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『孟子』巻第九萬章章句上 百二十八節

2018-09-24 10:17:16 | 四書解読
百二十八節

弟子の萬章は尋ねた。
「禹に至って徳が衰え、天子の位を賢者に伝えず、子に伝えるようになった、という人がおりますが、事実でございますか。」
孟子は答えた。
「いや、それはちがう。天下を伝えるのは天意であって、天が賢者に伝えようと思えば、賢者に与えられ、天が子に伝えようと思えば、子に与えられるのだ。昔、舜は禹を天に推薦すること十七年に及んだ。舜が亡くなり、三年の喪が終わると、禹は舜の子に遠慮して陽城に身を隠した。ところが天下の人民たちは、かって堯が亡くなると、堯の子の下へ行かずに舜に従ったように、禹に附き従った。禹は益を天に推薦すること七年に及んだ。禹が亡くなり、三年の喪が終わると、益は禹の子に遠慮して箕山の北に身を隠した。すると天子に朝見する者や訴訟のある者は皆益の所へ行かずに禹の子の啓の所へ行き、『我が君のご子息だ。』と言った。徳を称え歌う者たちも、益を称えずに啓を称えて歌い、『我が君のご子息だ。』と言った。堯の子の丹朱は不肖の子であり、舜の子も亦た不肖の子であった。舜は堯の宰相を、禹は舜の宰相を長年務め、民に長きにわたり恩沢を施した。ところが禹の子の啓は優れた人物であり、慎んで禹の道を受け継ぎ、一方益が禹の宰相として勤めた期間は短く、民に恩沢を施した期間もそれほど長くはなかった。舜・禹・益の三人が宰相を務めた期間はそれぞれ差があったとか、その子供に賢・不賢の差があったとかは、皆天命であり、人がどうこう出来るものではない。つまり人が望まなくても自然とそう為るのが天であり、呼び寄せようと思っていないのに、自然とやってくるのが命である。一介の平民から天子と為る者は、その徳は必ず舜や禹のごとく高く、更に天子がその人物を天に推薦する者である。だから孔子は舜や禹に劣らぬほど徳が高かったにもかかわらず、天子の推薦がなかったから、天下を保つに至らなかったのである。一方天意により世襲を定められると、それは天の意思であるから、天によりその天子が廃止されるのは、必ず桀・紂のような暴虐の天子に限られるのである。だから益・伊尹・周公はあれほどの徳を有しながら天子になれなかったのである。伊尹は殷の湯王の宰相となって湯王を天下の王者とした。湯王が亡くなり、太子の太丁は王位に就かないうちに亡くなったので、弟の外丙を立てたが二年で亡くなり、更に弟の仲壬を立てたが四年で亡くなった。そこで太丁の子供の太甲を立てたが、彼は湯王の常法を守らず勝手な事をしたので、伊尹は彼を湯王の墓地がある桐邑に追放した。追放されて三年、太甲は過ちを悔い改め、己の為した悪事を怨み、自らを責めて、仁に務め、義に志すこと三年にわたり、伊尹の訓戒をよく聴いたので、都の亳に戻り天子の位に復することが出来た。周公が天子の位に就かなかったのは、夏に於いて益が、殷に於いて伊尹が天子にならなかったのと同じである。だから孔子も、『堯・舜が一代限りで賢者に位を譲ったのも、夏・殷・周が代々王位を世襲したのも、天意に従ったもので、その根本は同じである。』と言っておられるのだ。」

萬章問曰、人有言。至於禹而德衰、不傳於賢而傳於子。有諸。孟子曰、否、不然也。天與賢、則與賢。天與子、則與子。昔者舜薦禹於天、十有七年。舜崩、三年之喪畢、禹避舜之子於陽城。天下之民從之、若堯崩之後、不從堯之子而從舜也。禹薦益於天、七年。禹崩、三年之喪畢、益避禹之子於箕山之陰。朝覲訟獄者不之益而之啓。曰、吾君之子也。謳歌者不謳歌益而謳歌啓。曰、吾君之子也。丹朱之不肖、舜之子亦不肖。舜之相堯、禹之相舜也。歷年多、施澤於民久。啓賢、能敬承繼禹之道。益之相禹也、歷年少、施澤於民未久。舜禹益相去久遠。其子之賢不肖、皆天也。之所能為也。莫之為而為者、天也。莫之致而至者、命也。匹夫而有天下者、德必若舜禹、而又有天子薦之者。故仲尼不有天下。繼世以有天下、天之所廢、必若桀紂者也。故益伊尹周公不有天下。伊尹相湯以王於天下。湯崩、太丁未立、外丙二年、仲壬四年。太甲顛覆湯之典刑。伊尹放之於桐三年。太甲悔過、自怨自艾、於桐處仁遷義三年、以聽伊尹之訓己也、復歸于亳。周公之不有天下、猶益之於夏、伊尹之於殷也。孔子曰、唐虞禪、夏后殷周繼、其義一也。

萬章問いて曰く、「人言える有り。『禹に至りて德衰う、賢に傳えずして子に傳う。』諸れ有りや。」孟子曰く、「否、然らざるなり。天、賢に與うれば、則ち賢に與う。天、子に與うれば、則ち子に與う。昔者、舜、禹を天に薦むること、十有七年。舜崩じ、三年の喪畢り、禹、舜の子を陽城に避く。天下の民、之に從うこと、堯が崩ずるの後、堯の子に從わずして、舜に從うが若し。禹、益を天に薦むること、七年。禹崩じ、三年の喪畢り、益、禹の子を箕山の陰に避く。朝覲・訟獄する者、益に之かずして、啓に之く。曰く、『吾が君の子なり。』謳歌する者、益を謳歌せずして、啓を謳歌す。曰く、『吾が君の子なり。』丹朱は之れ不肖なり、舜の子も亦た不肖なり。舜は之れ堯に相たり、禹は之れ舜に相たり。年を歷ること多く、澤を民に施すこと久し。啓賢にして、能く敬みて禹の道を承繼す。益の禹に相たるや、年を歷ること少く、澤を民に施すこと未だ久しからず。舜・禹・益、相去ること久遠に、其の子の賢不肖なる、皆天なり。人の能く為す所に非ざるなり。之を為すこと莫くして為す者は、天なり。之を致すこと莫くして至す者は、命なり。匹夫にして天下を有つ者は、德必ず舜・禹の若くにして、又天子の之を薦むる者有り。故に仲尼は天下を有たず。世を繼ぎて以て天下を有つものにして、天の廢する所は、必ず桀・紂の若き者なり。故に益・伊尹・周公は天下を有たず。伊尹は湯に相として以て天下に王たらしむ。湯崩じ、太丁未だ立たず。外丙は二年、仲壬は四年。太甲は湯の典刑を顛覆す。伊尹、之を桐に放つこと三年なり。太甲過ちを悔い、自ら怨み自ら艾めて、桐に於いて仁に處り義に遷ること三年、以て伊尹の己に訓うるを聽くや、亳に復歸す。周公の天下を有たざるは、猶ほ益の夏に於ける、伊尹の殷に於けるがごときなり。孔子曰く、『唐虞禪り、夏后・殷・周は繼ぐ。其の義は一なり。』」

<語釈>
○「舜禹益相去久遠」、この句の意はよく分からない。中井履軒は、三人の宰相としての年数の差が大きいと言う意味に解釈しており、大体は之を採用しているが、納得しがたい。宰相としての年数は、舜が二十八年、禹が十七年、益が七年である。それぞれの差は約十年であるが、「久遠」という言葉で表すほどの差なのか疑問である。しかし他の解釈を思いつかないので中井説を採用しておく。○「太丁未立,外丙二年,仲壬四年。太甲」、趙注:太丁は湯の太子なり、未だ立たずして薨ず、外丙は立ちて二年、仲壬は立ちて四年、皆太丁の弟なり、太甲は太丁の子なり。○「典刑」、朱注:典刑は常法なり。○「桐」、朱注:桐は湯の墓の在る所なり。○「唐虞」、唐は堯、虞は舜。

<解説>
中井履軒は、前節とこの節とは内容からして一つの節であると主張している。それが正しいかどうかは別にして、関係が深いことは確かである。前節では、天意は民意に基づくものである、と説き、この節では天子になるのは天意と天への推薦という二条件を示している。これにより孔子のようにいかに高徳の人物でも、それだけでは天子になれないことを明確にしている。孟子の天命思想を知るうえで大切な節である。