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終戦記念日

2011-08-14 08:17:18 | 日記

             

   66年前 其の日の甲府盆地は朝から強い日差しの快晴、気温も朝からウナギ登りに上昇、昼頃には今で云う猛暑日になっていたのではないか、兎に角うだるような暑さを記憶している。
 甲府市から3里ばかり東へ寄った日川村で、盆地の擂鉢の底の様な所で暑さも倍増の土地。

  当日 7時と記憶するが報道(ニュース)の時間 放送員(ニュースやアナウンサーは敵国語で使用禁止)が 「本日正午 賢あたり(当時は陛下の事を”かしこきあたり”と表現した)から重大放送があるので、聞き漏らさぬように」 と再三放送があった、其の放送を聞いた父親は、沖縄は占領され、新型爆弾を 広島 長崎に投下され、本土決戦を覚悟していたので、国民総決起を促す陛下の「玉音放送」と受け止め、「いよいよ本土決戦か」と漏らしていた、日本が負けるなんて想像もしていなかったと思う。

 12時ラジオの前に家族全員そろった、長男は中支(当時中国の国名は支那と云い、其の中部地方)へ出兵し、二男は軍属に徴用され輸送船 「白山丸に乗船」 していた、3兄は東京の学校へ在籍していて、ラジオの前には両親 小生と妹4人だった。

 「玉音放送」は難しくて、中学1年の小生には理解できなかったが、その中に「耐えがたきを耐え、忍びがたきを忍び」と云う言葉があり、子供心にもあれっと思うところがあった、放送が終わった後、父親が「戦争は終わった、日本は負けた」とポツリ一言、悲しい様などこかほっとしたような表情だった、本心は長男が中支から、二男も軍属が解けて無事に帰って来ることに期待したと思う。
  「今夜からは枕元に防空頭巾とゲートルを置かなくても済むし、灯火管制もなくなり明るい電灯の下で暮らせる」と云い、戦争に負けた悔しさも大きかったであろうが、戦争の重圧から解放された安堵感の方が大きかったかとも思う。

 それまで甲府盆地へ (甲府市は7月7日空襲を受け灰燼と帰していた) 時々艦載機が飛来しては、列車や集会所へ機銃掃射を浴びせたり、農作業の人に銃撃を加えたりしていて、我々子供も田んぼの一本道(機銃掃射の良い標的)をのんびり歩いているわけにはいかなかったが、安心して歩けるようになった、何にもまして勉強時間より多い勤労動員が (航空燃料を作るために、松の根を掘って松根油にした、樹齢数十年の松の根を鍬で堀起こすことは、とてつもない重労働だった) なくなったことは、大いに救われた。

  この終戦の日の5ヶ月前は東京都文京区(当時は本郷区)に住んでいて、あの3月9日深更から10日未明にかけてB29 300機超の「首都絨毯爆撃」に遭い、火の海に囲まれ九死に一生を得た、「此の侭では一家皆殺しに遭う」 と父親が郷里へ疎開を決断して、四月に入り山梨へ一家疎開して終戦を迎えた、疎開した後、4月末に本郷の我が家は空襲で焼失した。

 終戦以後、深刻な食糧難時代に突入する、それと想像を絶するようなインフレに見舞われる、庶民が営々と蓄積した財産が、無に等しいほど価値がなくなってしまった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 


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