日本庭園こぼれ話

日本の歴史的庭園、街道、町並み。思いつくままに
Random Talks about Japanese Gardens

木曽路を歩く(3)・・・馬籠宿(改編)

2019-09-22 | 歴史を語る町並み

馬籠(まごめ)は木曽十一宿の最南端。馬籠峠から約3キロの、坂道の途中にあり、どうして、こんな急勾配の土地に宿場ができたものか。妻籠宿同様、入口には高札場があり、そこから600メートルほど続く町並みが形成されています。

(上: 馬籠宿の入口。右手奥に高札場)

(上: 急な坂道の途中にある馬籠宿)

街道には石畳が敷き詰められ、その両側に築かれた石垣の上に家々が並んでいる様は、何か城塞の町を思わせ、古いヨーロッパの町並みにも似ています。

(上: 石畳と石垣がヨーロッパの古い町を彷彿させる)

明治28年に大火があったそうで、町並み自体は新しいのですが、宿場町の外観を大切にした再建によって、往時の雰囲気がよく保たれています。

(上: 風情豊かな宿場の町並み)

石畳の坂道を下って行くと、右側に「馬籠脇本陣資料館」。脇本陣としての建物は焼失してしまいましたが、唯一、宝暦年間(1753)に坪庭に組まれたと伝わる石垣が残っています。亀甲形の切石を、きっちり積み上げた、曲線の美しい石垣で、石1つが米1俵だったという高価なもの。

資料館の2軒ほど先、町の中心あたりに、「藤村記念館」があります。ここは島崎藤村の生家、馬籠本陣の跡地。明治の大火で類焼し、隠居所のみが残って、あとは畑地になっていたのを、昭和20年頃、文豪・藤村を顕彰するものをということで、土地の有志が中心となり、谷口吉郎氏(近代数寄屋で知られる建築家)に設計を依頼、工事には村人が協力して、昭和22年に完成しました。

(上: 馬籠本陣だった当時の外観が復元された藤村記念館入口)

正門の冠木門と黒板塀を復元。正面の白壁の障壁には、「血につながるふるさと、心につながるふるさと、言葉につながるふるさと」と、藤村の言葉が書かれた扁額が掲げられています。

(上: 藤村関連の膨大な史料を展示する記念館)

記念館の隣で喫茶・民芸店を営む大黒屋は、『初恋』のおふゆ様の生家。

「山の中とは言いながら、広い空は恵那山の麓の方にひらけて、美濃の平野を望むことのできるような位置にある。何となく西の空気も通って来るようなところだ」(『夜明け前』より)

(上: 広い空が開ける木曽路の終わり)

宿場の坂道の途中から眺めると、はるか下方まで、広々と空が開け、木曽路の長い谷を抜け出たことが実感されます。馬籠の次の宿場の「落合宿」は、もう岐阜県です。

 

* アクセスなど詳しい情報は、馬籠観光協会のHPを参照ください。

* カテゴリーは、「歴史を語る町並み」にしましたが、もちろん、木曽路は「古道」でもあります。

---「木曽路を歩く」終わり---

 


木曽路を歩く(2)・・・妻籠から馬籠へ(改編)

2019-09-15 | 古道

妻籠宿から馬籠宿までは、約8キロ。もらった地図を頼りに、妻籠宿の町はずれの町営駐車場から、右手の細い道を入って行きます。

まもなく中山道と飯田街道の分岐点に立てられた「橋場の石柱道標」があり、そこから上り坂。その短い坂の上は、由緒ありげな「神明茶屋」。

それから石畳の道を下って、神明橋を渡ると、「大妻籠(おおつまご)」の集落。山里に、見事な卯建(うだつ)のある民家が並んでいます。

(上:大妻籠の集落。防火壁の袖卯建(そでうだつ)が景色をつくっている)

歩き始めてから、ここまで2キロくらいなのに、登り坂が多いので、もうヘトヘト。でも元気を与えてくれるのが、素晴らしい風景。このあたりの棚田を前景にした山々の眺めは爽快で、疲れが吹き飛ぶというもの。

この後、道はいよいよ山の中。道標に従って細い道を下ると、眼前に滝が。岩肌を滑るように落ちる清涼感いっぱいの、それは「男滝(おだき)」。すぐそばに「女滝(めだき)」もあり、このルートのハイライトの1つ。吉川英治の小説『宮本武蔵』にも登場するとか。

(上: 山中でホッと一息の男滝の眺め)

道はバス道路と交差しながら続き、再び山中へ。傍らに「中山道」と刻まれた石碑が立ち、石畳の道が、ヒノキ林の奥へと続いています。『夜明け前』の冒頭にある「木曽路はすべて山の中である」を象徴するかのような街道の風景です。

(上: 木曽路を象徴する風景)

すっと天に伸びた幹が美しいヒノキの間を歩いて行くと、目の前がパッと開けて、田圃の中の一本道といった景色に変わり、前方に何か関所のようなものが見えてきます。

ここは「一石栃(いっこくとち)白木改め番所」の跡で、明治2年まで、ヒノキ、サワラなどの木曽五木をはじめとする伐採禁止木の出荷統制を行っていたところです。

(上: 木曽五木の厳しい統制を物語る一石栃白木改め番所跡)

 ここまでくれば、馬籠(まごめ)峠までもう一息。標高790メートルの峠からの眺めもまた雄大。(下の写真)

ここからバス道路を少し下って、右手の脇道に入ると、開放的でのどかな山村の風景が開け、あとは下るのみ。間近に迫る山峰を仰ぎながら、ずんずん下って、やがて眼下に「馬籠宿」の町並みが。

(上: 峠を越えれば、のどかな山村風景が開け、馬籠宿まであとわずか)

 実のところ、途中では、馬籠宿側から妻籠宿に入った方が、下りが多くて楽だったのでは?と後悔していたのです。でも馬籠宿が見えた時の感動は、つらい道中(?)があったからこそ・・・。というわけで、私は妻籠から馬籠へ抜ける行程がおすすめ。約8キロの道を2時間半ほどかけて馬籠宿に到着。

 

 

 


木曽路を歩く(1)---妻籠宿(改編)

2019-09-01 | 歴史を語る町並み

江戸から信州経由で京に至る中山道の途中に、木曽路十一宿があります。その一つ「妻籠(つまご)宿」は最も往時の面影を留め、また、現在、全国的な広がりを見せている「町並み保存運動」の先駆的存在でもあります。

妻籠宿は、江戸から42番目の宿場。約500メートルの道筋の両側に、その町並みが保存、改修されています。(下の写真)

宿場の入口には、昔の高札場が復元されています。これは現在でいう「官報掲示板」。見上げるほど大きな掲示板に、様々なお達し事項を書いた木の札が、たくさん取り付けられています。

 (上: 町の入口に立つ高札場)

妻籠の町並みは、ここから「下町」「中町」「上町」。そして「枡形」があって、その先が「寺下」という構成。

中町のとっつきあたりの右側に、豪壮な構えの屋敷があり、それが「脇本陣・奥谷(おくや)」。現在は、郷土館として一般公開されています。

(上: 南木曾町博物館となっている「脇本陣・奥谷」)

現在の建物は、明治10年に再建されたもので、それまで「檜一本、首一つ」と言われるほど厳しく保護されてきたヒノキ材を、ふんだんに使い、贅を尽くした建築には、財力の豊かさが窺われます。

屋号を奥谷といった林家は、島崎藤村と深い関係があり、『夜明け前』に登場する他、詩集『若菜集』の「初恋」の少女というのが、この林家に嫁いできた「おふゆ様」だそうです。資料館としては、こうした藤村文学の関係資料や、妻籠の歴史資料が見どころ。

(上: 妻籠宿本陣)

脇本陣・奥谷の斜め向かいは、妻籠宿本陣です。代々本陣を務めた島崎家は、藤村の母の生家で、最後の当主は藤村の実兄という、ここもまた島崎藤村ゆかりの地。建物は、平成7年の復元です。

(上: 卯建のある家々)

このあたりは、町の中心部で、道幅が広く、建物の構えも大きく、家と家との間に白漆喰壁の卯建(うだつ)が張り出した造りが並び、華やかな雰囲気。

(上: 当時の町並みの様子を今に伝える妻籠宿)

本陣の先、道路は大きく曲がり、これが「桝形」の跡。敵の侵入を阻むために道を直角に折り曲げたもので、城下町や宿場町ではお馴染みの地形。

桝形跡を左に上がった「光徳寺」は、高い石垣と白壁に囲まれて、お寺というよりお城のような印象。かたわらの枝垂れ桜が見事です。

(上: 光徳寺参道)

一方、桝形跡から右に下りて行くと、そこは光徳寺の門前町を形成する寺下の町並み。江戸時代の宿場景観がそっくりそのままにあります。

(上: 桝形跡と寺下の町並み)

明治以後の交通改革によって、宿場の機能を失い、衰退の一途にあった妻籠は、昭和40年、国道拡張計画のために、家並み移転か、バイパス建設かの選択を迫られます。

それが保存運動の発端となり、昭和43年、長野県の明治百年記念事業の1つとして、妻籠宿保存事業が採択され、最初に対象になったのが、この寺下地区の町並みです。

「妻籠を愛する会」が組織され、「売らない、貸さない、壊さない」を信条に、地元住民を中心とした保存事業が始まりました。そして昭和51年、最初の「重要伝統的建造物群保存地区」選定の対象となり、妻籠全域にわたる景観整備に発展したのでした。

寺下の家並みの特徴は、木造平入りで、二階部分が一階部分より前にせり出した「出梁(だしばり)造り」というもの。

(上: 出梁造りの家が軒を連ねる寺下の町並み)

「旅籠・松代屋」の軒下にずらりと掲げられた「御嶽講」の招き看板、馬屋の前の水飲み場など、細部に至るまで宿場情緒が漂う町並みは、セピア色の風景画を見るよう。

 

* アクセス、拝観案内など、詳しくは妻籠観光協会のHPをご参照ください。