日本庭園こぼれ話

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海運がもたらした繁栄・本間家・・・山形県酒田市

2010-05-30 | 歴史を語る町並み

山形県の北部に位置する酒田市は、江戸時代、最上川水運と日本海海運の要衝として栄えた湊町。多くの豪商が軒を連ね、自治組織が発達したという土地柄です。

酒田の発展の礎となったのは、12世紀末、奥州平泉滅亡の際、藤原秀衡ゆかりの女性(後に尼となり、徳尼公と呼ばれる)を守って落ちのびた36人の家臣。この地に移り住んだ彼らは、地侍となり、町づくりを行い、その子孫が「酒田36人衆」として、自治組織を確立していったとあります。

そして、時代下って、寛文12年(1672)、河村瑞賢が幕命を受けて、西廻り航路を開くと、酒田に出入りする船舶は急増。北前船の拠点として、「西の堺、北の酒田」と称されるほどの繁栄を見るのです。

(上: 川沿いに建ち並ぶ倉庫群が往時の繁栄を物語る)

後に日本一の大地主として名を馳せる本間家の初代が、「新潟家」を開業したのは、こうした酒田の輝かしい歴史が始まった元禄2年(1689)のことでした。「新潟家」の名が示すように、ご先祖は越後に関係があったようです。

本間家3代・光丘は、千石船による商いを始める一方、農業振興のための土地改良や植林事業など、公共事業支援を積極的に行い、さらには藩財政の相談役も務めた、本間家中興の祖とされる人物。

現在、市の中心部に本間家旧本邸として残る豪壮な屋敷は、光丘が、明和5年(1768)に、藩主酒井家のために、幕府巡見使の本陣宿として建造、その後拝領し、本邸として使用していたというもの。

そんな由来を物語るかのように、見事な枝振りの松の巨木が頭を覗かせている薬医門と、その前後に長く延びる白漆喰の築地塀。それはまさしく大身の武家屋敷のたたずまい。

(上: 豪壮な門構えに、「本間様」の隆盛が偲ばれる)

そして建物は、表は、二千石旗本の格式を備えた武家屋敷の構えで、その奥は商家の造りになっています。このように、2つの建築様式が一体となっているのは、極めて珍しい例だそうです。

内部の表座敷の部分もまた、檜の柾目を使ったり、飛騨から職人を呼び寄せたという春慶塗りを用いるなど、どこを見ても贅を凝らした造りになっていますが、家族の日常生活の部分は、意外に質素。

そんなところに、「本間様には及びもせぬが、せめてなりたや殿様に」と謳われた本間家と、「徳を重んじ、利益の4分の3は社会に還元する」を家訓とした本間家の両面を見た思いです。

 (上: 庭は一見、質素だが、据えられた石は見事。北前船で運ばれたものだ)

 


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