題名そのままであるが、この本は2部構成となっている。
第一部 日本人と大津波
第二部 原発街道を往く
第一部と第二部第一章は基本的に著者によるルポルタージュだ。胸を開く大手術をし、「短期間で退院できたが、体調はまだ万全とはいえなかった」状態のなかで、著者をして「何とか気力をふりしぼって現地に出かける気」にさせた要因がある。
著者は言う:
「事実をして語らしめるのではなく、言葉を空疎に操るだけの・・・テレビ向きの評論家」
「地震直後の関係者の誠実のかけらもない態度」
「地震発生以来、延々と放映されるテレビのまるで他人事のドキュメント映画を映写するような津波映像」
「新聞の紋切り型の美談報道」
こういうスタンスに重みも深みもないと感じ、うんざりしたことが「現地取材に行く心の針を動かした」のだと。
ノンフィクション作家としての著者の持論は「何の先入観ももたない精神の中にこそ、小説でも書けない物語が向こうから飛び込んできてくれる」のだという。「行く前は何の構想もあったわけではなかった」とか。
第一部について、著者は事前に緊急車両の登録をしておき、スタッフ記者と担当編集者の三人で、現地チャーターのタクシーで取材活動を実施している。
3月18日に庄内空港に飛び鶴岡市内のホテル泊。翌日から取材活動が始まる。
[19日]鶴岡-南三陸町-志津川病院-気仙沼-陸前高田-広田地区-盛岡泊
[20日]盛岡-大船渡-宮古市・田老地区-盛岡泊
[21日]盛岡 [22日]東京に戻る
第一部は実質53ページのルポルタージュである。現地取材では多分様々な人々に取材がなされただろうが、このルポルタージュとして著者は4人の人物を軸としながら津波と人間の関わりを描き出した。その内二人は著者のかつての知り合いでもあり、被災者の人物像とその体験により過去と現在を重層的に描き出していて、その語り口に厚みを加わえていると感じる。
志津川病院の正面玄関で偶然出会った55歳の男性の話。
かつて新宿のゴールデン街でおかまバーの名物ママだった人物の消息を探し当てて聞く津波体験談。この消息探しで、著者は偶然が重なって本人に辿り着き、「今野栄久夫」という本名を初めて知ったと記している。こんな偶然の重なりがあるなんて不思議な縁だ。
”定置網の帝王”の異名をとる宮古の有名人・山根正治氏の話
日本共産党元文化部長・山下文男氏の語る津波。山下氏はわが国津波研究の第一人者でもあるとか。
全く生き方の異なる人々がそれぞれ津波に遭遇した瞬間の生の言葉を引き出し、その体験と著者が現地を観察して受け止めた事実を織り込んでいく。様々な人々の多数の体験談を綴ったものより、人数が絞られ多彩な顔ぶれ故に逆に体験談の広がりと奥行きが生み出されていると私は感じる。たとえば山下氏は語る。「田老の防潮堤は何の役にも立たなかった。それが今回の災害の最大の教訓だ。ハードには限界がある。ソフト面で一番大切なのは教育です」「日本人が反省しなきゃならないのは、マスコミの報道姿勢だ。家族のことが心配で逃げ遅れて屍体であがった人のことを、みんな美談仕立てで書いている。これじゃ何百年経っても津波対策なんかできっこない」
ここに、「事実に語らしめ」た著者の結果としての構成があるのだろう。
著者は言う。「頭でこねあげた賢しらな理窟を幾ら並べ立ててみても、この大災害の真実は伝わらない」「今回の大災害は、これまで通用してきたほとんどの言説を無力化させた。それだけではない。そうした言葉を弄して世の中を煽ったり誑かしたりしてきた連中の本性を暴露させた」と。
第二部第一章は62ページのルポだ。その取材は、立ち入り禁止ラインを突破して入った4月25日から始まっている。第一章は現地取材活動の移動も、ルポとしてテーマごとにまとめる形で再構成しているようだ。現地取材の範囲として眺めると次のルートが走破されたと理解する。
郡山-「ビッグパレットふくしま」-広野町-楢葉町-楢葉町役場-常磐線夜の森駅-富岡町-大熊町-双葉町-双葉駅-浪江-いわき市-南相馬市
それと、郡山ー宇都宮線・東武伊勢崎線-加須-旧県立騎西高校(双葉町住民の避難所)
著者は逮捕されることを覚悟で立ち入り禁止区域に入った。それはなぜか?
「原発事故に対する大メディアの報道に強い不信感をもったからである。新聞もテレビもお上のいうことをよく聞き、立ち入り禁止区域がいまどうなっているかを伝える報道機関は皆無だった。彼らは事実を伝える代わりに、学者や評論家のもっともらしい言説を載せて、言論機関としての体面を保とうとしている。三陸大津波と原発事故は、そうした欺瞞を洗いざらい見せつけたことを、彼らはまだ気がつかないのか、気がつかないふりをしている」「現地を見ずにこの原発事故を語る連中のいいかげんさ」「携帯する放射線測定器のピー、ピーという音を英雄気取りで伝えるフリージャーナリストたちのつんのめった報道姿勢に疑問を持った」
そして、「住民が立ち去った原発の街を歩き、それを等身大に伝えてみたいという気持ち」になったのだという。
テレビの報道ニュースでは、インタビュアーが目的・意図を持って質問し、それに対する答えだけが報道されている。この第二部第一章では、様々な人からその思いを引き出し、語らせた内容が小テーマごとにまとめられている。主体は答える人々にある。そこには、生の叫び、嘆き、やるせなさが表出されている。「等身大」で伝えるという意図は成功していると感じる次第だ。
富岡町の住民(女性)、3.11に働いていた原発作業員、天主閣を彷彿とさせる大豪邸の主・高木氏の言、禁止区域に立ち入る牧場主・村田氏の怒り、現在も福島第一原発で働く労働者の話、大規模養鶏場・平本氏の嘆き、ホウレンソウ農家・林氏の体験談、が取りあげられている。
著者は原発労働者の話を聞き、「定職をもたず、日本各地をさまよって、その日暮らしをする彼の話は、堀江邦夫が書いた『原発ジプシー』そのものだった」と記す。
著者の問いかけに、答えた被災住民の口からほとばしり出た言葉のいくつかを一部抽出引用してみよう。
*瀕死の状態の牛を安楽死させるっちゅうのは、しかたがない。でも元気な牛を殺す資格は誰にもねえ。平気で命を見捨てる。それは同じ生き物として恥ずかしくねえか。
*ここへ来て、悲しそうな牛の目を見てみろ。
*正直、早くミイラになってほしいよ。ニワトリには本当に申しわけねぇ・・・。
*大熊はいいところだよ。オレは釣りが好きで、黒鯛やあいなめのでかいのを原発の近くでよく釣っただよ。気候も温暖で住みやすいし、大熊を離れるのはつらいよ。オレも63歳でもう一度やれるかどうかわかんねえけど、大熊を離れなきゃ、次のステップ踏めねえしな。つらいところだよ。
*ここらの農家はどこも貧しいから、みんな原発工事に出たさ。(付記:昭和40年代の話)・・・原発ができる前は、遠くに出稼ぎに出ねばなんなかったからな。・・・・原発にはいろんな関連工場もあるからな。だからどの家も、原発に関係ないなんて人はいないな。誰か一人は行っていたな。
原発労働者との対話を通して、著者の透徹した目は「恐るべき知的怠慢の広がり」を見ている。
「私たちは原発建設に反対しなかったから、原発事故という手痛い仕返しをされたわけではない。原発労働者をシーベルトという被曝量単位でしか言語化できなかった知的頽廃に仕返しされたのである」と。
著者はこういうことも書き込んでいる。
浪江農場の敷地内に福島県警の通信部隊が通信機材をセットし、作業を終了。撤収命令で引き上げる時に、言ったという証言である。
「『今回の原発事故は重大で深刻だから、国は隠す。私らも撤収して帰れって命令が来たから、帰りますが、ここにはいない方がいいですよ』と言って、帰っちゃったわけ」
あとがきの13ページを除くと本文実質226ページのうち、第二部第二章と第三章で106ページ、ほぼ半分を費やしている。この後半は、一言でいうなら、福島に原発が建設された歴史的背景の解明だ。
第二章 原発前夜--原子力の父・正力松太郎
第三章 なぜ「フクシマ」に原発は建設されたか
著者は原発を技術論の側面から論じていない。原子力が「平和利用」という喧伝で導入された歴史的背景、その導入の原動力となった人物の大義・欲望とその戦略・策略を描きだす。そしてその原子力導入の延長線上に福島原発に繋がっていく。そこでは政治的側面、複雑な利権を伴う人的繋がり・人間関係の側面が軸になっている。なぜ「フクシマ」なのかが解き明かされる。
「福島県のチベット」と呼ばれた福島の寒村、不毛地帯・長者原に戦前は陸軍の飛行場が作られたという。戦後数年してから、衆議院議員などを歴任した堤康次郎氏が飛行場跡地を3万円で買収し、塩田事業がしばらく営まれる。そして原発の誘致が決まり、その土地は3億円で東電に売却(1964年11月)されたという証言を著者は記している。
様々な文献資料とそれを裏付ける証言を聴取し、原発建設までの展開プロセスをクリアにしている。福島の原発建設までの経緯をこれほど克明に追跡したものを私は今まで読んだことが無かった。
著者は過去に正力の評伝『巨怪伝』を書いている。未読なのであくまで推測だが、その評伝の人物像をシフトさせ、原子力と正力の関わりの局面を詳細にクローズアップし、第二章・前史として置いたのだろう。その導入がなければ、フクシマにつながったかどうか・・・
著者は「好き嫌いは別にして、正力はCIAに唯々諾々と操縦されるような”小物”ではない。正力ほどの怪物だったら、CIAの言うことを聞くふりをして、彼らの首根っこを押さえこみ自分のいいように使いこなしたはずである」という見方をしている。また、
「正力は大衆が望むものしか興味がなかった。プロ野球もテレビも、そして原子力も大衆が望んだからこそ、この天才的プロモーターは力ずくで日本に導入して、根づかせた。」と記している。
「そして原子力も大衆が望んだから」と断定できるのだろうか?大衆はその巧妙な喧伝に惑わされ、情報操作に操られ、あるいは無関心であったということではないのか。
総理大臣になる野望を抱いていたらしい正力氏は、真にCIAを手玉にとった人物だったのか。このあたり、疑問を抱く。
野球・テレビと原発は次元が違うように思うのだが・・・・・また、国民の一部の集団をも「大衆」と呼ぶならば、その「大衆」が望む形に導かれて結果的に望んだというのは現実的にあっただろうと思う。だがその場合、その集団をこの文脈の「大衆」というには抵抗感が残る。
「福島第一原発が今回引き起こした重大事故は、私たちがそうした巨大な正力の掌から脱することができるかどうかの試金石となっている」という著者の指摘は、そのとおりだ
著者は第一部の終わり近くで記している。
「3.11以降、日本は変わった。いや変わらなければならない。」
「この未曾有の大災害は、目の前で起きた悪夢のような出来事に『言葉を失う』体験をした人びとの身の上を思いやる想像力の有無を・・・・すべての日本人に問うている」
一方、第二部の末尾で冷徹な言葉を述べている。
「原発論議はどうしても、最後には人間の欲望という本質的な領域に入り込んでいってしまう」と。
この一言こそ、まさにすべての日本人、「大衆」一人一人に向かって投げかけられた重い言葉である。
ネット検索をするとウィキペデイアを筆頭に、津波に関連した情報がいろいろ入手できる。佐野氏のこの第一部と併せて読むと参考になる。
津波てんでんこ
明治三陸地震津波の浸水範囲(釜石港救援情報図) 釜石海上保安部
失敗知識データベースより: 明治三陸大津波
東北地方太平洋沖地震の概要 気象庁 平成23年5月28日
東北地方太平洋沖地震を教訓とした地震・津波対策に関する専門調査会資料
気象庁のウェブサイトより
津波発生と伝播のしくみ
津波を予測するしくみ
稲むらの火
政府インターネットテレビのウェブサイトより
津波の怖さ 知ってますか?
最後に、著者は現在のマスコミの報道、専門家の発言に各所で批判的な意見を記している。その一つに、「正力は『ポダム』というコードネームでCIAに操縦されていた。・・・・私に言わせれば、『So what?(それがどうした)』である」という一節がある。
誰の著書を対象としたのか言明していない。しかし、はっきりと「ポダム」が記載されている本がある。2008年2月に出版された有馬哲夫著『原発・正力・CIA 機密文書で読む昭和裏面史』(新潮新書)だ。ひょっとしたら、この本のことかもしれない。
遅ればせながら、原発事故関連の情報・資料を読んでいてこの本を知り、5月に読んだ。機密文書や関連書籍を克明に検証・分析し、正力氏の野望とその策謀を跡づけている。「昭和の傑物」を捉え直す上で、役立つ本であることは間違いないと思っている。
付記
本好きにとって誤植はやはり気になる。最近の出版物では時々目にするようになった。校正能力が落ちてきているのだろうか。
この本でも1つ見つけてしまった。
P241 誰ひとり沖縄の「お」に字も、普天間の「ふ」の字も・・・・
前の方の「に」は「の」であろう。校正としては初歩の初歩と思うが。