日本庭園こぼれ話

日本の歴史的庭園、街道、町並み。思いつくままに
Random Talks about Japanese Gardens

山の辺の道(1)---古代の残映を感じながら(奈良県)

2020-08-29 | 古道

奈良盆地の東側を南北に走る「山の辺の道」は、我が国最古の国道とも言われる古道。初期王朝の揺籃の地でもあり、様々な古代の残映が、道沿いのそこかしこに点在しています。

現在残る山の辺の道は、奈良・春日から桜井までの30キロを指すそうですが、今回は、より見どころが多く、ポピュラーな南半分の10数キロを歩きました。

出発点は天理市にある「石上神宮(いそのかみじんぐう)」。ガイドブックには、石上神宮までは、天理駅からバス10分と書いてあったのですが、バスの本数がとても少ないので、駅からタクシーに乗りました。(徒歩で30分くらいだそうです) 

深い木立に囲まれた石上神宮は、4世紀頃、崇神天皇の時代に創始された、日本最古の神社の一つとされています。

(上: 南・山の辺の道』の起点となる石上神宮)

神武天皇東征の時に、国土平定に偉功のあった神剣を祭神とする一方、朝廷の武器庫として、物部氏が代々、祭祀を司ってきたとも言われています。

楼門の先、回廊に囲まれた拝殿の入母屋造り、檜皮葺きの屋根の、スーッと横に伸びたラインの美しさが印象的でした。

(上: 石上神宮の境内脇から、山の辺の道が延びている)

境内脇から山の辺の道に入ると、まもなく「内山永久寺跡」。しかし文字通りの「跡」で、緑の影を映す溜池の他には何もありません。12世紀初頭に、鳥羽天皇の勅願により創建された大寺院でしたが、明治の廃仏毀釈により破壊されたそうです。

(上: 池畔に立つ芭蕉の句碑だけが、昔の栄華を伝える内山永久寺跡)

今は池畔に「内山や とざま知らずの 花ざかり」と詠んだ芭蕉の句碑が立っていることにより、かろうじて、そこが昔は由緒ある地であったことが想像されるのみです。

内山永久寺跡を過ぎると、道はアップダウンを繰り返し、両側には柿畑。そこを抜けると、眼前には広々とした農の風景が開け、柿畑やみかん畑となっている丸い小山が、あちこちに見え始めます。

 

(上: 畑の中に点在する小山)

このあたりでは、こんもりした丘や畑は、古墳と見ていいと言われているので、それらも古墳なのでしょうか?それにしても、その数の多いことに驚かされます。

少し歩くと、木立の中に「夜都岐(やとぎ)神社」。

(上: 夜都岐神社への道)

春日大社の四神を祀っているという素朴な神社で、拝殿の藁葺き屋根に歴史を感じます。

(上: 緑に包まれた藁葺き屋根の拝殿が、素朴で味わい深い夜都岐神社)

 

---つづく--- 


葛城古道(終)---土地神ともう一つの古代豪族・鴨氏(奈良県)(再編)

2020-08-22 | 古道

畦道を抜けて、まもなく「一言主(ひとことぬし)神社」。ここの神様は『古事記』に登場。

雄略天皇(第二十一代)が葛城山に狩りに出かけた際、自分に顔かたちがそっくりな人物に出会い、「王の真似をするとは何者だ」と咎めると、その人物は「悪事も一言、善事も一言、言離つ神、葛城の一言主之大神」と名乗ったので、天皇は畏れ入ったということ。

地元では、願いを一言だけ聞いてくれる「一言(いちごん)さん」として、親しまれているそうですが、今どきの世相を反映してか、受験生に人気とは、神様も苦笑いしているかも。

(上: 一言主神の霊が宿っていそうな大イチョウ)

一言主神社は、それほど大きな神社ではありませんが、その狭い境内を覆うかのように枝を広げているのは、樹齢1,200年という大イチョウ。高さは20メートルほどだそうですが、地上3メートルくらいのところの幹に、気根と呼ばれる突起が何10本も垂れている様が壮観。

突起が乳房のように見えるところから、「乳銀杏」と呼ばれ、安産の御神木になっています。

(上: 大イチョウの幹の気根が見事)

『古事記』では、雄略天皇を畏れさせた一言主神ですが、『日本書紀』の注釈書である『釈日本書紀』には、この神が雄略天皇と争い、破れて土佐に流されたという記述があったり、また、役小角が岩橋を架ける時に使役した鬼神が、一言主神だという話もあり、こうした神話や伝承を、葛城氏の勢力の盛衰と重ねてみると、興味深いものがあります。

出発点の猿目橋からここまで、ゆっくり歩いて1時間弱。次は神社の階段を下り、杉並木の参道をまっすぐ進んで、県道の下をくぐり、さらに行くと神社入口の鳥居。社殿の大きさに比べて、意外に長い参道です。

その先を右に折れてまっすぐ行けば、名柄(ながら)の集落に入ります。江戸初期に建てられたという中村邸をはじめ、重厚な大和棟や漆喰壁の古い民家が残る、雰囲気のある町並みを通り抜け、古道は、まだまだ続きます。

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名柄の集落を通り抜けた頃から、道はだんだん上り坂。振り返ると葛城山が次第に遠のき、代わりに金剛山が迫ってきます。優しい山容の葛城山に対し、金剛山は峻険な姿。

逆コースの方が楽だったかな?と思いながらも、道の両側の富有柿の畑の、のどかな景色に励まされて前進。やがて県道に出て、少し行くと「極楽寺」の入口に到着。

(上: 極楽寺山門)

石段を上ると、山門と鐘楼が合体したような珍しい鐘楼門。極楽寺は10世紀半ば、奈良興福寺の名僧・一和僧都が開いたとされ、金剛山の付近に光を放っているところを見つけて掘り出した仏頭を祀った、という話が伝わっています。

手入れの行き届いた境内は清々しく、高台にあるので眺めも良く、休憩用のベンチも置かれているという、心配りがうれしいお寺でした。

予定では、極楽寺から古刹・橋本院を経て、葛城氏の祖神を祀る高天彦(たかまひこ)神社を訪ねるつもりだったのですが、その道は寂しげな道で、人気もなく、一人で上って行く勇気がなかったので、断念してしまいました。そこまでは、急勾配もある往復2キロほどの行程です。

(上: 山の懐に抱かれた葛城古道)

それにしても、興味深いのは、高天彦神社への途中に、高天原(たかまがはら)伝承地があることです。高天原と言えば、天照大神など、神々の住む天上の聖地。それがこんなところにあるとは・・・。こうした伝承も、葛城氏のかつての栄華を物語っているのかもしれません。

さて、葛城古道もそろそろ終盤。「高鴨神社」を目指して、もうひと頑張り。高鴨神社の祭神は、「タカガモアジスキタカヒコネ」といい、大国主命の子と言われています。

つまり出雲系の神様が、地元の大和系の神様をさしおいて、祀られているというわけです。この神を守護神とするのは、古代豪族の「鴨氏」。ちなみに、修験道の祖・役小角も鴨氏の出身ということ。

(上: 古代豪族・鴨氏の力を偲ばせる高鴨神社)

他にも、古道の周辺には、鴨山口神社と鴨都波神社のように、「鴨」の付く神社が点在し、鴨一族の繁栄が想像されます。高鴨神社は、京都の上賀茂、下鴨神社の総本社にも当たるという格式のある神社ですが、重々しさはなく、清浄な空気が境内を満たしています。

そして、再び農道に入り、実りの秋を実感しながら、約10キロの古道散策の終わりは「風の森」というロマンチックな名前の場所。

今その面影はありませんが、このあたり一帯は、金剛山から吹き下ろす強風の通り道とされ、そんなところから付けられたのでしょうか、心惹かれる名前です。

でも、ここを過ぎると、すぐに国道24号線。「風の森停留所」があり、バスを待つ間にも、ひっきりなしの車の往来に、古道の余韻に浸る間もなく、現実に引き戻されるのでした。

(上: 数々の伝承の舞台となった霊山「葛木」の山並みを振り返る古道の終わり)

※「風の森停留所」から近鉄御所駅までは、約15分。バスの運行は、本数が少ないので、事前に時刻を確認することをお薦めします。

 

---「葛城古道」終わり---

 

 

 

 


葛城古道(2)---古代豪族・葛城氏の発祥地(奈良県)(再編)

2020-08-18 | 古道

九品寺を後に、再び野の道を歩き出すと、まもなく目に飛び込んで来たのが、色とりどりのコスモスの花。

(上: 葛城古道屈指の景観)

ここは、葛城古道ののどかさが、もっとも際立つ場所で、特に秋は、咲き乱れるコスモスの群落と、はるかに望む「天香具山、畝傍山、耳成山」の大和三山の組み合わせが絶景。

ところで、この地に君臨していた葛城氏とは、一体、どのような豪族だったのか。「葛城王朝」の名が残っているくらいなので、相当の勢力があったと思われるのですが、調べれば調べるほど、諸説紛々。結局よく分かりませんでした。

一説には、弥生時代の中期、金剛山麓の丘陵地にいた「葛城族」が、平地にいた「鴨族」を統合し、葛城王朝を樹立させたとあり、初代・神武天皇から三代・安寧天皇までは、葛城氏であったと言います。

それを裏付けるかのように、コース途中の杉木立の中に、第二代・綏靖(すいぜい)天皇の高丘宮跡伝承地があるのです。が、なにしろ、神と人間が混在していたような時代の話なので、真偽のほどは不明。

しかし、時代を超えて、様々に混ざり合った土地の記憶が、この道のそこかしこに、息づいているのを感じます。

「葛木山」の麓に誕生したという葛城王朝は、「幻の王朝」と形容されるだけに、いつの間にか足跡が途絶えてしまい、葛城氏の名が歴史に再登場するのは、4世紀末の「葛城襲津彦(そつひこ)」。対朝鮮外交上の将軍として活躍した人物として伝わっています。

また、その娘「磐媛(いわのひめ)」が、第16代仁徳天皇の后となるなど、5世紀には、天皇の外戚として勢力を持ったものの、その後は大和朝廷によって滅ぼされ、早い時代に歴史の表舞台から姿を消してしまうのです。

葛城古道が多くの人々にロマンを感じさせるのは、こうした葛城氏のミステリアスな歴史と関わっているのかもしれません。

(上: 日本史の揺籃期から登場する葛城古道の風景)

・・・つづく・・・

 


葛城古道(1)---古代の記憶を秘めた農の風景(奈良県)(再編)

2020-08-14 | 古道

奈良県南西部。大和と河内(大阪府)の国境に、北から南に連なる葛城・金剛の山並み。現在は葛城山(標高959m)と金剛山(1,125m)とに呼び分けられていますが、その昔は2つの峠を合わせて「葛木山」と呼び、霊山として崇められていたそうです。

その東麓一帯は、古代の豪族・葛城氏の本拠地として知られ、遠い昔、記紀の時代の物語を今に伝えながら、一筋の古道が続いています。

(上: 豊かな農の風景が広がる中に続く葛城古道)

出発は近鉄御所(ごせ)駅。駅前から葛城山ロープウエイ行きのバスに乗り約10分、「猿目橋停留所」で降ります。

眼前に迫る「葛木の山々」には、古代、託宣の神「一言主神」が住むとの伝承があり、また、修験者の祖とされる「役小角(えんのおづぬ)は、「葛木山」の呪術師であり、鬼神を駆使して、吉野の金峰山と「葛木山」の間に、岩橋を架けさせたという話も伝わっています。

「葛木山」の名の由来については、『日本書紀』の中に、「この山に手足の長い土蜘蛛(実は土着の原住民と言われる)が住んでいて、暴れ回ったので『葛』つまり、ツタで編んだ網で捕まえた、というところから、この名が付けられた」とあるそうです。

さて、葛城古道の起点は、猿目橋バス停の近くにある「六地蔵」。幅2メートル、高さ1メートルほどの巨石に、六体の地蔵尊が刻まれているもので、室町時代の作とありますが、風化してわずかに輪郭だけが残された姿に、時代が感じられます。

(上: 葛城古道の一方の起点となる「六地蔵」)

ここからは道標に従い、田圃の畦道に入り、複雑に曲がりくねった道を歩くことになりますが、要所要所には道標があります。(ちょっと見にくい箇所もあるので要注意)。

秋の一日。道の両側に広がる田圃は、収穫期を迎え、たわわに実った稲穂の黄金色と、収穫を終えて休眠に入った田圃とのパッチワーク。

右を見れば、段々と上って行く棚田が、葛城山の裾野に溶け込み、左を見れば、段々と下がった先に御所の町並み。目の前をキジがトコトコと、横切って行きました。

このあたり、初秋には彼岸花の大群落が見られるとか。

特産の自然薯「やまといも」の畑を通り抜け、棚田を少し上り始めた先に立っている、ちょっと不思議な柱のようなもの。(下の写真)

(上: かつて棚田農業を支えた知恵の産物が、今は風景のアクセントに)

それは「番水の時計」と呼ばれる用水配分の基準時計です。この地域は棚田の傾斜がきついので、少し天気が続くと、用水不足になりがち。そこで以前は、この時計に合わせて、田圃に水を入れる時間を決めていたのだそうです。

今は用済みの時計ですが、田園風景のアクセントとして第二のお役目を果たしています。

「番水の時計」から、左前方に目をやると、木立の中に瓦屋根が見えます。「九品寺(くほんじ)」です。聖武天皇の時代に行基が開創、後に空海が中興したという古刹で、かつて葛城山系に栄えた「戒那千坊」の一寺。

しかし、今では、そうした由緒よりも、千体地蔵の寺として知られているようです。

本堂裏から裏山へとジグザグ上って行く、小径の傍らにずらりと並び、そして裏山の一画に、雛壇状にぎっしりと並んだ石仏は、総数2,000体にも及ぶということで圧巻です。

(上:九品寺の「千体地蔵」。一体一体に込められた願いを思う)

カラフルな前掛けが愛らしいこの石仏は、南北朝時代に、城主・楢原氏が、楠木正成とともに南朝に味方し、北朝と戦った時に、家族や地元の人々が身代わりに奉納したと伝わるもの。石燈籠の笠の上には、何故か石彫りのミミズクがのっかっています。

九品寺境内の高台から見下ろせば、遠い山々の重なりに囲まれた奈良盆地の中に、天香具山、畝傍山、耳成山の大和三山が、小島のように浮かんで見え、心は万葉の世界へ。

---つづく---

 

注=御所駅から「猿目橋」へのバスは本数が少ないので、事前の時刻確認をお薦めします。

 


松島・霊場の記憶を留める景勝地③「五大堂~遊覧船~塩竃神社」---宮城県(再編)               

2020-08-08 | 霊場

円通寺から、再び海岸に戻ると、左手に見える小島に建つのが、松島のシンボル五大堂。その歴史は古く、大同2年(808)、坂上田村麻呂が東征の折りに、毘沙門堂を建立したのが始まりと伝わります。

(上: 小島に建つ五大堂)

坂上田村麻呂は、この場所からの海の眺めに感嘆し、堂を建てる決心をしたということ。後に、慈覚大師円仁が延福寺(後の瑞巌寺)を開創した際、五大明王像を安置したことから五大堂と呼ばれるようになったそうです。

その時、坂上田村麻呂が祀った毘沙門天は、光を発して沖合の小島に飛び去り、その島が毘沙門島と呼ばれるようになったという伝説もあります。

現在の五大堂の建物は、伊達政宗が瑞厳寺再興に先立って再建。東北地方では最古の桃山建築ということです。三間四方、単層宝形造りのいうもので、軒内の周りを飾る十二支の彫刻は、方位に従って配置されているそうです。

お堂の扉は普段は閉じられていて、ご開帳は33年に一度。最近のご開帳は平成18年だったので、次回はまだずっと先ですね。

五大堂に渡る橋は、橋桁の間に隙間のある、透かし橋になっているので、歩くのにちょっと注意が必要ですが、そこには「足元を見つめて、気を引き締める」という意味が込められています。

そして最後は、松島観光の白眉、遊覧船の乗っての島めぐりとなります。

遊覧船のコースは、いろいろありますが、私が選んだのは、やっぱり芭蕉も辿った、松島と塩竈(しおがま)を結ぶ航路、その名も「芭蕉コース」です。

もっとも芭蕉の場合は、塩竈から「船を借りて松島に渡る。その間二里余、雄島の磯に着く」という逆コースでしたが・・・。

観光桟橋を出港すると、すぐに大小様々な島が、次々に目の前に迫ってきます。遠くから眺めた時は、島々が集合体として、見事な景観を創り出していたのですが、海上に出て間近に見ると、灰白色の岩頭に、緑の松林を抱いたコントラストも美しく、一つ一つの島の形や表情に目を奪われます。

千貫島、在城島、兜島、鐘島、鷺島、夫婦島・・・。島の名前には、伝承によるものと、その姿から名付けられたものがありますが、どれも浸食によってできた形が、さながら自然の芸術品。

特にユニークなのが、仁王島。形が仁王像に似ているので、その名が付いたと言われますが、むしろ前衛彫刻家が創作した人物像のよう。船内放送でも、「目も口もあり、口にはタバコをくわえ、頭にはベレー帽を・・・」と紹介されていました。

(上: 仁王島は、浸食作用がもたらした究極の前衛芸術品?)

右に左に現れる島々に目をやるうちに、あっという間の50分で、塩釜(しおがま)港・塩釜マリンゲートに到着。旅の締めくくりに、芭蕉に倣い、「鹽竈(しおがま)神社」に参拝。(余談ですが、「しおがま」の漢字が、それぞれ違うんです。)

平安時代初期には、すでに重要な地位を占めていたと伝わる陸奥国一の宮・鹽竈神社。小高い丘の上、深い森に囲まれて鎮座する社殿群は、『奥のほそ道』の記述にあるように、「宮柱は太く、彩色した垂木はきらびやか。石段は高く連なり・・・」と壮麗な姿。

(上: 奥に見えるのが本殿)

その中にあって、拝殿の奥に垣間見える木造素木造り檜皮葺の本殿が、一層、古社の風格を漂わせ、「かかる道の果て、塵土の境まで、神霊あらたかにましますことこそわが国の風俗なれと、いと貴けれ」と、感動する芭蕉の姿が重なります。

---終わり--