日本庭園こぼれ話

日本の歴史的庭園、街道、町並み。思いつくままに
Random Talks about Japanese Gardens

黒石市・雪国が育んだ「こみせ」の街並み・・・青森県(改編)

2022-02-23 | 歴史を語る町並み

黒石市は江戸時代初め、陣屋を中心に町並みが整備され、弘前と青森を結ぶ浜街道の中継地点として発展、街道沿いには大規模な商家群が建ち並びました。それが現在の中町通りで、平成17年(2005年)に重要伝統的建造物群保存地区に指定されています。

(上: 中町通りの「こみせ」の街並み)

駅から7~8分ほど歩いて中町通りに出ると、道路に面した町家の庇部分が大きく張り出した「こみせ」と呼ばれる街並みが続き、時間が数十年前にタイムスリップしたような気分。

「こみせ」は、建物の表通りに設けられた「ひさし」のことで、今風に言えばアーケード。冬期には、道路側の柱の間に板戸や障子戸を落とし込んで、雪や風の吹き込みを避ける構造です。青森県や秋田県では「こみせ」と呼ばれているとのことですが、私の故郷の新潟県では「雁木」と呼ばれていました。

雪国に住む人々の暮らしの知恵が生み出した、この美しい街並みは「日本の道100選」「美しい日本の歴史風土100選」にも、その名を連ね、「手づくり郷土賞・大賞」「美しいまちなみ・優秀賞」も受賞しています。

(下: アーケードの柱の間に戸をはめる敷居がある)

この「こみせ通り」では、高橋家住宅など由緒ある商家が、その歴史を伝えていますが、その一つ、酒造業を営む「鳴海家住宅」には、明治20年頃の作庭という大石武学流庭園(平成19年=2007年、登録記念物に指定)が残されています。

(上: 鳴海醸造店の正面)

大々的には公開されていないので、恐る恐る拝観の可否を尋ねると、ご主人が快く店の奥にある庭園に案内してくださいました。

庭園はT字型で、樹木が茂りすぎている感がありましたが、母屋の座敷前に立つと、まさしく大石武学流の定法通りの様式。沓脱石から二方向に打たれた飛石が、一方は蹲踞に、一方は池の前に据えられた大ぶりの礼拝石に延び、池の対岸の枯瀧石組や景石など、大きな石が要所に配されている、という造形が見てとれます。小幡亭樹が作庭を開始し、後に池田亭月が完成したと伝わる庭です。

(上: 狭い空間ながら、大石武学流の定番構成が凝縮されている鳴海氏庭園)

実は黒石市には、平成18年(2006年)に国の名勝に指定された大石武学流庭園「澤成園(さわなりえん)」があるのですが、私が訪れた時は、保存修復中で拝観が叶いませんでした。しかし、工事が終了し、平成27年(2015年)から公開されているそうです。

余談ですが、黒石はまた、焼きそばの町。小さな町に60数軒もの焼きそば屋さんが軒を連ねているとか。そして、それぞれの店が独自の味を追求。バリエーション豊かな焼きそばがずらり。珍しいのが、昭和30年代に誕生したという黒石名物「つゆ焼きそば」。いわゆるソース焼きそばに、醤油味の和風だし汁をかけた一品です。

* 鳴海氏庭園の拝観については、鳴海醸造店さん、または青森県庁文化財保護課にお問い合わせください。


弘前市内散策・明治&大正時代の遺産を訪ねる・・・青森県(改編)

2022-02-16 | 歴史を語る町並み

弘前の街には、前回触れたように、江戸時代からの遺産が数多く遺されていますが、また、明治・大正の文化財も、たくさん目にすることができます。

弘前城追手門と道路を挟んで対面する追手門広場。ここには観光館や山車展示館など、モダンな意匠の建築が集まっているのですが、その中にあって、ひときわ目を引くのが、明治39年に建てられた「旧弘前市立図書館」。三階建て、八角形の双塔を持つルネサンス様式というもので、白壁に緑の窓枠、赤い屋根が美しい外観を見せています。

その隣は、青森県初の私学校・旧東奥義塾の外国人宣教師が住んでいた「外人教師館」で、明治33年の建築。一階はカフェになっています。どちらも内部の見学ができます。

(上: 旧弘前市立図書館。右端に見えるのが外人教師館)

旧弘前市立図書館の設計・施工は、堀江佐吉。青森県が誇る明治の名匠で、数多くの洋風建築を手がけたそうです。現存する代表作と言われるのが、青森県金木町の太宰治の生家・斜陽館と、弘前市の「青森銀行記念館」とのこと。

追手門広場に隣接して建つ格調高い洋館が、その青森銀行記念館(重要文化財)です。

(上: 青森銀行記念館)

旧第五十九銀行本店本館として、明治37年に建てられたもの。ルネサンス風の建築様式に従いながらも、日本の土蔵造りの構造を取り入れるなど、和洋の建築工法の融合が見られる建物です。内部は青森県産のケヤキやヒバ材をふんだんに使用し、主要な室内の天井には金唐革紙を貼るなど、重厚かつ豪華。

 

弘前市内には、古い教会も点在し、ゴシック様式、ロマネスク様式など歴史を感じさせる佇まいを見せています。青森銀行記念館近くにある「日本キリスト教団弘前教会」は、明治8年に創立された、東北最古のプロテスタント教会だそうです。

現在の建物は、明治39年に、パリのノートルダム大聖堂をモデルに、桜庭駒五郎が設計、堀江佐吉の四男・斎藤伊三郎が施工したとありました。

(上: パリのノートルダムをモデルにした日本キリスト教団弘前教会)

他にも、明治43年建築、ロマネスク様式の「カトリック弘前教会」や大正9年建築の、ゴシック様式の「弘前昇天教会教会堂」(下の写真)があり、日曜日、または特別な場合を除いて内部の見学もできます。

 

弘前公園の近く、「藤田記念庭園」の入口に瀟洒なたたずまいを見せている洋館は、弘前市出身の実業家で、日本商工会議所の創設者であり初代会頭であった藤田謙一氏の旧別邸。

大正10年の建築。設計は前出の堀江佐吉の六男・金蔵、施工は長男・彦三郎とのこと。弘前の建築史における堀江氏親子二代の存在の大きさを実感します。

(洋館裏面)

洋館から続く庭園もまた、見応えがあります。別邸建設の際に、藤田氏が東京から庭師を招いてつくらせたという庭園。

総面積約21,800平方メートル(6,600坪)という広大な敷地は、高台部と低地部の2段構成で、高低差が巧みに利用されています。

高台部は、広々とした芝庭で、木立がV字形になった視線の先に、岩木山が借景として雄姿を見せています。

(上: 写真では、見えにくいのですが、V字形の空間に、岩木山が見えました)

そこから斜面を下って行くと、崖地の部分を覆うシャクナゲの群落や、反り橋が景趣を添える滝を眺めながら、低地部の池泉回遊式庭園に至ります。

13メートルの高低差を最大限に利用し、豪快かつ表情豊かに落ちてくる滝は、見応え十分。

(上: 高低差を利用した斜面の構成が見事)

そして滝の水は流れとなって、八つ橋の架かったハナショウブ園を潤し、池へと注いでいます。池では、中島や橋、玉石を敷き詰めた州浜と雪見燈籠などが景をつくり、池畔の大きな礼拝石、飛石などとともに、大石武学流庭園を彷彿させます。

(上: 武学流を彷彿させる巧みな池畔の構成)

さらに高台部には、入口の洋館の他に、レンガ造りの倉庫を利用した考古館や書院造りの和館があり、また低地部には、茶屋「松風亭」があって、庭園の景と建物が相互に引き立て合っています。

 

* 大石武学流庭園は、津軽地方に独自に発展した庭園様式で、本ブログの別項でも、ご紹介しています。

* ここでご紹介した洋館・教会は、無料で見学できます( 青森銀行記念館と藤田記念庭園は有料)。但し、休館日が不定期(不定刻)だったり、要予約の場合もあるので、事前に各施設に、お問い合わせください。


弘前市内散策・江戸時代の遺産を訪ねる・・・青森県(改編)

2022-02-09 | 歴史を語る町並み

弘前市は、津軽藩の城下町。初代・津軽為信によって、慶長8年(1603)に計画され、二代藩主信枚が、慶長16年(1611)に完成させた「弘前城」は、明治の廃藩までの260年間、津軽藩政の中心であったばかりでなく、今も天守閣をはじめ、3つの櫓、5つの城門、たっぷりと水を湛えた三重の水濠が健在で、弘前公園として、街に潤いを与え、人々の憩いの場となっています。

(上: 追手門口の景)

 

49ヘクタールの面積を占める「弘前公園」は、市街地の北西に位置し、JR弘前駅からバスで10分ほど。公園の南側の入口が追手門口で、水濠と土手を覆う巨木が、市街のざわめきを吸収するのでしょうか。一歩中へ入ると、静寂感に包まれています。

 

 

 

 

 

 

 

 

(上: 弘前城)

江戸時代の遺産ではありませんが、弘前公園はまた、桜の名所としても有名です。これは明治末期頃から、市民による桜の寄贈が盛んになったもので、現在は、ソメイヨシノ、シダレザクラ、八重桜など、約2,600本余りの桜樹で埋め尽くされているとか。

 

(上: 日本最古のソメイヨシノ)

樹齢約120年という日本最古のソメイヨシノや、棟方志功画伯が「御滝桜」と命名したシダレザクラなどの名木をはじめ、巨木が多く、中でもシダレザクラの存在感が圧倒的。花の季節には、天から降る滝のような光景となることでしょう。

史料館となっている天守閣に、息を切らせて登り、津軽のシンボル・岩木山とご対面。津軽富士の異名が頷ける秀麗な山容が眼前にありました。

水濠と樹木が、随所に美しい景観をつくりだしている園内を散策し、北門から出て少し歩くと、「仲町(なかちょう)伝統的建造物群保存地区」。サワラの生垣と黒板塀が道路沿いに続き、江戸時代に「御家中屋敷」と呼ばれた武家屋敷の町並みを今に伝えています。

 

そのうちの4棟のお屋敷が、無料見学可能とのこと。

 

(上: サワラの生垣や黒板塀が土地の記憶を伝える仲町地区)

仲町から水濠の東側に回ると「津軽藩ねぷた村」です。「村」と言っても、藩の御蔵を一部改造してつくられたという観光施設で、弘前ねぷた祭りの大燈籠を展示した資料館と、津軽地方の伝統工芸品を紹介するコーナーなどで構成されています。

 

 

 

 

 

 

 

 

極彩色に描かれた勇壮な大燈籠は、迫力満点。祭りの時の掛け声とともに「残したい日本の音風景100選」に選定されている、笛と太鼓のお囃子サービス付きです。

民工芸品の体験コーナーや、津軽三味線の生演奏もあり、ここは津軽文化を丸ごと堪能できる施設です。

また資料館の中庭には、本ブログの他の項でもご紹介している、津軽特有の様式を持つ『大石武学流庭園』の1つ「揚亀園」があります。(下の写真=作庭は明治後期)

続いて、弘前公園から、南西方面に少し足を延ばすと、城下町につきものの寺町です。禅林街と新寺町と二筋あり、ずらりと由緒ある寺院が並び建っています。禅林街の最奥部にある長勝寺は、津軽藩主の菩提寺で、二代藩主によって建立された荘重な三門(重要文化財)が目を引きます。

新寺町近く端正な姿を見せる「景勝院五重塔」(下の写真)は、三代、四代藩主により、約10年の歳月をかけて完成した供養塔。国の重要文化財としては、日本最北端に位置する五重塔とか。

 

五重塔を仰ぎ見て、駅に戻る途中で、ふと目に入ったのが「富田の清水(しつこ)」の道標。見ると、道路端に小屋組があり、中が共同洗濯場のようになっています。案内によれば、江戸時代、四代藩主が越前より紙漉法を導入した際に、この清水が使われたのが始まりということ。

 (上: 江戸時代に紙漉に利用された清水が今も生活用水として活躍している)

昭和初期まで、紙漉に利用されてきましたが、その後は生活用水として使用されているもの。源泉からの流れが6つの水槽に仕切られ、最上流は飲用水に、次は米、青物洗い、洗面用と続き、一番下流は洗濯、足洗い用と、それぞれの用途が決められています。

一日の湧水量は、ドラム缶約720本分という豊富さ。今も地域の人々によって管理されているこの清水は、「名水100選」の1つに数えられています。

弘前の街には、このように江戸時代からの遺産が数多く遺されていますが、また、明治・大正の文化財も、たくさん目にすることができます。それはまた次回に・・・。

---つづく---

 

 * 「ねぷた祭り」は、地域によっては「ねぶた」と呼ばれているところもあり、地域の訛り方で違いが生まれたという説がありますが、他にも諸説あるようです。ちなみに、同じ青森県でも、弘前は「ねぷた」、青森は「ねぶた」と呼ばれています。

* 本文は最新情報ではありません。ご訪問の際は、公式HPなどでご確認ください。(特に、武家屋敷見学は、ご注意ください)

 

 

 

 


小江戸・佐原・・・千葉県香取市(改編)

2022-02-03 | 歴史を語る町並み

『小江戸』の定義は、「江戸と関わりが深い町」「江戸の風情を残す古い街並みを残している町」とのこと。

千葉県の北に位置する「佐原」は、江戸時代に、利根川水運の中継地として発展した商業の町であり、その面影を今に伝える町並みが、平成8年(1996年)に、関東では初めて「重要伝統的建造物群保存地区」に指定されています。

佐原はまた、日本で最初の実測地図を作った伊能忠敬の出身地でもあります。JR成田線佐原駅の駅舎を出ようとすると、足下に「伊能忠敬の歩幅」と記された足形がありました。その歩幅は約70センチ。かなり大きい歩幅で、日本全国を歩き回って実測したのですね。

駅から10分足らずで、保存地区のある小野川べりに出ます。歴史のある家々が、忠敬橋を中心に川沿いと、川と直角に走る道路に沿って並び、統一感がありながらも、それぞれ個性的な外観を見せてくれます。

(上: 風格のある構えを見せる中村屋商店)

忠敬橋のたもとにある「中村屋商店」は、安政2年(1855)建築という、荒物、畳表、雑貨商を営む店。二階の手摺り部分の金文字看板がお洒落。

その向かいには「旧油惣商店」。明治期建築の木造総二階建ての店舗に、寛政10年(1798)建築と伝わる、佐原で最古の袖蔵が隣接しています。

その並びの「正文堂書店」は、明治13年建築の、防火に有効な「店蔵」という土蔵造りの建築様式。明治25年に大火があったためか、ここでは土蔵造りの建物が多く見られます。

正文堂書店では、龍の彫刻のある看板が見事。昔の看板は味わい深く、町並み景観に一役も二役も買っているのに、現代の町では、看板が景観を損ねる存在になっているのは何故でしょう。

(上: 正面に龍の彫り物がある看板)

続いては、そば屋を営む「小堀屋本店」、隣が「福新呉服店」。同じく千葉県有形文化財に指定されている歴史的建造物で、それぞれ、代表的な佐原の商家建築を伝えています。 

忠敬橋から小野川に沿って、趣のある建物を眺めながら上流に向かうと、前方に木橋が架かっています。「樋橋(とよはし)」と名付けられた橋ですが、一般には「ジャージャー橋」と呼ばれています。

(上: 昔の水路橋を復元した「ジャージャー橋」は、その水音で風景を引き立てている)

元々それは、江戸時代の初期以来、佐原村の灌漑用水を、小野川の東岸から西岸に送るために架けた水路橋だったそうですが、その時に用水があふれ、滝のように川に落ちる様を現代に再現したのがこの橋。

ジャージャーと流れ落ちる心地良い水音は、環境省選定の「日本の音風景100選」に選ばれています。また、この橋自体も、国土交通省選定の「手づくり郷土賞」を受賞しています。

樋橋の両側には、伊能忠敬ゆかりの建物があります。伊能忠敬は日本地図をつくった人として有名ですが、それは50歳で隠居してからのことで、それまでは、養子で入った伊能家の当主として、佐原の名主・村方後見を務め、家業では醸造業や船運業に励んでいたそうです。

その店舗と母屋が樋橋の東のたもとに残されています。また、橋をはさんで対岸には、「伊能忠敬記念館」があります。

伊能忠敬記念館の見学の後も、町歩きマップを片手に、古い家並みの見学を続け、今度は小野川の東岸を戻って行くと、「いかだ焼本舗」の暖簾を下げた「正上(しょうじょう)」の建物が見えてきます。

ここは、江戸時代の店構えと、明治の袖蔵、その隣には石造りのファサードがモダンな大正時代の建物と、それぞれ様式の異なる三棟の建築が並び建ち、佐原の重伝建地区の中でも、ひときわ目を引く景観を創っています。

(上: 三時代の建物が並ぶ正上の店前は、時代もののロケ地としても人気)

正上の創業は寛政12年(1800)。油屋から醤油醸造業を経て、現在は佃煮の製造販売をしています。

小野川の川岸のところどころには、、船の荷物の積み降ろしに使われた「だし」と呼ばれる石段と船着き場がついていて、水運の盛んだった当時を彷彿させます。また親水空間の演出としても、なかなか効果的。

(上: 「だし」と呼ばれる船着き場)

佐原の町並みを歩きながら、まるで時代劇のセットのよう、と思ったら、佐原はロケの町としても人気だそうで、上記「正上」の店内には、見たり聞いたりしたことのあるドラマのパネル写真が、所狭しと飾ってありました。

忠敬橋から小野川を離れ、先に進むと、赤いレンガと白い花崗岩の壁面が美しい洋風建築。大正3年に建てられた旧三菱銀行で、現在は観光客の休憩所として利用されています。

その手前にあるのが「中村屋乾物店」。重厚な明治の店蔵造りを見せるこの店は、二階の観音開きの土戸に「勝男節」「諸國乾物類」「祝儀道具」などと彫られた大きな木の看板が嵌め込まれて壮観。

(上: 重厚な店蔵造りの中村屋乾物店。隣の現代建築にも、町並み景観を損なわない配慮がされている)

佐原の伝統的建造物群保存地区の魅力は、多くの商家が昔からの家業を受け継ぎ、今も現役であり続けている、いわば「生きた町並み」であることで、そこに価値があると言えます。

 

* 本文は、最情の情報ではありません。ご訪問の際は、公式HPなどでご確認ください。