遊心逍遙記

読書三昧は楽しいひととき。遊心と知的好奇心で本とネットを逍遥した読後印象記です。一書がさらに関心の波紋を広げていきます。

『原発危機の経済学』  齊藤 誠  日本評論社

2012-11-06 23:33:40 | レビュー
 この本を読んだきっかけで、著者がブログを書かれていることを知り、アクセスしてみた。Makoto Saito Faculty of Economics Hititsubashi University

そこで知ったのだが、著者はこの本(2011年10月刊)で第33回湛山賞を受賞された。石橋湛山記念財団のホームページには、以下のような説明が記されている。
”2011年3月11日の東日本大震災によって発生した東京電力福島第一原子力発電所の大事故を対象に、その原因と対応過程、今後へ向けての展望等を、経済学をベースにした社会科学者として調査・分析・評価したものです。どのように「古い原発から撤退し」「残る放射性廃棄物を処理し」「創造的な事業再生につなげるか」を、原発技術と経済学の知見によって丁寧に、かつ綿密・厳格・冷静に考察した貴重な問題提起の書です。”

 結論から述べると、著者は条件付きでの原子力発電事業継続容認の立場である。この条件部分はかなり厳しい提示である。現状から推測すると、結果的には段階的に原発を廃止するという立論になっていると受け止めた。

 本書は、原発に使用する「水」と原発から排出される「放射性廃棄物の処理」という2点に大きく着眼している。本書の副題が「社会科学者として考えたこと」とあるように、経済学者の視点で自らの調査と思考・分析の結果を精緻に論じられている。経済学的観点から分析する前提として、原発のオペレーションの発電設備の技術・構造分析、原子力発電プロセスの物理現象などを詳細にまず考察されている。このあたりの論理の基盤はベースを考える材料として役立った。原子力関連の専門家ではない著者が、物理学や原子力技術論の分野を語っているので、一般読者には比較的読みやすい分析及び解説になっていると感じた。その基盤の上で、収益事業としての運営を経済学的視点で論じている。

 本書の構成と内容をご紹介しつつ、いくつかの章には読後印象を付記する。

第1章 水、水、水
 まず水が如何に原発の稼働を制するボトルネックになるかを分析している。運転するのにも、停止するのにも、炉心溶融を食い止めるのにも「水」の確保・供給が如何に重要かを総合的に眺めている。この章で一次冷却水として海から取水される「水」が継続稼働のボトルネックになる重大性を再認識した。
 一次冷却系の加圧された循環水(閉じられたシステム)は、1~3号炉を正常運転で冷却するのに、3基合計で毎時20,930トンの水を必要とする。この循環水を冷却するために海から大量の海水を取り込んで循環させる(開かれたシステム)。それで「毎時100万キロワットの出力の原子炉1基あたりでは、毎秒20トン、毎時7万トン、毎日170万トン程度の海水を要する」(p14)。毎秒20トンというのは東京都を流れる荒川や多摩川の水量に相当するそうだ。荒川、多摩川を具体的に知らないので私はイメージしにくいが、一つの大きな川の水を原子炉1基に注ぎ込まねばならないとは、凄まじいかぎりだ。3基合計の出力は毎時202.8万キロワット。単純に考えて、ざっと毎日海水340万余トンの取水機能が働かないと正常稼働できないのだ! 
 つまり、取水のためのタービン発電機と復水器の入っているタービン建屋、ここが機能しなくなれば本体原子炉が無傷でもアウトになる。そこに対する対策が杜撰だったことは明らかだ。
 著者は、停止と炉心溶融食い止めの水についても緻密に分析していく。
 「水」が決め手になる点を総合的に論じているので思考の整理ができ有益だった。

第2章 炉心溶融は防ぐことができたか
 この章で著者は「本質的には、東電経営者が断固とした姿勢で問題解決に向けた強い意思を表明しなかったことこそが問題なのであろう」と真因を抉り出している。そして、廃炉前提の海水注入を躊躇させた背景に、政府が原子炉の耐用年数を40年から60年に延長することを容認したことの重大性を指摘する。40年想定だったのが、最大20年延長されたことで、老朽化した原子炉が「働き盛りの原子炉」(p33)へ変身した。廃炉の予定が利益を生む宝箱に変身するのだから、「本来であれば、東電経営サイドは、危機前にも廃炉を検討しておくべき原子炉だったにもかかわらず、危機に及んでも廃炉を躊躇するような不自然な経営環境が背景にあった」(p33)のだ。儲けをみすみす手放したくない・・・そんなところか。廃炉延長を働きかけたのも電力会社とその周辺関連産業界だったのだろう。そんな悪循環を感じる。
 著者は本書発刊以前の情報範囲で地震直後からの原子炉の時系列経緯と炉心溶融を食い止める措置、意思決定がどの段階で可能だったかを克明に分析する。
 「おわりに」の中で、著者はこうも述べている。
「今般の原発危機においては、原発危機が進行するぎりぎりのところで必死で戦った経営の姿、原発危機に前もって備えるプロセスにおいて厳しい自然環境に果敢で慎重に挑んできた経営の姿が、少なくとも外側の人間に見えてこなかったことこそが、原発危機の背景に対する、どうしょうもない不信を招いてしまった根本の理由ではないであろうか」(p278)と。

第3章 原発の”古さ”とは
 著者は、冒頭に東京駅の14~19番ホームに、今時点で1964年10月開業当時の0系新幹線がずらっと6本並んでいる風景を喩えに出している。現在稼働の新幹線までの技術革新をイメージさせるためだ。福島第一原発は1970年代に運転開始、その建設までの期間を考慮すると、新幹線開業よりも古い時点の技術の基盤が、そのままいまも現役稼働しているということだ。
 著者は、「福島第一原発の”古さ”を、今般の原発危機のキーワードに挙げている。原発反対派・高木仁三郎と推進派・柴田俊一の両著作を手がかりにして、「原発技術が完全でない」という根本的なところで両者の見解が一致することを重要視する。両者の考えを検討しながら、「たとえ、当初は40年間のつもりで建造したとしても、運転期間は、それよりも短くするのが、妥当な判断ではないか。少なくとも、40年間の運転期間を60年間に延長するなどということは、暴挙に等しいかもしれない」と結論づけている。
 
第4章 「大津波→電源喪失→炉心溶融」だけなのか-隠れた地震災害
 著者は「大津波→電源喪失→炉心溶融」という特定の因果関係による説明に当初から疑念をいだいていたと述べる。そして、被災地・石巻を訪ねて歩いた見聞を踏まえ、建造物の固有周期と地盤の卓越周期が共振現象を生じることについて論及している。そして原発危機の教訓を「大津津波→電源喪失」と矮小化する危険性を指摘する。大津波の呪縛からまず開放されるべきなのだと。
 2006年9月に「発電用原子炉施設に関する耐震設計審査指針」が25年振りに見直され、「地震随伴事象に対する考慮」として、津波到来のシナリオが既にあったことに着目する。だが、貞観地震の研究が活かされず、大津波が大地震に随伴する現象という範囲でしか取り扱われない可能性を指摘する。福島沿岸の地震リスクが非常に低く見積もられていたという事実である。また、原子力安全基盤機構が津波による原発事故のシナリオ分析結果の精緻な報告書を2010年11月に公表していたという。そこから、経済学者として、津波リスクに対する東電投資家の投資リスク意識に対する怠慢という側面をも論じている。「覚悟も準備もできていない経営者に対して”ノー”を突き付ける役割は投資家にこそある」という。
 地震という要因の重大性を指摘している点は合理的であり納得がいく。

第5章 どのように”古い原発”から撤退するのか
 この章あたりから、経済学者の視点がさらに鮮明に出てきていると思う。つまり、廃炉の費用を具体的に諸資料から概算している。著者は電力会社によって、運転が開始されてから40年後には、解体撤去費用がほぼ積み立てられていると指摘する。通常の稼働を続けてきていれば、この時点で撤去できる準備はできているのだ。
 また、高レベル放射性廃棄物と低レベル放射性廃棄物の峻別、原発解体後の施設の利用、廃炉の順序については、古い順と地震リスクの大きい順の2つについてその長短を論じている。

第6章 ”放射性廃棄物の処理”とは一体全体何なのか
 「使用済み核燃料」についての一般的説明から著者は問い直し、基本的な視点を整理し、その考え方について検討している。使用済み核燃料について、簡略にその実態を知ることができて参考になる。そして、純粋に経済学的に見た場合(p180~181)、地層処分という考え方に問題ありと警鐘を発している。この点には同意する。
 ウェブ事典ATOMICA(『原子力百科事典』)の「高レベル放射性廃棄物処分に向けての基本的な考え方」の項の脚注4に地層処分の定義が記されているとして、著者は引用する。「放射性廃棄物を地下数百メートル以深の安定な地層中に建設される処分施設に、再び地表に取り出す意図なしに、永久に収納し、人間による管理から外した状態におくことをいう」。著者はこれを読み驚いたと記す。「人間が永遠の利用を意図して施設を作っておいて、その施設の管理を放棄するということがありえるだろうか。」(p180)この見方に同感だ。こういう発想をする原子力ムラの人々は何と傲慢なのだろうか。

第7章 原発と投資家の責任 -東電の創造的な事業再生のために
 著者はここで経済学者として、東電のバランスシート(貸借対照表)の資産と負債をマクロの視点からとらえる。そして、債務超過状態に陥りつつある実態を分析している。東電の2010年度決算について、2011年6月28日付けで担当の新日本監査法人が「すべての重要な点において適正に表示しているものと認める」と報告したが、追記情報の付記により、事実上の留保を置き、それを詳述していることに対して、解説を加えている。
 そして、民間電力会社が軽水炉発電事業を収益事業として運営できる条件を考察する。著者の設定した条件は次のものだ。その論拠は本章をお読みいただきたい。
 1)使用済み核燃料について、原発施設内や使用済み核燃料貯蔵施設内での長期間貯蔵
 2)使用済み核燃料の再処理と高速増殖炉からの撤退
 3)軽水炉による発電規模は老朽原発のリプレイス割合、施設内の使用済み核燃料の貯蔵余力を見定めて慎重に決定
 著者は、「東電という民間会社の事業活動に起因する損害賠償を、税金を原資とする公的資金でまかなうのは適切でない」と原則論を堅持する。一方、「国家が責任を持って引き受けるべきことは、福島第一原発施設を適切に跡片付けして、何らかの形であの施設を再生すること、いわば、フクシマ再生プロジェクトを実施することではないか」と論じている。著者は、時間も金も東電の力量範囲を超えること、投げ出せない大切なプロジェクトを当事者能力のない主体に委ねることは無責任な意思決定だということを理由とする。福島第一原発施設の後片付けと再生を著者がフクシマ再生プロジェクトと呼ぶことに、私は釈然としない思いが残る。力量範囲を超えるからということなら、その状態でなぜ切り離した上で、民間会社として東電の存続を図らねばならないのか。その理由がわからない。また、「フクシマ再生プロジェクト」という概念の対象範囲をそこに置くだけでよいのだろうかという疑問が残る。跡片付けを抜きにできない事実は納得するが。
 「おわりに」の中で、著者はこうも言う。
「既存の会社更生法の枠組みでいくのか、新たな法的スキームで進めるのかについては議論の余地があるが、現在、債務超過近傍にある東電は、まずは株主に負担を強いたうえで、次に必要に応じて債権者の負担で事業再生を進めるべきであろう。そうした体制での東電の事業再生では、東電投資家の自主的な判断として、送電や配電の分離が起きるかもしれない。」(p276)
 
第8章 収益プロジェクトとしての軽水炉発電事業
 著者は「再処理・高速増殖炉事業に採算性がまったくないことは、火を見るよりも明らかなところがある」という断定から説き始める。この点は過去の経緯を見ると当然だと納得する。
 そして、使用済み核燃料の再処理費用を組み入れると、「原発による発電コストは、火力による発電コストに比べてとび抜けて安いわけではないが、特段高いというわけでもないという、非常に平凡な結論に落ち着く」ということを電気事業連合会のコスト試算を使って説明する。さらに、大島堅一氏のコスト試算の研究を紹介し、「揚水発電を考慮すれば、原子力は火力に比べると若干パフォーマンスが劣ると受け止めればよいのではなかろうか」と解釈する。
 その上で、「再処理費用の水準いかんでは、原発の経済性が完全に失われてしまう」(p225)と結論づけている。だが、現行の発電事業形態を前提とした費用分析だけで原発廃止を決めることには異論を述べている。「ある形態の原発事業は費用面で劣っているが、他の形態の原発事業は費用面で優れている可能性は十分に考えることができるであろう」と留保する。

 前章で著者のいうフクシマ再生プロジェクトを政府が責任を持って実施する前提で、軽水炉発電事業が収益プロジェクトになるための条件を挙げ、この選択肢の適切性を分析している。その条件とは、
(1)軽水炉発電事業は維持する。
(2)再処理・高速増殖炉事業からは撤退する。
(3)使用済み核燃料は地上で長期貯蔵する。  である。
この条件(1)は、前述のとおり40年以内の計画的廃炉や、軽水炉の技術状態を最先端のところに保っておく必要性がその前提にある。
その結果、「使用済み核燃料を地上で貯蔵する能力に限界が来れば、その時点で原発を停止せざるをえない」というのが著者の行き着いた結論だと理解した。

第9章 市民社会が原発を受け入れるとは
 ここには、時間的に整合性のない意思決定の例示や行動経済学のプロスペクト理論を応用した分析もある。「市民がどのように原発リスクに向き合うべきなのか、市民社会が原発を受け入れるとはどういうことなのか」を論じている。示唆深い見解・意見だと感じたところをいくつか引用して、ご紹介しておこう。
*今、政治家たちが聞くべきは、・・・・「極限状態において人間の構築した構造物がいかに脆いのか」をあらためて知るべきだと思う。  p239
*最悪のシナリオを想像できる政治家であれば、「私たちはみなさんがこの場所に戻れるように最善を尽くします。ただ、万が一に備えて、お位牌だけは大切に持ち出してください」というのが精一杯でなかったか。・・・最悪のケースを思い浮かべて初めて、人間の言葉は、とてつもない重みを持つのだと思う。  p240
*ICRPの基準が被曝状況によって左右されるのは、「状況に応じて達成可能な範囲の中で最少の被曝量を目指す」ことを基本原則としているからである。 p245 
 → as low as reasonably achiebable ALARA(アララ)の原則と呼ばれる
*「○○までの汚染度合いであれば、摂取しても直ちに健康に影響を与えない、しかし、xx程度のリスクは依然として残る」と、それこそプロフェショナルな知見に基づいて判断するのが、専門家の役割ではないだろうか。  p253
*人々が絶望するのは、人から「大丈夫だ」といわれていたのに、大丈夫でなくなった瞬間ではないか。一方、人々がどんな状況にあっても絶望しないのは、あらゆる可能性を受け止めて自らで意思決定をしているときであろう。  p256
*原発を導入する際には、「原発はきわめて安全である、放射能洩れのような事故は起きない」ということで社会的なコンセンサスが形成されていたのに、いざ、事故が起きると、「どれほど深刻な事故が起きても、死者数も発癌者数もわずかである」といえば、原発の受け入れに関わってきた人々は、・・・・「事前の安全評価」と「事後の安全評価」にとんでもない食い違いを生じさせている原発導入の合意手続きに対して複雑な思いを感じているのである。  p257-258
*われわれの社会が、強引な形であったにしろ、いったん原発を受け入れてしまったからには、どこかで折り合いをつけながら、原発とある程度のところで共存していくしか道は残されていない。  p259
*子供たちに対する低放射線量被曝リスクについて、科学的な知見は十分に蓄積されていないというのがフェアーな評価といえないであろうか。・・・・
 もちろん、低放射線量被曝リスクだけを見つめてしまうと、「子供たちのために、何が何でもリスクを取り除いてあげたい」と思ってしまうのは、人間として、親として、非常に自然な感情であると思う。  p263
 → これは、ドイツにおけるKikk研究の分析結果とそれに対する批判を採りあげての著者見解である。(著者はチェルノブイリ事故以降における小児癌についてはどのように見ているのだろうか。低線量被曝とは別範疇として切り離しているのか、どうなのだろう。言及はない。)
*あるリスクを削減する措置の費用対効果が、他のリスクを削減する措置の費用対効果に比べて著しく劣っていないか・・・の価値判断については、妥当性を欠く政策決定の影響がもっと深刻である。 p264
*われわれ大人たちは、今、子供たちが低量の放射線に被曝するリスクに対して神経を尖らせているようには、子供たちが直面している数多くのリスクに対して常日頃から関心を払ってこなかったのではないだろうか。仮に、私たちは、子供たちが直面している数多くのリスクに対して常に注意を払っていれば、低放射線量被曝リスクに対しても、さまざまなリスクとの兼ね合いを加味しながら、ある節度を持って臨めたと思う。 p265
 → 見解はなるほどと思う。だが、一方、「ある節度」とは具体的にどんなレベルなのか? 著者のイメージするところがわかりづらい。個人の自由意思による価値判断、心情論に帰するということなのか・・・・
*「原発の危機的な状況が前もって考えも及ばない『想定外』の出来事である」ところに最初に逃げようとしたのは、東電であり、政府であった。しかし、東電や政府が「想定外」の出来事について一切考えが及ばなかったというのは、正確な記述ではないであろう。正確にいうと、「想定外」の出来事が起きたときにどうするかについて、考えていなかった。言い換えると、東電や政府は、「想定外」について思考停止に陥っていた。 p269

おわりに-ナショナル・プロジェクトとしてのフクシマ
 各章の構成のところで、一部引用しているが、著者の思考・分析プロセスを抜きにすると、この「おわりに」に著者見解のエッセンスがまとめられていると言える。著者の結論だけまず知りたいということなら、ここを読むとよい。

 最後に、本書でおもしろいと思ったのは、各章に「補遺」が掲載されている点だ。著者自身か関連内容として事前に自分のホームページに公表していた文章や特定の事実内容を載せている。著者の個人的心情も吐露されており、それが本文を補完するものとなっていて興味深い。

ご一読、ありがとうございます。

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 本書関連語句・項目のいくつかをネット検索してみた。その一覧をまとめておきたい。

石橋湛山賞 第33回受賞:齊藤誠氏  :「財団法人 石橋湛山記念財団」

高木仁三郎 :ウィキペディア
原子力情報資料室のHP
 高木仁三郎の部屋
高木仁三郎 原発事故はなぜくりかえすのか :「正岡正剛の千夜千冊番外編」
臨界事故と近畿大学原子炉 原子力研究所 所長 柴田俊一:「近畿大学大学新聞」

東京電力の有価証券報告書
 第87期 (期間:2010.4.1~2011.3.31)
 167-168/168ページに、本書のp198~201に引用され説明の加えられた原文が載っている。
 第88期 (期間:2011.4.1~2012.3.31)
 156-157/157ページに、同様に監査法人がその見解に対して、強調事項を追記している。法律の成立にあわせて、各種申請手続き面での問題点記載に文面が修正されるなど、微妙に文面修正がなされている。
 四半期報告書(第89期第Ⅰ四半期)(期間:2012.4.1~6.30)
 46/46ページに、同様に監査法人がその見解に対して強調事項を追記している。賠償見積額が一部明記されている。状況変化に合わせた文面修正がなされている。

地層処分 → 使用済み燃料の処理・処分  :「原子力教育を考える会」
地層処分 :「ATOMICA(原子力百科事典)」
 地層処分の基本概念図 
 
プロスペクト理論 :ウィキペディア

原子力発電所周辺で小児白血病が高率で発症―ドイツ・連邦放射線防護庁の疫学調査報告 :「原子力資料情報室(CNIC)」 
KiKK研究評価に関するBONN会議(26.Feb.2009) 松原純子氏
南ドイツ新聞 原発周辺のガンの危険性 :「市民エネルギー研究所」
ドイツ原発周辺での小児白血病頻発は原発由来の放射線被ばくでは説明できないと発表された :「ドイツ語好きの化学者のメモ」

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今までに以下の原発事故関連書籍の読後印象を掲載しています。
読んでいただけると、うれしいです。

『「想定外」の罠 大震災と原発』 柳田邦男
『私が愛した東京電力』 蓮池 透 
『電力危機』  山田興一・田中加奈子
『全国原発危険地帯マップ』 武田邦彦
『放射能汚染の現実を超えて』 小出裕章
『裸のフクシマ 原発30km圏内で暮らす』 たくきよしみつ
2011年8月~2012年7月 読書記録索引 -1  原発事故関連書籍