと記されている。この小説ではこの場面に至るプロセスが最終段階での読ませどころであり、空也の壮大な意図が描き込まれていく。それと重ねて見ると、この簡略説明文の読み方が変わってくる。異なる見え方がしてくるとも言えよう。興味深いところである。
第4パラグラフの最初に、「上人没後、高弟の中信上人によりその規模増大し、荘厳華麗な天台別院として栄えた。」とある。六波羅密寺という寺名がどの時点から正式名になったのかは記されていないので不明であるが、少なくとも空也上人の死後のことだろう。 この小説では、正式な尾張・願興寺で受戒を経た後も、空也は市井の沙弥として念仏を説くという生き様を続ける。そして、空也の市堂を訪れた叡山座主延昌の勧めを受け入れ、空也は比叡山で受戒して大僧となる。京で念仏行脚を始めて10年、市堂を建立し、庶民と仏の結縁の場を築くに至ったこの時期に、空也は仏教界の変化、流れが変わりつつあることを感じていたと著者はとらえている。「既存の仏教界と対立するのは、自分だけが正しいという頑なな思い込みだ。我欲以外のなみものでもない。対立は何も生みださない。どちらも相手を排斥して自らを守ろうとするようになる。」(p309)変わり始めた流れを止めないための空也自身の止揚のための行動が比叡山での受戒だったという。著者は、座主延昌から光勝の名を受け、その意図もうけとめつつ、空也の沙弥名で生涯を過ごしたとする。
空也が市堂を建てたのは、「石塔婆を建てた市門の北東、六町と呼ばれる市町に、市の守護神の市姫大明神社がある。それと北小路をへだてた南側に一角に市姫社の付属地があり、そこを借りられることになった。市舍の裏手の空地である」(p273)という。調べてみると、三条櫛笥に当初市中道場があったそうである。
この空也の生き方の観点に立てば、天台別院として六波羅密寺が栄えたのは、空也死後の仏教界の流れが再び変化したからなのか。空也個人の生き様とは別物に変容して行く結果なのか・・・・。「規模増大し、荘厳華麗な」伽藍化と庶民の念仏信仰との関係はどうなって行ったのか? この小説の時代を離れ、興味が湧く。
さて、この小説を読み始めて、改めて空也の生きた時代状況との繋がりが全体像としてつかめるようになってきた。ある意味で、目から鱗のような認識をした。
901年(延喜1)に太宰府に左遷された菅原道真は、903年に太宰府で没する。その後、道真の怨霊による異変と称される事象が次々に発生する。その時代に空也が生まれ、成長し、苦悩して行くということ。面白いのは、空也の幼馴染みの藤原実頼に、「相次ぐ不幸と天災は管公の怨霊のしわざ、世間はそう噂しておりますが、しかし実は、わが父忠平がたくらんで故意に流したものでした」(p44)と語らせていることである。
930年代ごろから武士が台頭してくる。その矢先に、935年には「承平・天慶の乱」が起こり、939年には平将門の乱が発生する。「再び諸国を遍歴し」と上掲で説明されている箇所には、出家後の空也が、筑波山の西、下野国豊田郡にも遍歴し、乱を起こす前の将門の屋敷に結果的に逗留し、将門とも語り合っているという場面が描かれている。空也と将門に直接の接点があったとは思いもよらなかった。
空也が生きた時代は、神社でよく見かける「式内社」という言葉に関わる「延喜式」という枠組みが形成された時代だったこと。この小説では直接の関わりは無いが、年表を読むと、907年「延喜格完成」、927年「延喜式完成」、967年「延喜式施行」という時代である。社会の秩序づけを図っている時代でもあったのだ。それは、皮肉なことに、天変地異や将門の乱、藤原純友の乱が発生した時代でもある。
摂関政治が全盛を迎えていく時代の一方で、念仏の魁けとなった空也の没後に、浄土教の発展と末法思想が流布していく時代に入っていく。源信が『往生要集』を著すのは985年である。つまり、空也の死後、13年を経ての事である。『往生要集』で地獄の思想が明確に描かれて行く。だが空也は、富士山の噴火や大地震、大洪水などの天変地異や疫病の流行する時代に、現世の地獄の様をつぶさに眺め、その時代を生きたのだ。空也の心に潜む心理的地獄も眺めていたに違いない。
著者はこの時代の様相と空也の懊悩を克明に描き込んで行く。この時代の時間軸、地理的空間的広がり、人間関係の対立とネットワーク、諸事象の連環などの全体を展望していくのにも役立つ書である。
この本で、空也が出奔する前の懊悩の一時期に、常葉丸が阿古を犯し、阿古という女性に埋没するシーンを著者は唯一描き込んでいる。空也の人間味の発露だろう。
上記の中に「若くして五畿七道を巡り苦修練行」というフレーズがあるが、16歳で出奔した後、喜界坊、猪熊らの集団に加わり、亡骸の処置、道路や堤防の修復、井戸掘りなどの今でいう社会福祉活動に明け暮れる時期が当初に描かれる。いわゆる行基集団の系譜である。この中で、猪熊との係わりが空也のほぼ生涯にわたり断続的に繋がって行く。猪熊という人間の設定が、仏との結縁についての空也の信念を表象しているように思う。
空也という人間を支えた一人として藤原実頼が描かれる。空也との生涯に亘る交友関係の描写とともに、当時の朝廷や政治を描く上での結節点として登場する。一方で実頼の人間像を知るという意味でも面白い。
空也のサポーターとなった人々は様々居る。中でも、私は空也と共に歩み続けた頑魯という人物を好む。頑魯は浄土真宗の立場で言われる「妙好人」に近い人、あるいは寒山拾得的存在とも言えるキャラクターで描かれている。著者のフィクションだろうが、彼に相当する人物が変化しつつも空也のそば近くにいたのだと思う。
ワンシーンだけ出てくるが印象深いのは「捨ててこそ」という空也の信念をきちんと受け止めた天台僧として千観との出会いを描き込んでいるところである。
この小説、空也が苦悶懊悩しながら、「捨ててこそ」の実践行の中で、市井の人々との係わりを深め、仏との結縁の場作りに邁進した生き様が描かれている。
専修念仏を弘める法然上人が登場するのは鎌倉時代の初期である。歴史年表を読むと法然が『選択本願念仏集』を著したのは1198年である。120年余後になる。この小説を読み、空也の実践は法然の考えに繋がっていると思う。法然は空也という魁けの存在とその軌跡をどこまで知っていたのだろうか。それが法然の思想形成にどれだけ影響を及ぼしているのだろうか。この小説の読後印象として、関心を抱くところである。
「空也」と自ら名付けた名前は、『十二門論』に大乗仏教の要諦を説くくだりがあり、その文の末尾に「深義はいわゆる空なり」と記されているそうである。大乗の深義は空なりということを心に刻むために「空也」をわが名にしたという。さらにその空也は『維摩経』の仏国品第一にある一節につながると著者は空也の心をとらえている。
「空を修学して、空を以て証とせず、(中略)空無を観じて、しかも大悲を捨てず、(中略)衆生の病を滅するが故に有為を尽くさず」(p89)
最後に空也が詠んだ歌として本書に記されたものをご紹介しておきたい。
ひとたびも南無阿弥陀仏といふ人の 蓮(はちす)の上にのぼらぬはなし
平安京の囚獄が置かれた東市の市門傍に空也が勧進建立した石塔婆の裏面
この石塔婆、いずこかにあるのだろうか? 消滅してしまったのか?
極楽は遙けきほどと聞きしかど つとめていたる所なりけり
この小説を読み、改めて空也上人立像の実物を拝見したくなった。
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補遺
空也 :ウィキペディア
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空也堂 :「京都観光Navi」
1568十二門論 - 網路藏經閣
《十二門論》CBETA 電子版No. 1568 十二門論品目十二門論序
空也上人 :「一顆明珠~住職の記録~」
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著者の作品で以下の読後印象記を書いています。
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『荒仏師 運慶』 新潮社
『百枚の定家』 新人物往来社