日本庭園こぼれ話

日本の歴史的庭園、街道、町並み。思いつくままに
Random Talks about Japanese Gardens

セミと言えば「山寺」---山形県(改編)

2020-09-20 | 古道

「閑(しづ)かさや 岩にしみいる 蝉の声」

ちょっと時期ハズレになりましたが、耳にかぶさるように鳴いている、暑苦しい蝉の声を聞きながら、いつも思い出すのは、この俳句。松尾芭蕉が『おくのほそ道』で詠んだ数々の名句の中でも、もっとも有名な句の一つです。

この句の舞台は、「山寺」として親しまれている山形県立石寺。山形駅から仙山線で約15分、山寺駅で下車すると、眼前に迫る奇観。駅の前方正面に聳える山全体が目指す「山寺」です。

山寺は、正式には宝珠山立石寺(ほうじゅさんりっしゃくじ)といい、貞観2年(860)、清和天皇の勅願により、延暦寺の別院として、慈覚大師が開いた天台宗の名刹。山の所々に、巨大な奇岩が露出し、いくつもの堂宇が点在しています。

登山口を入った正面にある大きな建物は、根本中堂(重要文化財)。初代山形城主・斯波兼頼が再建したもので、ブナ材の建築物としては、日本最古といわれているそうです。その隣には、あの芭蕉の「閑さや・・・」の句碑が。

(上: 根本中堂)

そして、鎌倉時代の建立という山門をくぐると、そこからは長い階段が続きます。

(上: 山門)

1,000段以上あるという話を聞いただけで、くたびれてしまいそうですが、次々に現れる由緒ある堂宇や、深い緑の中に覗く岩肌の奇観に目を奪われ、実際にはそれほど大変な行程ではありませんでした。

山寺は山形県で人気のある観光地の一つ。訪れたのは暑い時期でしたが、にもかかわらず、かなりの人出でした。しかし、山中の深い木立に雑音が吸収されてしまうのか、人が多い割には、森閑とした雰囲気。蝉の声が岩にしみいるのが実感できるかも。

四寸道、せみ塚、弥陀洞、仁王門など、それぞれに由緒ある場所を通り、いくつかの支院が並んだ参道を過ぎて、さらに登ると、頂上の奥の院と大仏堂に到着。途中で道を左に折れると、開山堂と五大堂があります。五大堂からの眺めは絶景!

(上:1,000段の階段を登って辿り着いた先には、絶景が待っている)

芭蕉は旅の途中、人々に勧められ、逗留していた尾花沢という所から7里の道を、予定とは逆方向に引き返して、ここを訪ねたのでしたが、その芭蕉の満足感が伝わってくるような・・・・。

(上: 芭蕉と曾良の像)

 


熊野古道と熊野三山・・・日本人の宗教観の凝縮 (再編)

2020-09-14 | 古道

「紀伊山地の霊場と参詣道」は、日本固有の宗教文化を表すものとして高く評価され、ユネスコの世界遺産に登録されています。

「紀伊山地の霊場と参詣道」は、「高野山」「吉野・大峰」「熊野三山」とその参詣道で構成されていますが、今回ご紹介するのは、「熊野三山」です。と言っても、広い地域に点在する熊野の聖地のハイライトを、観光バスで巡っただけなのですが・・・。

朝早くに東京を出発し、名古屋で新幹線からバスに乗り換え、紀伊半島の東海岸に沿って延々と下り、南端近くから、今度は半島の中央部に向かって、山々を縫うように進み、最初の目的地の「熊野本宮大社」に到着した時は、もう日暮れ近くになっていました。

「熊野三山」とは「熊野本宮大社」「熊野那智大社」「熊野速玉大社」という3つの神社の総称。そして「熊野古道」として知られる熊野詣での、すべての参詣道の終着点が、この熊野本宮大社です。

熊野本宮大社の社殿は、もともとは熊野川の中洲に建てられていたそうですが、明治時代に大洪水によって押し流されたため、近くの丘上のこの地に移築されたということ。

インドの神に起源をもつ熊野三山の御祭神は、「熊野十二所権現」という十二の神々ですが、主神は、「スサノオノミコト」「イザナギノミコト」「イザナミノミコト」です。

熊野本宮大社は、そのうちの「スサノオノミコト」を主神としていますが、平安時代の神仏習合により、祭神の「本地仏=本来の姿」は「阿弥陀如来」と定められました。それにより、熊野は浄土信仰の聖地ともなったようです。そんな背景に思いを馳せれば、夕日に照らされた社殿が、いっそう神々しく見えたことでした。

翌日の訪問地は、まず熊野古道でもっとも有名な「大門坂」。熊野詣でが盛んだった頃の石畳の道が残る参詣道が、巨木を交えた杉木立の中を「熊野那智大社」へと続いています。

そして落差133メートルという雄大な「那智の滝」。那智大社は、昔、この滝の滝壺近くにあったと言われ、滝自体がご神体になっています。熊野では、巨木や巨岩、大滝に宿る神の存在を信じ、畏敬の念を抱くといった古代自然信仰と、神話の世界の国造りの神々、さらには仏教思想が混在一体となって信仰されているのを実感します。その意味で、那智の滝は、熊野信仰の原点と言えるでしょう。

(上: 那智の滝への入口)

133メートルという、直瀑としては日本一の落差をもつ滝の姿は圧倒的で、古代の人々がそこに神の姿を見たことは、十分に頷けます。

現在、那智大社は丘の上に移動していますが、滝は「那智大社の別宮・飛瀧(ひろう)神社」のご神体となり、ここには「オオクニヌシノミコト=千手観音」が祀られているそうです。

そして那智大社の本宮は、四百数十段の石段を登った先にあります。三山の社殿のうち、最も古式を保つ構造というのが、那智大社の社殿です。

境内には、クスの巨木が天に向かって枝を伸ばし、8メートルという太い幹の根元には、人がくぐれるほどの空洞がありました。

 

那智大社の主神は「イザナミノミコト」で、ここでも本地仏は「千手観音」。同じ神域に、西国三十三所観音巡礼の第一番札所である「青岸渡寺」があります。

三重塔と那智の滝のツーショットは壮麗。

 

最後は「熊野速玉大社」。これまでの訪問地は、山中にあり、長い石段の上り下りがきつかったのですが、ここは海に近い平地にあり、これまでの二社とは異なる、明るい雰囲気が印象的。

 

発祥は、海の守り神への信仰と伝わっています。

境内には「ナギ」がご神木としてあります。平重盛が植えたものと伝わり、ナギの木としては日本一の巨木だそうです。

また、境内には、歴代上皇たちの熊野御幸を伝える石碑があり、歴代上皇の熊野参詣への思いが伝わってきます。

上皇の熊野御幸は、10世紀初頭の宇田上皇に始まったとありますが、後白河上皇は最多の34回、後鳥羽上皇は、在位24年間のうちに28回も熊野詣でをされたそうです。現在のような交通の便がなかった時代における、その回数の多さに驚かされると同時に、当時の人々が抱いた聖地としての熊野への憧れが、並々ならぬものだったことを実感します。

また、『日本書紀』によれば、初代天皇に位置づけられる神武天皇が東征の際に、熊野国から大和国への道案内をしたのが、熊野神の使いである、3本足の「八咫烏(ヤタガラス)」だったということ。そうした伝説も、上皇たちの熊野信仰の篤さに結びついているのかもしれません。このヤタガラスが、時代を超えて、日本サッカー協会のシンボルマークとなっていることは、ご存知の通りです。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


山の辺の道(終)---日本人の信仰揺籃の地(奈良県)

2020-09-07 | 古道

景行天皇陵を過ぎると、道の両側は再び畑。その中を通る一本の道の正面に、優しい山容の三輪山が姿を見せます。標高467メートル。高い山ではありませんが、古代から神の山として崇拝されてきただけに、いかにも神々しい感じがします。

(上: 山の辺の道もそろそろ終盤、三輪山が原初的信仰の象徴として、美しい山容を見せる)

道の傍らの歌碑は額田王の歌。「三輪山を しかも隠すか 雲だにも 情けあらなも 隠さふべしや」は、7世紀半ば、額田王が大和への惜別の気持ちを詠んだものとか。

大和との別離を三輪山との別離に重ねたところに、大和の土地神として、三輪山に抱いていた古代人の特別な思いを偲ぶことができます。

一度大きな道路と交わった後、山の辺の道は、山道へと入って行きます。高台の木々の間に開けるのは、『古事記』に「大和は国のまほろば たなづく青垣・・・」と記された眺望。

遠くに生駒山地、矢田丘陵、すぐ手前には景行天皇陵、右手には巻向、三輪の山々など、幾重にも、緑の垣根に囲まれた様を実感します。

そして「桧原(ひばら)神社」に到着。この先の「大神(おおみわ)神社」の摂社で、同じく三輪山を御神体とするため、社殿はなく、独特の形をした「三ツ鳥居」だけが、山を背に立っています。

(上: 桧原神社の三ツ鳥居)

この神社の別名は「元伊勢神社」。すなわち伊勢神宮の前身であると言われています。

神話関連の記述によれば、この地域の先住民は、三輪の神である「大物主(おおものぬし)神」を信仰していたが、そこに「天照大神」を守護神とする崇神天皇の一族がやって来て、この地を治めようとした。

しかし、うまく行かなかったため、崇神天皇は大神神社には、地元古来よりの大物主神を祀り、摂社の桧原神社に天照大神を祀ることにして、ようやく統治に成功したということ。その後、天照大神が伊勢神宮に遷されたのは周知の通り。

桧原神社からは、奈良盆地の眺めが素晴らしく、特に夕方、正面の二上山に沈む夕日は絶景と言われています。

そして、古道ウォークも、いよいよラスト。桧原神社から、最後の目的地「大神(おおみわ)神社」に向います。

途中、林の中に、ひっそりと佇む小さなお寺「玄賓庵(げんびんあん)」は、三輪の神々のロマンを描いた謡曲『三輪』の舞台。

平安時代に興福寺の高僧・玄賓が隠れ住んだ庵が起源とか。

さらに進んで、これも大神神社の摂社である狭井神社に参拝。病気平癒の神として昔から信仰されているそうです。狭井神社から、大神神社までは、あとわずか。

鬱蒼とした森に囲まれて鎮座する大神神社は、わが国で最も古い神社の一つ。三輪山をご神体とするため、本殿はなく、拝殿のみがあります。

 

 

 

 

 

 

 

 

(上: 数々の伝承に彩られた大神神社は、古代信仰の形を今に伝える)

大神神社をめぐっては、神話や伝承が様々ありますが、それは後世のもの。それよりも、この地に立つと、すべての自然に神が宿るとし、畏敬の念を抱いていた、われわれの遠い祖先たちの自然観が、現代にも生きているのを感じます。

参拝の後は門前にて、またまた三輪素麺。祭神・大物主神が、奈良時代の大飢饉の時、人々を救うために教えたのが始まりと伝わる本場の三輪素麺は、やっぱり美味。日本の原風景に、心が洗われる山の辺の道です。

 

※ 大神神社からJR三輪駅まで徒歩5分。

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山の辺の道(2)---古墳群を縫うように続く道(奈良県)

2020-09-03 | 古道

前回の「夜都岐(やとぎ)神社」から少し歩くと、「竹之内環濠集落」があります。乱世の時代、外敵から村を守るために、周囲に濠を築いたという集落です。

(上: 防衛のための濠の名残が見られる竹之内環濠集落)

ずっと以前に訪れた時には、その様子がもっと顕著に見られた記憶があるのですが、今では濠の大半が埋め立てられて、わずかに名残を留めるだけになってしまいました。しかし、古風な家並みや、土塀、細い路地は風情豊か。

さらに先に進むと、やはり濠のある「萱生(かよう)環濠集落」に至ります。この付近は、奈良盆地でも有数の古墳密集地帯で、「萱生の千塚」と呼ばれるほど。

(上: 萱生環濠集落。右手のみかん畑の小山も古墳でしょうか)

その中で最大の古墳が、全長140メートルの前方後円墳「衾田(ふすまだ)陵」です。集落を抜けた畑の中に横たわっていました。昔の地名から名付けられたというこの古墳は、6世紀の継体天皇の皇后・手白香皇女陵とされるもの。

(上: 衾田陵。山の辺の道の景色をつくる古墳群は、その主についても夢                が広がる)

ただし考古学的には、古墳は4世紀のものという結論が出ているそうで、伝承とは隔たりがあります。しかし、その優美さは、いかにも皇女の陵墓にふさわしい姿です。

次の目的地、長岳寺まであと700メートルという道標の近くに、万葉歌人・柿本人麻呂の歌碑(下の写真)がありました。「衾道(ふすまじ)を 引手の山に妹を置きて 山路をゆけば 生けりともなし」

(上: 道沿いに点在する数多くの歌碑が、過去と現在を繋ぐかのよう)

天理から桜井までの約15キロの道のりの、半分程を歩いたところにあるのが「長岳寺」。寺伝によれば、天長元年(824)、淳和天皇の勅願により、弘法大師が、「大和(おおやまと)神社」の神宮寺として創建したという名刹です。

盛時には48ヶ坊が建ち並ぶ大寺院であったという面影はありませんが、眺めの良い高台に敷地を有し、残されたいくつかの堂宇や仏像が、その由緒を物語っています。

風格のある楼門は、創建当初のもので、日本最古の鐘楼門ということ。また、本尊の阿弥陀三尊像は、玉眼を使用した仏像としては、わが国最古のものだそうです。などなど、この山の辺の道筋には、「日本最古」と付くものが実に多いです。

(上: 長岳寺・鐘楼門=パンフレットより)

今は庫裡として使われている旧地蔵院の建物は、室町時代の書院造りの様式を留めた優雅な意匠。屋根が杉皮を用いた「大和葺き」であるのが珍しいとか。ここには建物によく似合う「鶴亀の庭園」があります。

 (上: 長岳寺庭園)

庫裡は食事処にもなっていて、名物の三輪素麺を出しています。春から夏にかけては、サクラ、ツツジ、カキツバタ、アジサイ、あるいは秋の紅葉、冬のヤブツバキと、四季折々の花の名所としても知られる古刹です。

大小の古墳を縫うように、道はなおも続き、右手のはるか彼方には、金剛・生駒の山々が連なり、霞がかかった盆地の中に、畝傍山・香久山・耳成山の大和三山が浮かぶように現れるのを見る時、古代人の眺めた光景と同じ景色を見ているのだという感慨を強くするのでした。

この先は、前期大型古墳の集中地帯。まず目にするのが、全長240メートルの前方後円墳。『古事記』、『日本書紀』の中で、最初の天皇と呼ばれている「崇神天皇」の陵とされるものです。

その先が、4世紀の古墳として、わが国最大規模という前方後円墳。全長が300メートルというそれは、ヤマトタケルノミコトの父と伝わる第12代「景行天皇」の陵墓と言われています。

また山の辺の道からは少しはずれますが、先年、三角縁神獣鏡が大量に発掘されて話題になった「黒塚古墳」や、卑弥呼の陵墓という説もある巨大な「箸墓古墳」もこの地域にあります。

これら巨大古墳の集中は、4世紀のこの地に、神話の世界から抜け出し切れてはいないものの、強大な支配者の存在が確かにあったということを示唆しているようです。

そして今、青々とした常緑樹に覆われ、満々を水をたたえた濠に囲まれた古墳は、景色に深味を与え、古代と繋がるこの道の散策を格別なものにしています。

---つづく---