岡山駅から伯備線に乗り、「備中高梁(びっちゅうたかはし)」へ。高梁川の清流に沿った山峡の町・高梁は、明治の初年までは備中松山と呼ばれた板倉氏五万石の城下町で、往時の面影を色濃く残した、そぞろ歩きの似合う情緒豊かな町です。
ここ高梁では、お城ができてから明治維新までの633年間に、45代の城主交代があり、その度に寺を建立したそうで、今に残るどの寺も、高く聳える石垣の上に建ち、まるで城郭のように壮観な眺めで、この町の代表的な景観を形作っています。
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(上: 頼久寺。高梁には豪壮な構えの寺が多い)
「頼久寺」もその一つ。足利尊氏が安国寺として建立した禅寺ですが、後に松山城主の名にちなんで、頼久寺と改称されました。江戸時代の初期、松山城の代官となった小堀政次は、城が戦乱によって荒廃していたために、この寺を仮の住居としました。
この政次のあとを継いだのが、子の「小堀遠州」。江戸初期において、茶道、建築、築庭の巨匠として名を馳せた人物。頼久寺庭園は元和5年(1619)まで、この地に住んだ遠州が、政務のかたわら作庭したと伝えられ、彼が遺した江戸時代を代表する数々の名園の原点と言われています。
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(上: 小堀遠州作庭の最大傑作の一つとも言われる頼久寺庭園)
海に見立てた白砂敷きの中に、鶴島と亀島を立てた典型的な禅院式蓬莱庭園ですが、なんと言っても目を奪われるのが、ダイナミックなサツキの大刈込みです。
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(上: 巨石を立てた鶴島の石組)
書院の軒に座って眺めると、遠く愛宕山を借景に、波紋を描いた白砂の海原が広がり、中央に鶴を象徴した鋭角の石組、その後方に3つの半円を連続させたサツキの刈込みがあって、その脇に具象的な亀の石。そして左手の山畔からは、サツキの大波が、うねりながら押し寄せて来る・・・。
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(上: 押し寄せる大波がイメージされる、見事な刈込み)
この庭園もまた、多くの古庭園の例に洩れず、遠州による作庭であることを示す確実な資料は無いそうですが、縁先に打たれた、いかにも遠州らしい飛石の意匠も合わせて、非常に洗練された庭であり、さらにダイナミックで感動的な庭でもあります。
桃山時代の豪快な手法を受け継いだ、遠州作庭中の傑作という評価が、なるほどと頷ける庭園だと思いました。
*アクセス、拝観については、頼久寺HPをご参照ください。
www1.ocn.ne.jp/~tentyu/