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『孟子』巻第四公孫丑章句下 四十四節、四十五節、四十六節

2017-03-14 10:26:20 | 四書解読
四十四節

孟子は齊を去った。齊の尹士という者がある人に語った、
「うちの王様が殷の湯王や周の武王のような名君になれないことが分からずに来たのだとすれば、人を見る目がないと言えるだろう。なれないことが分かっていながら来たのならば、それは俸禄を目当てに来たのだ。千里もの遠くからわざわざ王にお目にかかりに来て、意見が合わないからと言ってすぐに立ち去り、それでいて晝の町に三日も滞在している。未練がましく何をぐずぐずしているのだ。私はどうも気に入らない。」
それを聞いた弟子の高子が孟子に告げると、孟子は言った、
「あの尹士にどうして私の心が分かるものか。千里の遠くから王様にお会いするためにやって来たのは、私が望んだからだ。しかし意見が入れられないからと言って去るのは、私が望んでしたのではない。しかたがなかったのだ。晝に三日間も滞在したが、それでも私にとっては短すぎると思うくらいである。それというのも、どうか王様に改心してもらいたい。もし王様が改心されたなら、必ず私を呼び戻すために使者を遣わすだろうと思ったからだ。ところが晝を出発してからも追いかけてはこなかった。そこで私はすっきりと帰国する気持ち になったのだ。だがそうだといっても、私にはどうしても王様を見限ることが出来ない。王様はやはり善をなすに足る人物だ。もし王様が私を用いてくださるなら、齊の民が安らぎ得るだけでなく、天下の民が皆安らかに暮らせるようになるだろう。王様、どうか改心して下さいますように。私は日々それを願っているのだ。私はあの小人物のような振る舞いをどうして出来ようか。仕える君を諫めても、聞き入れられないとすぐに怒り、それを顔にあらわし、去るとなると、日の出から日没まで足の続く限りひたすらに歩いてやっと宿をとる。そんなことは私にはとてもできない事だ。」
尹士はこれを伝え聞いて言った、
「いかにも私は小人物だ。」

孟子去齊。尹士語人曰、不識王之不可以為湯武、則是不明也。識其不可然且至、則是干澤也。千里而見王、不遇故去。三宿而後出晝。是何濡滯也。士則茲不悅。
高子以告。曰、夫尹士惡知予哉。千里而見王、是予所欲也。不遇故去、豈予所欲哉。予不得已也。予三宿而出晝、於予心猶以為速。王庶幾改之。王如改諸、則必反予。夫出晝而王不予追也。予然後浩然有歸志。予雖然、豈舍王哉。王由足用為善。王如用予、則豈徒齊民安。天下之民舉安。王庶幾改之。予日望之。予豈若是小丈夫然哉。諫於其君而不受、則怒、悻悻然見於其面。去則窮日之力而後宿哉。尹士聞之曰、士誠小人也。

孟子、齊を去る。尹士、人に語りて曰く、「王の以て湯・武為る可からざるを識らざれば、則ち是れ不明なり。其の不可なるを識りて然も且つ至らば、則ち是れ澤を干むるなり。千里にして王に見え、遇わざるが故に去る。三宿にして而る後に晝を出づ。是れ何ぞ濡滯なるや。士は則ち茲に悅ばず。」高子以て告ぐ。曰く、「夫の尹士は惡くんぞ予を知らんや。千里にして王に見ゆるは、是れ予が欲する所なり。遇わざるが故に去るは、豈に予が欲する所ならんや。予、已むを得ざるなり。予、三宿して晝を出づるも、予が心に於いては猶ほ以て速かなりと為す。王、庶幾わくは之を改めよ。王如し諸を改めば、則ち必ず予を反さん。夫れ晝を出でて、而も王、予を追わざるなり。予然る後浩然として歸志有り。予然りと雖も、豈に王を舍てんや。王由ほ用て善を為すに足れり。王如し予を用いば、則ち豈に徒に齊の民安きのみならんや。天下の民舉な安からん。王庶幾は之を改めよ。予日々に之を望めり。予豈に是の小丈夫の若く然らんや。其の君を諫めて受けられざれば、則ち怒り、悻悻然として其の面に見れ、去れば則ち日の力を窮めて、而る後に宿せんや。」尹士之を聞きて曰く、「士は誠に小人なり。」

<語釈>
○「干澤」、趙注:尹士は齊人なり、「干」は「求」、「澤」は「禄」なり。○「濡滯」、久しく留まる、ぐずぐずしていること。○「浩然」、広大な貌、中井履軒云う、拘束無き意。○「悻悻然」、怒りの現れる貌。○「窮日之力而後宿」、服部宇之吉氏云う、日出より日没まで、日いっぱい行き得るだけ行きて宿泊する義、去るの速やかなるを云う。

<解説>
孟子は齊を去ることに未練があったのだろう。晝に三日間も滞在したのは、齊王が呼び戻すことを期待していたからである。ただ孟子が齊を去り難かったのは何の故かということだ。孟子の言葉をそのまま信ずれば、この当時諸国の王に比べれば齊の宣王はまだましな方で、王道に基づいた政治が出来るのではと期待していたからである。それは本音であろう。いくら何でも孟子が俸禄目当てに齊に来たとは思えない。多少狭小で狡い所があるとしても、それは信じたい。

四十五節

孟子が齊を去った。弟子の充虞がその道の途中で孟子に尋ねた、
「先生は何か面白くない顔つきをしておられますが、以前、私は先生から、『君子はどんなときでも天を怨んだり人を咎めたりしないものだ。』とお聞きしておりますが。
「昔、殷の湯王や周の武王が出現したあの時はあの時、今は今だ。長い歴史を顧みれば大体五百年ごとに王者が現れ、その間には必ず一世に名だたる名臣が出て、王者を補佐するものだ。今、周王朝が興って以来、七百年余りであり、五百年はとうに過ぎている。その年数から考えても、今こそ王者を助けて王道を説く者が現れてしかるべき時だ。しかし天は未だこの乱れた天下に平和をもたらそうとは思っていないようだ。もし天がこの世に平和をもたらそうと思っているなら、今の時代、私以外で誰が王者を補佐してこの乱世に平和をもたらすことが出来ようか。それを思えば、どうして不機嫌になることなどあろうか。」

孟子去齊。充虞路問曰、夫子若有不豫色然。前日虞聞諸夫子。曰:、君子不怨天、不尤人。曰、彼一時。此一時也。五百年必有王者興。其間必有名世者。由周而來、七百有餘歲矣。以其數則過矣。以其時考之則可矣。夫天、未欲平治天下也。如欲平治天下、當今之世、舍我其誰也。吾何為不豫哉。

孟子、齊を去る。充虞、路に問いて曰く、「夫子、不豫の色有るが若く然り。前日、虞、諸を夫子に聞けり。曰く、『君子は天を怨まず、人を尤めず。』」曰く、「彼も一時なり。此も一時なり。五百年にして必ず王者の興る有り。其の間、必ず世に名ある者有り。周由り而來(このかた)、七百有餘歲なり。其の數を以てすれば、則ち過ぎたり。其の時を以て之を考うれば、則ち可なり。夫れ天、未だ天下を平治するを欲せざるなり。如し天下を平治せんと欲せば、今の世に當りて、我を舍きて其れ誰ぞや。吾何為れぞ不豫ならん。」

<語釈>
○「不豫色」、「豫」は、楽しむ、悦ぶ。「不豫色」で面白くない顔つきをしていること。○「彼一時。此一時」、趙注は、「彼一時」を昔の聖賢王が出現した時、「此一時」を今の乱れた時代とする。朱注は、「彼一時」を前日、充虞に語った時、「此一時」を今日亦た別に一時なりとする。どちらの説でもよいが、取り敢えず趙注に従って解釈しておく。

<解説>
孟子の自信はたいしたものだ。この時代これぐらいの自信がないと、天下を渉り歩くことはできなかったであろう。特に難解な個所もないので、趙旨を紹介しておく、
「聖賢の興作は、時と與に消息す。天、人に非ずんば因らず、人、天に非ずんば成らず。是の故に命を知る者は、憂えず懼れざるなり。」

四十六節
孟子が齊を去って、休という町に滞在していたとき、弟子の公孫丑が尋ねた。
「君に仕えていながら、禄を受けないというのは、昔からの正しい道なのでしょうか。」
「そうではない。祟という所で、私は齊王にお会いしたが、どうも善政を行うことが出来そうに思えなかったので、退いてからすぐに齊を去る気持ちになった。その意思を変えるつもりはなかったので、禄をお受けしなかったのだ。ところがすぐに去るつもりが、戦争がはじまりそうになって、ごたごたしていた為に、暇乞いすることが出来ず、つい長居してしまったが、それは私の本意ではなかったのである。」

孟子去齊、居休。公孫丑問曰、仕而不受祿、古之道乎。曰、非也。於崇、吾得見王。退而有去志。不欲變。故不受也。繼而有師命。不可以請。久於齊、非我志也。

孟子、齊を去り、休に居る。公孫丑、問いて曰く、「仕えて祿を受けざるは、古の道か。」曰く、「非なり。崇に於いて、吾、王に見ゆるを得たり。退いて去る志有り。變ずるを欲せず。故に受けざるなり。繼いで師命有り。以て請う可からず。齊に久しきは、我が志に非ざるなり。」

<語釈>
○「師命」、趙注:師旅の命。軍隊を動かす命令の意で、戦争を始めようとしている事。

<解説>
この節と前節とでは、孟子の齊王に対する評価が違っている。前節の齊王は宣王であるが、この節の齊王は宣王ではないのかもしれない。
内容的に特に解説することはないので、趙旨を紹介しておく。
「禄は以て功に食み、志は以て事に率う。其の事無くして、其の禄を食むは、君子由らざるなり。」