孝文本紀
孝文皇帝は、高祖の中子なり(高祖の子は八人、孝文帝は第四子)。高祖十一年春、已に陳豨の軍を破り、代の地を定め、立ちて代王と為り、中都に都す。太后薄氏の子なり。位に即きて十七年、高后八年七月、高后崩ず。九月、諸呂・呂產等、亂を為さんと欲し、以て劉氏を危うくす。大臣共に之を誅し、謀りて召して代王を立つ。事は呂后の語中に在り。丞相陳平・太尉周勃等、人をして代王を迎えしむ。代王、左右・郎中令張武等に問う。張武等議して曰く、「漢の大臣は皆故と高帝の時の大將にして、兵に習い、謀詐多し。此れ其の意を屬すること(意を配って計画すること)、止(ただに)に此れのみに非ざるなり。特に高帝・呂太后の威を畏れしのみ。今已に諸呂を誅し、新たに血を京師に啑(すする)る。此れ大王を迎うるを以て名と為せども、實は信ず可からず。願わくは大王疾を稱して往くこと毋く、以て其の變を觀よ。」
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