昨日の新聞の投書欄を見ると、72年前の東京大空襲の悲惨さを何人かの人が書いていた、だが年齢70歳代の人が多かった、詳しく知る人は80歳を越えた人でないと、分からないかも知れない、幼い年齢だったから、恐怖心は強かったと思う。
東京大空襲の10日程前、団子坂から谷中に掛けて(今の文京区谷根千)、爆弾投下に見舞われた、我が家から300mも離れていないところ、500㎏爆弾の炸裂音が連続して響く、生きた心地は無かった、直ぐ投下場所へ行って見た、土が大きく抉られ、その土が防空壕を埋めていた、地元民が直ぐ掘り出しに掛かtったが一家3人生き埋めになった、警察 憲兵隊が来てその後は立ち入り禁止、 人間生き埋めの死など最悪だ、あんな死に方をするなら、焼夷弾の直撃 爆弾で一気に吹き飛ばされる方が楽だと思った、その以後防空壕には絶対に入らなかった、小学6年生の決断である。、 その時の日本の高射砲の性能は9,000mが限界だった、その上を行くB29は悠々と飛び去って行く、所沢飛行場には迎撃する戦闘機もなく、特攻機として九州の賀屋基地に行っている、時折り戦闘機が迎撃する、B29の周りに、赤トンボが飛んでいるようだった、でも迎撃するのは頼もしかった。 、1万m高空のB29は15sm位に見え、4つの発動機もはっきり見えた、4つの発動機から発する爆音が編隊を組んで来ると、ブーンと云うかグーンというか、腹に響く爆音だった、 米軍も身の安全を図って1万mの超高空から、編隊を組んで爆弾 焼夷弾を投下していた、3月10日以前にグァム島の司令官が代わり、それまで超高空から無差別攻撃だったのを、低空からランダムに絨毯攻撃に変えた。
ある時快挙が有った、高射砲弾がB29の胴体を直撃した、機体は2つに割れ、主翼部分はくるくる回転して千葉へ?落下、尾翼部分は綺麗な弧を描きながら東京湾に落下、後日引き揚げ日比谷公園に陳列され、後日見に行ったその尾翼の巨大さに圧倒された。
3月10日未明から始まった帝都大空襲は状況が違った、それ迄の高高度からの爆撃ではなく、高度3,000m迄下げ、編隊ではなくランダムに押し寄せてくる、高空で15㎝位に見えたB29は子供が両手を広げた程の大きさ、片側は照明灯の青 片側は火事の赤さで赤く2色に染まり、そこへ曳光弾が赤い光跡を残してB29に吸い込まれる、腹に響く猛烈な爆音、廻りは火の海、死の恐怖が無くなり、敵機と周りの火に美しさを感じた、。
B29から投下された焼夷弾は、高空の時はヒューと空気を切る音だが、地上近くなるとザーと夕立のような音がする、我が家の脇に細い路地が有り、奥に3軒ばかり住宅が有った、その路地に焼夷弾が落下、我が家の3軒ばかり先の蕎麦屋の親父さんが、濡れ筵(むしろ)を持って消しに行った、その途端焼夷弾が炸裂、焼夷弾の蓋が親父さんの太腿に刺さった、「やられたー」の声に父親がその人を広い道路に引き出し蓋を除去して、手拭その他を使って止血に努めた、他に手当の仕様が無い、10数分後に出血多量で死んだ。
その時は周り中火に囲まれていた、何処にも逃げ道はない、お父さん逃げ道が無いよと云った、父母も死を覚悟したのかもしれない、兄 私 妹を両親が囲み輪になって居た、.だが明け方近くなって奇跡が起きた、周りは下火になり、我が町会一帯が焼け残ったのだ、九死に一生の幸運である、あの時焼け残らなければ、今の小生はない。
翌朝 未だ残り火が燃え煙が広がる焼跡を歩いた、電車は骨組みを残し 消防車も焼けていた、コンクリート建物の他は皆焼け、今まで見えなかった町が遠方迄見渡せ何もなくなっていた。、 我が家の近くに何を保管しているのか知らない倉庫が幾つかあった、焼けて見て保管物が分かった、一つは炭の倉庫 一つは紙の倉庫、保管した炭全体火が付き巨大な火の山、、消防車が水を掛けても、水のかかったところは、黒く消えるが、、放水場所を変えればすぐ真っ赤、20m以上離れても熱い、結局手の施しようが無く、3日3晩燃え続けた。 他は紙の倉庫、紙を積み込むとあの猛火でも、周りが2cmほど焦げるだけでほかは無傷、戦時中でもこんな良質紙が有ったのかと思った、大量の全版紙だったが、警察が出向く前に、火事場泥棒が皆持ち去った。
その後父親も此の侭東京に居ては、一家が全滅になると郷里へ疎開を決意した、家具20個まで輸送できるので荷造りして、駒込駅から田舎へ発送した。
4月24日の空襲で我が家も燃えてしまった。
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