遊心逍遙記

読書三昧は楽しいひととき。遊心と知的好奇心で本とネットを逍遥した読後印象記です。一書がさらに関心の波紋を広げていきます。

『最後の晩餐の暗号』 ハビエル・シェラ  イースト・プレス

2015-12-25 10:29:25 | レビュー
 イタリアのミラノにサンタ・マリア・デッレ・グラツィエ修道院および教会がある。その修道院の食堂に、レオナルド・ダ・ヴィンチ(以下、レオナルドと略す)の有名な「最後の晩餐」が壁画として描かれている。
 壁画は通常、フレスコ画という技法で描かれてきたが、この「最後の晩餐」はなぜかテンペラ画という技法でレオナルドは描いた。壁画には適さない技法なのに、なぜそれを承知でこの技法を使ったのか? 事実、壁画が完成してから20年足らずで、顔料の剥離が進行し、壁画が劣化していたという。それ以降に度重なる修復や書き足しがなされたようだが、最終的に1977年から1999年にかけ、20世紀の大修復作業が行われた。
このテンペラ画という技法を使ったことにも、レオナルドの重要な意図が秘められていたのだという見方をこの小説の展開に著者は組み込んでいる。この小説では「乾式法 ア・セッコという、なぜそんな方法でと物議を醸した、とても傷みやすい技法で描かれいることもあって」(p364)と記述されているのがこれに相当するのだろう。なかなか巧みなレオナルドの戦略的発想だと思わせ、説得力がある。

 2002年にミラノに旅行した折、事前に見学を予約しておいた。少し早い目に出かけ、予約時間どおりに、限られた人数の見学群の中に加わり、限られた時間枠でしかなかったが見学できた。ひととき静かに「最後の晩餐」を眺めることができたのは、懐かしい思い出である。

 このタイトルを見て、すぐに読む気になった。スペイン生まれ、スペインで活躍するという。私は初めて知った作家である。翻訳出版されたのが今年、2015年3月である。その時点では、気づかなかった。ダン・ブラウンの『ダ・ヴィンチ・コード』が2003年に発表され、2004年5月には翻訳が出版されている。一方、この『最後の晩餐の暗号』は2004年に刊行されていたのだ。「スペインで2004年に刊行されるや大ベストセラーとなり、その後世界40カ国以上で出版されて発行部数は200万部をゆうに突破、スペイン文学としてはまれに見る国際的成功を収めた」(訳者あとがき)という。著者の「謝辞」を読むと、この作品を書くために3年の歳月をかけて調査研究して執筆したと記されているので、ダン・ブラウンと同時期にレオナルド・ダ・ヴィンチとその作品を小説の題材に取り上げていたことになる。

 この小説のまず興味深いところは、神のしもべ、アゴスティーノ・レイレ(以下、アゴスティーノと略す)が晩年に書き綴った回想録という形式で語られていることである。彼はどこに居るのか。アゴスティーノはエジプトのナイルの大河からそう離れていないジャバル・アル・ターリフと呼ばれる洞窟群の一隅に居る。そこは1945年にエジプトのコプト語で書かれた失われた福音書『ナグ・ハマディ文書』が発見されたとされるくぼみから僅か数十メートルほどしか離れていなかった場所である。アゴスティーノは1526年8月に洞穴の場所で死去する。失われた福音書がほんの近くに存在したことも知らずに・・・・。
 なぜ、ローマから遠く離れた辺境の地でアゴスティーノは死ぬに至ったのか? この回想録として描かれるプロセスが、アゴスティーノ・レイレ神父がなぜこの生き様を選択したかの謎解きにもなっていく。

 この小説は、レオナルドが「最後の晩餐」をサンタ・マリア・デッレ・グラツィエ修道院の食堂に描いているその制作過程と同時進行で描かれて行く。「最後の晩餐」にどのような悪魔的意味が描き込まれようとしているかという暗号の解読、謎解きにある。その目的は「最後の晩餐」の完成を阻止せんとすることなのだ。その渦中にアゴスティーノ神父が投げ込まれる。
 アゴスティーノ神父は、ローマにいた若い頃、特権的な暮らしをしていた。ベタニア団という教皇庁の秘密諜報組織の一員であり、異端審問官だったのだ。アゴスティーノは、ドミニコ修道会の第35代総長であるジョアッキーノ・トッリアーニ師の指示を受けて、サンタ・マリア・デッレ・グラツィエ修道院の食堂に描かれつつある「最後の晩餐」に関わる計画を阻止するために派遣される。それは、<予言者>と名乗る匿名の手紙がトッリアーニ総長に頻繁に送られて来たことに端を発していたのである。
 イル・モーロと呼ばれるミラノ大公(=ルドヴィーコ・スフォルツァ)が、サンタ・マリア・デッレ・グラツィエ修道院の食堂に、「最後の晩餐」を描くようにレオナルドに依頼する。<予言者>は、イル・モーロが、レオナルドに「最後の晩餐」という芸術作品を描かせて、教会に対する魔術をかけようとしているというのである。芸術作品の根本は科学そのものでああり、「ひそかに隠したある種の暗号に従ってつくられた作品には宇宙の力が宿るようになり」(p31)芸術作品は武器になるというのだ。<予言者>はレオナルドが教会並びに信仰を破壊する暗号を描き込もうとしていると告げてきているのである。
 レオナルド自身が、壁画を描きながら弟子に、秘密がここにあると語る。
 一方、サンタ・マリア・デッレ・グラツィエ修道院の院長であるヴィチェンツォ・バンデッロ神父自身が、描かれつつある「最後の晩餐」を眺めて、聖書に記される内容と相違する箇所をいくつも見出し、ある種の恐れを抱いているのだった。

 トッリアーニ総長に<予言者>から送られてきた直近の手紙には、ミラノ大公妃の死について書かれていて、それは大公妃の死去する3日前に投函されていたものなのだ。さらに、予言者の手紙には謎の七行詩が記されていた。
 
   目を数えろ
   だが顔を見るな
   わが名の数は
   側面で見つかるだろう
   よく観察せよ、そして他者に
   われらの観察の結果を知らしめよ
               真実

 ベタニア団では、レオナルドが一見敬虔に見える作品に異端的なアイデアを忍ばせる傾向があることをすでにつかんでいるし、レオナルドがイル・モーロの考え方に共感しそうな芸術家とにらんでいるというのである。
 この最新の手紙と七行詩が、アゴスティーノをミラノに赴かせ、「最後の晩餐」の暗号解明という困難な作業に追い込むことになる。そして、結果的にそのプロセスが、異端審問官アゴスティーノ神父の生き様を変えさせる動因ともなる。

 この謎の解明プロセスには、アゴスティーノにとっていくつかの課題がある。
 1. 予言者とは誰なのか? 如何にして予言者を発見するか。
 2. 「最後の晩餐」に秘められた暗号の解明という目的を修道院の修道士たちに気づかれることなく、どのように進めて行けるか。ベタニア団からの派遣ということを知られてはならないのだ。あくまで異端審問官であるということまでの身分開示である。
 3. 謎の七行詩を手がかりにして、「最後の晩餐」の絵に秘められつつあるという暗号を解明しなければならない。他に手がかりとなるものはないかの探索から始まる。

 結び目という象徴、暗号解読法ゲマトリア、異端の書『新黙示録』、ギリシャ人の発明した<記憶の宮殿>という記憶術、大公妃ドンナ・ベアトリーチェのタロットカード、十二使徒の特徴を示すリスト、キリスト教世界の正統派と異端派、図像学などがさまざまに組み合わされ、謎解きに援用されていく。興味深い進展となる。

 ダン・ブラウン著の『ダ・ヴィンチ・コード』は、ラングドン教授が宗教象徴学の視点から、暗号解読官ソフィー・ヌヴオーとともに、事件の解明にあたる。現代という時点から、「モナ・リザ」「岩窟の聖母」「ウィトルウィウス的人体図」なそ、レオナルドの絵画に潜む謎に導かれていく。そして「最後の晩餐」に秘められた暗号も登場してくるが、このストーリーの中では「聖杯」についての暗号の読み解きという形に展開されていく。 「最後の晩餐」に秘められた意図の読み解きが全く異なる展開になるというのも、実におもしろいところである。

 手許の『ダ・ヴインチ・コード』を改めて開き、「最後の晩餐」に触れている箇所をスキャンしてみたのだが、このストーリーの中では、宗教史学者ティービングの発言として、「最後の晩餐」はフレスコ画と記され、ソフィーも「歴史上最も有名なフレスコ画である<最後の晩餐>を見つめた。(下巻 p332)と翻訳されている。原文がそういう記述なのだろう。そうすると、ダン・ブラウンはフレスコ画とテンペラ画を識別していなかったということなのか? あるいは意図的に、壁画ならにフレスコ画と思いがちな普通の一般通念のレベルで場面の会話を作っているだけなのだろうか・・・・。この小説を読んでいるときは、全く気にせずに読み進めていた自分に気づいた次第でもある。

 本書の著者は、「最後の晩餐」に秘められた暗号解読を「最後の晩餐」制作過程での同進行のストーリーとして描き出したので、具体的に識別した上で、この技法自体を上記のごとく、レオナルドの意識的な選択での構想に展開しているのだ。実に興味深いところである。

 最後に、本書の副産物として、レオナルドの生きていた時代の背景が具体的に見えて来ることが興味深い。「敵対する異文化がぶつかり合う激動の時代だった。15世紀にわたって蓄積されたキリスト教文化が、東方からどっと流れ込んできた新たな概念によって脆くも崩れ去ろうとしていた、流砂地獄のさなかにあった。」「キリスト教世界は混乱期にあった」(p13)と冒頭に出てくるが、これが具体的な時代背景として描き込まれていく。
 
 ご一読ありがとうございます。

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この作品に関連する語句などをネット検索してみた。一覧にしておきたい。
ルドヴィーコ・イル・モーロ  :「歴史人物辞典」
スフォルツァ家        :「歴史人物辞典」
サンタ・マリア・デッレ・グラツィエ教会(ミラノ)  :ウィキペディア
ヴェッキオ宮殿  :ウィキペディア
レオナルド・ダ・ヴィンチ  :ウィキペディア
最後の晩餐(レオナルド)  :ウィキペディア
東方三博士の礼拝  :「Salvastyle.com」
岩窟の聖母 ルーブル版        :「Salvastyle.com」
岩窟の聖母 ナショナル・ギャラリー版 :「Salvastyle.com」
ミラノ貴婦人の肖像  :ウィキペディア
受胎告知 ダヴィンチ  :「有名な絵画・画家」
ドミニコ会   :ウィキペディア
ドミニコの生涯 :「説教者兄弟会カナダ管区」
フランシスコ会 :ウィキペディア
異端審問  :ウィキペディア
魔女狩りと異端審問の歴史
ゲマトリア :「新・世界の裏窓」
マルシリオ・フィチーノ  :ウィキペディア
ピントゥリッキオ :ウィキペディア
西洋神秘伝統の歴史  :「IMN」
異端カタリ派 :「ヴォイニッチ手稿」

  インターネットに有益な情報を掲載してくださった皆様に感謝します。

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