日本庭園こぼれ話

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Random Talks about Japanese Gardens

松島・霊場の記憶を留める景勝地③「五大堂~遊覧船~塩竃神社」---宮城県(再編)               

2020-08-08 | 霊場

円通寺から、再び海岸に戻ると、左手に見える小島に建つのが、松島のシンボル五大堂。その歴史は古く、大同2年(808)、坂上田村麻呂が東征の折りに、毘沙門堂を建立したのが始まりと伝わります。

(上: 小島に建つ五大堂)

坂上田村麻呂は、この場所からの海の眺めに感嘆し、堂を建てる決心をしたということ。後に、慈覚大師円仁が延福寺(後の瑞巌寺)を開創した際、五大明王像を安置したことから五大堂と呼ばれるようになったそうです。

その時、坂上田村麻呂が祀った毘沙門天は、光を発して沖合の小島に飛び去り、その島が毘沙門島と呼ばれるようになったという伝説もあります。

現在の五大堂の建物は、伊達政宗が瑞厳寺再興に先立って再建。東北地方では最古の桃山建築ということです。三間四方、単層宝形造りのいうもので、軒内の周りを飾る十二支の彫刻は、方位に従って配置されているそうです。

お堂の扉は普段は閉じられていて、ご開帳は33年に一度。最近のご開帳は平成18年だったので、次回はまだずっと先ですね。

五大堂に渡る橋は、橋桁の間に隙間のある、透かし橋になっているので、歩くのにちょっと注意が必要ですが、そこには「足元を見つめて、気を引き締める」という意味が込められています。

そして最後は、松島観光の白眉、遊覧船の乗っての島めぐりとなります。

遊覧船のコースは、いろいろありますが、私が選んだのは、やっぱり芭蕉も辿った、松島と塩竈(しおがま)を結ぶ航路、その名も「芭蕉コース」です。

もっとも芭蕉の場合は、塩竈から「船を借りて松島に渡る。その間二里余、雄島の磯に着く」という逆コースでしたが・・・。

観光桟橋を出港すると、すぐに大小様々な島が、次々に目の前に迫ってきます。遠くから眺めた時は、島々が集合体として、見事な景観を創り出していたのですが、海上に出て間近に見ると、灰白色の岩頭に、緑の松林を抱いたコントラストも美しく、一つ一つの島の形や表情に目を奪われます。

千貫島、在城島、兜島、鐘島、鷺島、夫婦島・・・。島の名前には、伝承によるものと、その姿から名付けられたものがありますが、どれも浸食によってできた形が、さながら自然の芸術品。

特にユニークなのが、仁王島。形が仁王像に似ているので、その名が付いたと言われますが、むしろ前衛彫刻家が創作した人物像のよう。船内放送でも、「目も口もあり、口にはタバコをくわえ、頭にはベレー帽を・・・」と紹介されていました。

(上: 仁王島は、浸食作用がもたらした究極の前衛芸術品?)

右に左に現れる島々に目をやるうちに、あっという間の50分で、塩釜(しおがま)港・塩釜マリンゲートに到着。旅の締めくくりに、芭蕉に倣い、「鹽竈(しおがま)神社」に参拝。(余談ですが、「しおがま」の漢字が、それぞれ違うんです。)

平安時代初期には、すでに重要な地位を占めていたと伝わる陸奥国一の宮・鹽竈神社。小高い丘の上、深い森に囲まれて鎮座する社殿群は、『奥のほそ道』の記述にあるように、「宮柱は太く、彩色した垂木はきらびやか。石段は高く連なり・・・」と壮麗な姿。

(上: 奥に見えるのが本殿)

その中にあって、拝殿の奥に垣間見える木造素木造り檜皮葺の本殿が、一層、古社の風格を漂わせ、「かかる道の果て、塵土の境まで、神霊あらたかにましますことこそわが国の風俗なれと、いと貴けれ」と、感動する芭蕉の姿が重なります。

---終わり--

 

 


松島・霊場の記憶を留める景勝地②「瑞厳寺」・「円通寺」---宮城県(再編)

2020-08-01 | 霊場

瑞厳寺は、寺伝によれば、平安時代初め(826)、慈覚大師円仁により開創された奥州一の禅寺(当時は、延福寺と称した)。室町時代までは大いに繁栄したものの、戦国時代に寺勢が衰え、現在の大伽藍が再興されたのは、江戸時代初期、伊達政宗によってでした。

(上: 杉の古木が立ち並ぶ厳かな参道)

工事は慶長9年(1604)に始まり、ヒノキ、スギ、ケヤキの良材を熊野山から取り寄せ、諸国から名工130人を集め、5年がかりで完成させたとあります。

(上: 本堂は重厚かつ荘厳)

本堂(国宝)は、正面の幅39メートル、奥行き25メートル、入母屋造り、本瓦葺き。10室の部屋で構成され、京都・根来の大工衆が技を競ったというもの。その荘厳な建築美とともに、内部の欄間の彫刻の緻密さや、障壁画の絢爛豪華に圧倒されます。

これら障壁画は、歳月を経て劣化したため、近年、保存修理が行われ、芭蕉が「金壁荘厳光を輝し」と感動した旧の姿を取り戻したものです。

瑞厳寺では、本堂に付属する御成玄関、回廊、庫裡もまた国宝に指定されています。庫裡の白壁と木組のコントラストは、印象的な美しさでした。

(上: 白壁と木組のコントラストが美しい回廊と庫裡)

帰り道、参道を迂回する歩道を進むと、ここにも雄島で見たような岩窟がたくさん並んでいました。崖の壁面に洞窟を掘り、仏像などを彫り込んだもので、やはり修行の場、瞑想の場であったとか。

(上: 瑞厳寺の岩窟群)

瑞巌寺の中門を出たすぐ右手にあるのは、やはり伊達家ゆかりの「円通院」。二代藩主の次男・光宗の廟所です。19歳という若さで、江戸城で亡くなった光宗の死因については、彼の文武両道に優れた名君としての資質を、徳川幕府が恐れ、毒殺したという説が伝わっています。

山門をくぐると、手入れの行き届いた境内は、様式の異なるいくつかの庭園で構成された回遊式庭園のようです。山門脇の庭は、白砂の中に松島湾に実在する七福神の島を表したという石庭(下の写真)。

そこから苔の中の小径を直進すると、突き当たりが御霊屋の「三慧殿」。光宗の父・忠宗によって建立されたもので、外観は質素なお堂ですが、中には金色の光を放つ豪華な厨子が安置されています。

(上: 歴史の1ページを秘めた三慧殿)

特徴的なのは、その厨子に描かれた文様。西洋バラ、ダイヤ模様、ハート模様。そして葵の紋にも見えるスペード模様。あるいは菱形模様に似せた「クロスつなぎ」などで、それらは、伊達政宗の命により、遣欧使節としてヨーロッパに渡った、支倉常長によって、もたらされた西欧文化を色濃く反映したもの。

そのため、鎖国制度下にあった当時は、人目に触れることなく、3世紀半もの間、御霊屋の中に秘蔵されていたということです。

そこから本堂に続く小径を辿って行くと、ここにも裏山の崖に岩窟が並び、鎌倉の「やぐら」を思い出します。

(上: 明るい寺域とは対照的に、厳かな雰囲気を醸し出す岩窟)

さらに進むと、前面は明るい杉林で、足元は苔。ところどころに山野草が可憐な花を咲かせています。そこを過ぎると、寺院には珍しいバラ園。これは厨子に描かれたバラに因んだものだそうです。

(上: 杉林と苔と山野草で構成された自然風の庭)

そして本堂に至ります。光宗の江戸での納涼亭を移築したもので、寄棟造り、茅葺き屋根の建物。心字池のある前庭は、伊達藩江戸屋敷にあった小堀遠州の庭を移設したものと伝わるそうですが、真偽はともかく、風雅な本堂と相まって、景趣豊かな雰囲気。

(回遊式庭園のような境内の景とよく調和している風雅な本堂=上と、その前庭=下)

瑞厳寺の男性的な豪壮さとは対照的に、円通院では女性的な、心安らぐ空間が創り出されています。

・・・つづく・・・

 

 


松島・霊場の記憶を留める景勝地①「雄島」・「観瀾亭」---宮城県(再編)

2020-07-27 | 霊場

松島とは、宮城県の松島湾内に点在する大小260余りの島々のこと。近年は、白神山地や奥入瀬渓流、平泉などに、東北観光の主役の座を奪われている感がありますが、古くから「丹後の天橋立」「安芸の宮島」と並んで、日本三景の一つに数えられている「陸奥の松島」。

松島観光の玄関口は、仙台から仙石線で約30分の松島海岸駅。駅構内の観光案内所で散策マップをもらって、まずは正面に広がる海を眺めに行きます。

海に浮かぶ島々が、緑の松で覆われているのを確認して一安心。というのは、以前、松島の松が害虫被害のため、枯死が目立つという話を聞いていたからです。

磯の香りを心地良く感じながら、右手に目を移すと、朱塗りの橋・渡月橋で結ばれた小島があり、それが「雄島」。

 

中世の松島は「北国の霊場」として知られ、多くの僧たちが修行のために、この島にやって来たとのこと。中で最も有名なのが、平安時代末期(1104年)に、伯耆の国から雄島に入った見仏上人。

見仏上人は、12年間、一歩も島を出ることなく法華経を読誦、法力を得たそうで、時の鳥羽天皇がその偉業を讃え、松の苗木1、000本を下賜されたことにより、雄島は「千松島」と呼ばれるようになり、それが転じて、この地一帯が「松島」となったという、いわば、地名発祥の島です。

渡月橋を渡って島に至ると、まず目に入るのが夥しい数の岩窟。修行僧の座禅、瞑想の場であり、死者の浄土往生を祈念した場所とも言われ、卒塔婆や石仏、五輪塔などが納められています。

岩窟に沿いながら左手に向かうと短いトンネル。修行僧が岩を削って作ったとあり、岩盤に鑿跡が無数に残っています。

トンネルを抜けると、周囲の崖の壁面に、何層にもなって岩窟が彫られた空間に出ます。そこは見仏上人が修行した見仏堂の跡地ということで、奥の院と呼ばれるその場所(下の写真)は、木々に覆われ、曇り空も手伝って薄暗く、あたかも霊気が漂っているような雰囲気。

ここまで足を延ばす観光客は少ないようで、あたりはひっそり。島内には他にも、侘びた堂や庵や句碑が点在し、雄島に来たことで、松島の霊場としての歴史が強く印象づけられたことでした。

次に、雄島から海岸沿いに歩いて「観瀾亭(かんらんてい)」へ。

この建物は、伊達政宗が豊臣秀吉から拝領した伏見桃山城の一棟で、江戸品川の藩邸に移築したものを、二代藩主・忠宗が、納涼、観月の亭にするため、一木一石も変えずに、この地に移したと伝わっています。

建物は横に長い平屋で、海に面して縁をめぐらせた簡素な外観ですが、部屋の床の間や襖には、金泊に極彩色の絵が描かれ豪華。「観瀾」とは、「さざ波を観る」という意味で、高台にあるので、眼下に広がる松島湾の景はまた格別。

(上: 眼下に松島湾の眺望が広がる「観瀾亭」)

芭蕉が松島を訪れた際に、あまりの絶景に句が浮かばす、「松島や ああ松島や 松島や」と詠んだという逸話は、あまりにも有名ですが、これは誤伝だそうです。オリジナルは、江戸後期の狂歌師・田原坊の作とか。

もっとも芭蕉が、待望の絶景に感激して、句を詠むどころではなかったのは事実らしく、『おくのほそ道』の松島における一文には、「待望の絶景に接して、もはや句を詠むどころではなく、句作を断念して、さて眠ろうとしても感激のあまり眠ることができない」という心境が綴られています。

しかし、江戸を立つ時には、「松島の月まづ心にかかりて」と、特別な思いを抱いていた松島なのに、一句も詠まずに通過していることから、芭蕉隠密説が生まれたりもしています。つまりこの旅の目的は、仙台藩の情勢を探るためのものだったというわけです。

しかも、同行の曾良による『曾良日記』には、仙台藩の軍事要塞といわれる瑞厳寺や藩の商業港・石巻港を執拗に見物したことが記されているそうで・・・・。なかなか興味深いことです。

(上: 奥州随一の禅寺・瑞厳寺。伊達政宗によって再建された大伽藍は、荘厳かつ豪華)

その瑞厳寺については、次回に・・・。

---つづく---

 

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