遊心逍遙記

読書三昧は楽しいひととき。遊心と知的好奇心で本とネットを逍遥した読後印象記です。一書がさらに関心の波紋を広げていきます。

『「フルベッキ写真」の暗号』  斎藤充功  mu NONFIX (学研) 

2015-12-03 09:17:54 | レビュー
 本書は2012年10月に『「フルベッキ群像写真」と明治天皇”すえ替え”説のトリック』というタイトルでミリオン出版から上梓されたものの改訂新版である。
かなり以前に一度このフルベッキ群像写真を何かの機会に見た記憶があり、幕末維新の頃に、当時の数多くの歴史に名を残した人々が一堂に会している写真があったという程度で頭の隅に残っていた。そのため本書のタイトルに興味を抱き読んでみた。
 
 フルベッキ氏とは安政6年(1859)11月7日に長崎にプロテスタント宣教師として来日した人物である。そして本書で検証の対象となっている写真は長崎において、「日本初のプロカメラマン」といわれた上野彦馬の写真場で撮影されたウェットプレート(湿式)写真である。印画紙はアルビュメン・プリント(鶏卵紙)が用いられたものという。ウィキペディアからその写真を引用させていただこう。

 フルベッキ親子の周りに44人の日本人、髷を結い刀を携えた人々が写っている。この写真が初めて掲載されたのは明治28年で雑誌『太陽』7月号だという。戸川残花(詩人・牧師)の「フルベッキ博士とヘボン先生」と題する文章とともに、「維新前の長崎洋学生」というキャプションが入って掲載されたそうだ。
 フルベッキ氏は、1869年(明治2)3月、政府から開成学校の教師と政府顧問に招かれ東京に移住、その後東京で教師と宣教師の生活を送る。1886年(明治9)、明治学院創立のために初代理事に選出され、日本での永住権を得ている。1898年(明治31)3月、東京赤坂葵町の自宅で急逝、青山墓地に埋葬された。享年68歳。
 この写真が『太陽』に掲載された当時並びにその後80年ほどは、特に大きな話題になった形跡はないという。

 では、なぜこの写真が問題なのか?
 1974年(昭和49)に島田隆資という肖像画家が、『日本歴史』1月号に「維新史上解明されていない群像写真について」と題した論考を発表。このフルベッキ群像写真を幕末の英傑たちが長崎に一堂に会して、上野写真場で撮影された「歴史的な記念写真」として発表したことがきっかけのようだ。島田氏は、46人の人物の内、推定を含めて25人を同定して論じたのである。島田が断定した名前には保守・革新を含めあっと驚く面々が集合しているというのだ。それ自体の信憑性が歴史的には大きな話題だろう。
 だが、この写真のその後の展開は、その群像の中に「大室寅之祐」という人物が同定され、その人物が明治天皇にすり替わったのだという「明治天皇”すり替え”説」が発表され、さらには明治天皇の父である孝明天皇について、「孝明天皇暗殺説」が提起されるに及んだことである。その孝明天皇の暗殺の首謀者が伊藤博文だという話に発展したのだ。 本書は、この「フルベッキ群像写真」と「明治天皇すり替え説」「孝明天皇暗殺説」のルーツを探索し、それに検証を加えたものである。

 著者の結論の要点は私の理解不足でなければ以下のとおりである。
1)孝明天皇の子、睦仁親王が即位後に暗殺され、この群像写真の中に同定された大室寅之祐とすり替わったという説は否定できる。明治天皇の写真と大室寅之祐の写真を「法人類学」的観点で検証してもらった結果を併せて、すり替わり説は成立しない。
 明治天皇すり替え説の嚆矢とされるのは、鹿島の論考『日本侵略興亡史-明治天皇出生の謎』(新国民社・1990年)なのだが、「鹿島はフルベッキ写真については言及していない」(p183)とする。
2)伊藤博文を首謀者とする孝明天皇暗殺説も明確な証拠に欠けるものであり、宮崎鉄雄の証言をベースにした孝明天皇暗殺説もその証言が不確かな伝聞としか言いようがない。つまり、この暗殺説も諸検証の結果成立しない。
3)フルベッキ群像写真に幕末明治の英傑が一堂に会したというのは成り立たない。もう1枚のフルベッキ写真が残されている。「フルベッキが人物の名前を誰一人として語っていないのは、幕末・維新の英傑が写っていなかったということの証左ではないだろうか」(p163-164)
 本書はこの検証のプロセスを追っていくことにその面白さがある。

 本書での検証プロセスの一環として、著者は伊藤博文のハルビンにおける遭難事件から論考していく。第1章と第2章で「ハルビン事件」について論じている。ここで興味深いのは、伊藤博文を狙撃した犯人が安重根と結論づけられ処理されているが、諸資料から伊藤博文の撃たれた弾道の角度が安重根の狙撃とは一致しないという証拠が残されていること。安重根が主張した「伊藤博文罪状十五箇条」の第14条に孝明天皇を伊藤が暗殺したことを「現日本皇帝の御父君に当たらせられる御方」と述べている点。安重根裁判に政治的介入があったという点などを克明に検証している。この辺り歴史的事実の理解を深めるためには、一読の価値がある。歴史の闇に留まるのだろうが、そこには仕組まれた暗殺劇があったようだ。

 明治天皇すり替え説という偽説がどのような経緯で独自の進展をみせたのかを著者は本書で検証している、この検証プロセスが読ませどころである。偽説の主張点を丁寧に引用しつつ疑問点を論じていく。
 フルベッキ群像写真の中の大室寅之祐と明治天皇のすり替えの否定は専門家による法人類学的検証で、科学的見地からの手法を追加して論じている。それはある意味でとどめの一発というところだろう。
 一方で、群像写真の他の人物が様々な人によって同定(推定)されている点については、明確な論拠がえられないという検証にとどめ、フルベッキの発言記録もないところから幕末維新の英傑はここに会していず、単なる洋学生の一群とするに留めている。ここも同種の科学的手法で検証を進める方が、とどめの一発になるのではないかという読後印象をもった。
 
 本書の読後感として副産物がさらに4つある。
1)小説としてのおもしろさとしての意味で、加治将一著『幕末維新の暗号』(文庫本・上下巻)が紹介されていること。
2)第7章で論じられているのだが、記録から抹殺されていた1枚の禁断の「盗撮」写真が存在すること。オーストリア人・スティールフリードのよって「盗撮」された写真である。それは横須賀造船所に行幸した明治天皇を撮ったもの(明治4年)だという。この写真と明治5年の山口行幸の翌年にバストショット写真として撮影された明治天皇である。この2枚に別人の印象を抱くというのだ。それが何を意味するのか。著者は新たな疑問を提示している。
3)次に引用する著者の推測がもう一つ興味深いものだ。
 「フルベッキ写真と大室寅之祐、そしてフルベッキ写真と陶板額ビジネスは、2000年から2003年にかけて、『明治天皇の孫』を自称する中丸薫を中心として始まった、新たな動きだったのではないだろうか。それは、中丸自身が『明治天皇の孫』であるという根拠を補強する材料としてフルベッキ写真を利用しようと考えたからではないかと私は推測する。そして、そこに便乗したのがあ、フルベッキ写真の陶板額をビジネスにしようとした人間たちだったのではないか。そして、フルベッキ写真の偽説が流布された経緯には、宗教団体が絡んでいる。」(p166)
4)大金を横領し、終身懲役の判決を受けた渡辺魁が、脱獄に成功し、巧妙な戸籍操作で辻村庫太と改名した。そして何と、名実ともに一人前の裁判官となったという。しかし、それが露見して逮捕されるのだが、その脱獄判事が、「無罪」判決を受けたという。著者はこの事実を資史料で追跡しており、それが孝明天皇暗殺説にも否定の論拠の要因になっているという面白さである。
 明治維新後の政府の確立期、何があってもおかしくないということか。
 歴史の闇に潜む事象が、明確な証拠、資史料が残されていないことから解明されないままに、様々にあるのかもしれない。
 
ご一読ありがとうございます。

人気ブログランキングへ
↑↑ クリックしていただけると嬉しいです。

いくつかネット検索したものを一覧にしておきたい。
フルベッキ群像写真  :ウィキペディア
グイド・フルベッキ  :ウィキペディア
フルベッキ写真の考察   :「舎人学校」
 「フルベッキ写真」に関する調査結果(慶應義塾大学 高橋信一氏)を掲載。
フルベッキ写真の真偽   :「フルベッキ写真」
  写真の人物名を同定したとされている内容を併せて併載紹介しているページ

  インターネットに有益な情報を掲載してくださった皆様に感謝します。

人気ブログランキングへ
↑↑ クリックしていただけると嬉しいです。

(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれません。
その節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。
その点、ご寛恕ください。)