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余生を楽しむ

戦争を語るー8

2018-11-21 08:28:18 | 日記
学業より勤労奉仕が多くなった
 
 学童疎開で疎開者が地元の級友に手痛い洗礼を受けたが、級友とも仲良くなり交流が出来楽しく過ごせたが、教室で勉強の機会は少なかった。

 ガソリン不足で軍用車 飛行機燃料が逼迫、松の根っこ(松根油)を堀り精製して燃料にした、(だが燃料としては余り役に立たなかっようだ)土手の補強に植えられた樹齢数十年を経た大木の松の根っこ堀り、小学生の力では大変な労力、それでも頑張って掘った。

 飛行兵が搭乗する時に着る羽毛入りのチョッキ、羽毛が無くなり代替えにススキの穂を入れた、そのススキの穂を取りに、葡萄郷勝沼の先の山へ4里も歩き山へ入ってススキの穂を刈った、往復8里も歩き山でススキの穂を刈ったが遠足気分で楽しかった。

 疎開者いじめをした10数人の級友とも、或る事をきっかけにとても仲良くなった。
 疎開者は食料が乏しいだろうと、松根堀り、ススキの穂採取の時など、お握りを余分に持って来て、おい食えよと分けてくれた、祖父母の家で食料には不足なかったが、余分に作ってきてくれ、分けてくれる心根がとても嬉しかった。

 若い人は兵隊に取られ、一番の働き手が極端に不足していた、全ての産業に老若男女総動員された、 年4回の養蚕 田植え 田の草取り 稲刈り 麦撒き 麦踏み 農家は一年中繁忙、農繁期、養蚕の忙しい時は「農繁休み」が10日くらい有った、疎開者は田畑 養蚕は無いが、祖父の田畑手伝い、空いた日は親類や友の家に手伝い感謝された。

 当時養蚕は大きな産業、「お蚕さん」と言って大切に育てた、だがあの芋虫、初めはとても手で掴む事など気持ち悪くてできなかった、普通2階が蚕室でそこで蚕を育てている、蚕も大きくなって桑の葉を与えると一斉に食べだし、その音は強い雨が降って居る様、ザーという音がする、どうかすると夜中寝ている時、額に蚕が這っている事がある、びっくり思わず手で払いのける、こんなことも農村生活の一端だった、大きな籠を背負って桑の葉摘みも上手になった。

 初め疎開者と地元生徒と反発が有ったが、疎開者も地元に溶け込み仲良くなった。
 地元の生徒と仲良くなり日々楽しく過ごせ、親元を離れている寂しさも癒され疎開生活も楽しかったが、「好事魔多し」昭和20年1月下旬祖母がまさかりで薪を割っていた時、どうした弾みか割った薪が祖母の右手甲に当たり酷く腫れ家事が出来なくなった、隣に住む叔父の家も子供7人の大所帯、面倒見られないから、取り敢えず東京へ帰れと言う事になった

 この後東京本郷区の今は「谷根千」などと人気スポットになっている千駄木の親元へ帰った、やはり両親兄弟と一緒に生活出来るのは嬉しかったが、田舎の学校へ籍を移しているので母校へ通学はできなかった。 

 昭和20年になるとB29の空襲もその度合いを増していた、空襲の激しい真っただ中に疎開から帰った。
 

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