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『孟子』巻第九萬章章句上 百二十五節

2018-08-18 10:11:37 | 四書解読
百二十五節

弟子の萬章は尋ねた。
「舜の弟象は、日々舜を殺そうとしていたのに、舜は天子の位に即くと、死刑に処せず、ただ追放しただけなのは何故でございますか。」
孟子は答えた。
「諸侯に封じたのだ。追放したという人もいるが。」
萬章は言った。
「舜は共工を幽州に流し、驩兜を崇山に追放し、三苗の民をを三危の地に閉じ込め、鯀を羽山に閉じ込めました。この四人の罪をただすことによって、天下は皆舜に帰服しました。これは不仁の者を処罰したからです。ところが象は極めて不仁の者でありながら、処罰もせずに有庳に封じました。このような領主を押し付けられた有庳の民に、どんな罪があったと言うのでしょうか。仁者というのは、そんなものですか。不仁の者でも、他人であれば処罰をするが、弟であれば諸侯に封じるという。」
「仁者の弟に対する態度は、怒りは隠さず、怨みは持ち続けず、親愛するのみである。心から親愛すれば、地位も高くしてやりたい、財産も多くしてやりたい、と願うものである。象を有庳に封じたのは地位と富とを与えてやるためだ。自分が天子でありながら、弟を庶民のままにしておくようでは、弟を親愛していると言えるだろうか。」
「あえてお尋ねしますが、追放したと言う人もいますが、それはどういう訳でございますか。」
「象は領主になったといっても、その国を治める事は許されなかった。天子舜は役人を派遣して、民を治めさせ、租税を徴収させた。このように実権を持たせずに領主にしたことが、見方によっては追放したように見えたので、そう言ったのだ。これでどうして人民を虐待することが出来ようか。このように象を追放したような状態に置いたが、舜は肉親の情から常に顔を見たいと思っていたので、象も水が綿々とながれるように、絶えず舜の下へやって来た。古書に、『朝貢の時期を待たずに、政務にかこつけて有庳の君を接見した。』とあるのは、この事を言ったものである。」

萬章問曰:「象日以殺舜為事,立為天子,則放之,何也?」孟子曰:「封之也,或曰放焉。」萬章曰:「舜流共工于幽州,放驩兜于崇山,殺三苗于三危,殛鯀于羽山,四罪而天下咸服,誅不仁也。象至不仁,封之有庳。有庳之人奚罪焉?仁人固如是乎?在他人則誅之,在弟則封之。」曰:「仁人之於弟也,不藏怒焉,不宿怨焉,親愛之而已矣。親之欲其貴也,愛之欲其富也。封之有庳,富貴之也。身為天子,弟為匹夫,可謂親愛之乎?」「敢問或曰放者,何謂也?」曰:「象不得有為於其國,天子使吏治其國,而納其貢稅焉,故謂之放,豈得暴彼民哉?雖然,欲常常而見之,故源源而來。『不及貢,以政接于有庳』,此之謂也。」

萬章問いて曰く、「象は日に舜を殺すを以て事と為す。立ちて天子為れば、則ち之を放するは、何ぞや。」孟子曰く、「之を封ずるなり。或ひと曰く、放すと。」萬章曰く、「舜、共工を幽州に流し、驩兜を崇山に放し、三苗を三危に殺(サイ)し、鯀を羽山に殛(キョク)す。四罪して天下咸服せり。不仁を誅すればなり。象は至って不仁なり。之を有庳に封ず。有庳の人奚の罪かある。仁人は固より是の如きか。他人に在りては、則ち之を誅し、弟に在りては、則ち之を封ず。」曰く、「仁人の弟に於けるや、怒りを藏せず、怨みを宿めず。之を親愛するのみ。之を親しんでは其の貴からんことを欲し、之を愛しては其の富まんことを欲するなり。之を有庳に封ずるは、之を富貴にするなり。身、天子為り、弟、匹夫為らば、之を親愛すと謂う可けんや。」「敢て問う、或ひと曰く、放すとは、何の謂ぞや。」曰く、「象は其の國を為むること有るを得ず。天子、吏をして其の國を治めて、其の貢稅を納れしむ。故に之を放すと謂う。豈に彼の民を暴することを得んや。然りと雖も、常常にして之を見んことを欲す。故に源源として來たる。『貢に及ばず、政を以て有庳に接す。』とは、此を之れ謂うなり。」

<語釈>
○「殺三苗于三危」、「殺」の字は、『書経』舜典では、「竄」の字に作る。孟子が「竄」を「殺」に間違ったのではないかと言われている。故に「竄」の意で読む、追放して閉じ込めること。三苗は異民族の国、三危は西の方の地名。○「殛」、朱注に、「殛」は「誅」なり、とあり、この意に解するのが普通であるが、段玉裁は「極」の仮字だとし、幽囚の意に解す。服部宇之吉氏も云う、「殛」は幽囚なり、と。文の流れからしてこの説が妥当であるように思うので、これを採用した。○「源源」、趙注:流水の源より通ずるが如し。綿々と流れる意。

<解説>
この節も前節に続き今の我々には理解し難い話である。しかしこれが中国の孝道である。親が人を殺しても、それを訴えたら親不孝になる。それがさらに進んで、義兄弟を含めて、身内の者の行いは全て善であり、他人と争いが起きた場合は、すべて相手が悪いとされる。いわゆる身びいきである。有名な小説『水滸伝』などを読めばそれがよくわかる。