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12年前、脳内出血発症時に、私は何を考えていただろうか?(3分割のその1)

2023-09-16 09:00:00 | エッセー「受容と回復」
    

 私は最近難病の海老原宏美(1977年神奈川県出身)さん著書「わたしが障害者でなくなる日」(2019年旬報社発行)に出会った。私が中途障害者になって10年超経過していた。本を開いた途端、衝撃を受けた。誤解無きことを祈りながら、一言で述べると、彼女の主張は、「私は難病なの。でもね、病気と障害は違うのよ。障害はネ、あなたのせいなのヨ」の通りである。
そこで、私が障害者と呼ばれることになった時には、どんな気持ちだったか?当時投稿した原稿を引っ張り出した。私は原稿の中で、「①障害者になったのは自分の不摂生である」、「②障害者は健常時に戻るべく努力しなければならない」というスタンスで一貫していた。その状況で海老原さんの主張に刺激を受け、それ以降「障害理解」について勉強している。
ここでは、10年前に私が考えていたことをエッセーから抜き出して3回に分けて公開します。今回は3分割のその1です。

エッセー「脳卒中後遺症の受容と回復」(3分割のその1)
 生涯現役を標榜し大手企業の技術者として勤務する傍ら、中小企業診断士として異業種交流コーデイネータのボランテアに精を出し、60歳の定年後も5年間子会社で勤務し、その後関連協会の事務局長に就職した矢先の脳内出血の発症だった。救急病院で65年間の生き様が全て否定された気になった。痛い目に合って人間初めて気付くものだと指摘されたが、全て後の祭りで無念さばかり残り、私の人生は終わったと思わざるを得なかった。殆ど休みなしに走り詰めの日常が急に何も出来なくなった訳で、何をどのように考えれば良いか答えがあるはずは無かった。
何の目標も持たず、悶々として1ヶ月過ごした救急病院から転院したリハビリ専門病院で、主治医との最初の面接で「現在私は全く歩けません。利き腕の右手だけはしっかりしているから、左手・左足は特に要らないのです。」と言ったが、とんでもない間違いに直ぐに気付くことになる。理学療法士の第一声は、全く歩けなかった私に「この訓練室は1周50mです。2周歩いてごらんなさい!!」である。無理と思いつつ、しかし久し振りに自分自身を鼓舞しながらよちよち歩きで歩き始めた。何とか2周歩いた時にはもう全ての蟠り(わだかまり)がなくなったとさえ思った。とてもうれしかった。こうして最初のきっかけから理学療法士と目標を共有することが出来一切を信頼した。そして彼女に「私は現役時代、何事も目標を掲げその目標を達成する為に、毎日・毎週何を成し遂げておかねばならないかを決めていました。どんな高い目標でも辛いリハビリでも構いません。」と訴えた。理学療法士とのやり取りが受容の第一歩であったと思う。3ケ月の退院目標までのマイルストーンが出来上がった。理学療法士と趣味の話になり師範取得している詩吟を披露し、聴き入ってもらったことが自信になり受容の背中を押してくれた様だ。
 退院時、主治医に「私はどの程度まで回復するでしょうか?」という質問を投げかけた。私の最大の関心事であった。主治医から「人それぞれ全く異なるので何も言えない。リハビリには6ケ月の壁というのがあり、それ以上は回復しないので十分理解して生活して欲しい。」と指導を受けた。その時は6ケ月の壁とはそんなものかと頷いたが、自分としては「きっと健常時と同じ位に行動できる迄努力してみる。」と心の中で反復していた。初めて見る身体障害者手帳には「左片マヒ第1種2級」とあった。

次週に続きます。ご感想をこのブログにお待ちします。  
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