日本庭園こぼれ話

日本の歴史的庭園、街道、町並み。思いつくままに
Random Talks about Japanese Gardens

月に祈る『月の桂の庭』・・・山口県防府市 (改編)

2022-11-05 | 日本庭園

この庭を拝観させていただいたのは、写真からも想像できるかもしれませんが、もう20年以上前になります。しかし、それ以前とその後と、合わせて100庭以上の、日本の名園と言われる庭を見てきましたが、もっとも印象深い庭の一つがこの「月の桂の庭」です。「衝撃的」という形容詞をつけるなら、まず一番に挙げることができます。

庭の名となっている「月の桂」とは、中国の伝説にある、月に生えているという不老不死を象徴する木だそうです。

「月の桂の庭」は、山口県防府市にあります。JR防府駅からバスに乗り、約10分、「塚原」停留所で下車徒歩3分。バスを降りて、水墨画を思わせる岩肌の山容が、これまた印象的な右田ヶ岳を見上げながら歩いて行くと、前方に武家屋敷のたたずまいが見えます。代々、右田毛利家の家老職を務めた桂家です

月の桂の庭は、桂家四代目当主の運平忠晴が、正徳2年(1712)に作庭したと伝わる、書院に面した石庭です。同じ石庭の名庭として知られる「龍安寺石庭」と、しばしば対比して語られますが、実際、庭を囲む築地塀や砂紋など、雰囲気はよく似ていますが、この庭の石組は非常に独創的です。

 

 

逆L字型の敷地に、点在するユニークな石組で構成された庭は、意味的にも、意匠的にも、実に凝っています。

特に注目されるのは、築地塀の角、景色の要となる場所にある、台石の上に載っかったL字型の石。「兎石(とし)」と呼ばれ、「兎子懐胎(としかいたい)」を象徴しているそうです。

これは「兎は中秋の月に向かって口を開き、月光を呑み込むことにより懐妊する」という故事に基づくもので、毎年この庭では、旧暦の11月23日の夜半、この兎石の上に月がかかるのを待って、月待ち行事を行っているということでした。(ただし20年以上前の話ですが)

 

 

(上:これから満ちていく月を象徴している兎石)

このように、この庭は宗教的色彩の濃い庭です。鉤の手に曲がった敷地の東庭は上記の兎子懐胎の庭、南庭は神仙境を象徴した石組から成り、「一庭二景の枯山水」と呼ばれます。

しかし、その古典性にもかかわらず、石組は極めて斬新で、前衛芸術とさえ思えるほど、現代人のフィーリングを感じます。

私の知る限り、この庭は名勝庭園に指定されていないと思うのですが、何故、これほどの庭が指定からはずれているのか、ご存じの方がいらしたら、教えて欲しいです。

「昔は、海を借景にしていたんですよ」と、当時のご当主の言葉。今では想像でしか思い描くことはできませんが、海を背景にした月の桂の庭は、また一段と風情あふれる庭であったことでしょう。

と、こんなに盛り上げておいて、今さらなのですが、この庭は現在、通常非公開で、年に1度、11月に2日間限定の公開となっています。そして、今年も公開が予定されていたのですが、中止となってしまいました。残念。今後の拝観については、公式HPをご参照いただくか、または、下記にお問い合わせください

問合せ: 防府市おもてなし観光課☎0835-25-2513

 


苔寺(西芳寺)庭園訪問記・・・京都市(改編)

2022-10-16 | 日本庭園

ある年の10月下旬、西芳寺を拝観しました。京都の洛西郊外に位置する西芳寺は、通称「苔寺」として、数え切れないほど名園のある京都においても、有数の名園として知られています。

寺伝には、聖徳太子が別業を営まれ、その地に行基菩薩が開山とある古刹。その後、荒廃していた寺を、1339年(南北朝時代)に、松尾大社の宮司が、名僧・夢窓疎石(むそうそせき)を招き、復興に尽力したということです。

夢窓疎石は作庭の名手でもあり、その際に造った庭園が、今ある庭園の原型になっています。

以前は観光名所として、大勢の拝観者が大挙して押し寄せたものでしたが、現在は事前の申し込みが必要となり、3,000円の拝観料を納め、写経をした後に、庭園の拝観ということになっています。

この日は、午後1時からの拝観許可をいただき、西芳寺の門前に集合。40~50人の拝観者が集まりましたが、日本人に混じって、欧米人の方々が非常に多いことに驚かされました。

本堂に入ると、小机がずらーっと並んでいて、早速、「般若心経」の写経を始めます。(小筆を持参するようにと、ハガキに書いてありましたが、各机に用意されていました)

 実際には、薄く書かれた文字をなぞる、という方法ですが、それでも、これだけの文字をなぞるのは、かなり大変でした。

写経の途中で、ご住職の説法と、般若心経の唱和があり、再び写経。ひたすらお経の文字をなぞっていきます。外国人の方々が、一生懸命書いている姿に感心。

この間、40~50分でしょうか。書き終えた人から順に庭園に出ます。(写経は、ご本尊に奉納し、永久保存されるそうです。また、書き終えられない人は、途中まででも良いし、持ち帰り、郵送して奉納することも可能です。)

そして庭園へ・・・

庭園の面積は、約3万平方メートル(9千坪)。上下二段の構成で、上段は枯山水、下段は池泉回遊式庭園になっていますが、庭園の大部分はこの池泉回遊式部分で、さらに、その大部分が「黄金池」と呼ばれる「心字池」(汀線が入り組み「心」の字に似ているため、この名称が付けられたとのこと)で占められています。

 

 

園路に沿って池を巡れば、歩を進めるに従い、複雑な汀線により、変化に富んだ景色が次々に展開します。

 

 

池には、大小の島々が浮かび、それもまた魅力的な光景を生み出しています。

実は、夢窓疎石が造った庭園に、苔はありませんでした。しかし庭園全体を覆う緑の苔が、この庭園に他に例を見ない、荘厳な雰囲気を醸し出しています。苔の種類は、約120種とか。京都の風土によって創出された「造化の妙」と言えるのではないでしょうか。

 

築造当時の姿は、ほとんど失われていると言われていますが、苔の絨毯の中に点在する石群が、当時を彷彿させます。

 

 池を一周し、北側の石段を上ると、開山堂・指東庵に隣接して、豪壮な石組が目に飛び込んできます。夢窓疎石作による「洪隠山枯山水石組」で、禅院枯山水の最も古い形と言われている石組。圧倒的な迫力です。

 

 

* 事前の申込み、その他、拝観の際の注意事項などは、公式HPなどをご参照ください。

 

 

 

 

 

 

 


続・夏の庭・拾翠亭・・・京都市(改編)

2022-09-27 | 日本庭園

京都御苑内の南の一画にある「拾翠亭(しゅうすいてい)」は、五摂家の一つであった九条家の別邸として使用された建物。江戸時代後期の建築と伝わります。

当時の九条家の敷地は、10,000坪以上、建物も最盛期には、3,800坪もあったということですが、明治の初期に建物のほとんどが取り壊され、現在は茶室の拾翠亭だけが、公家屋敷の貴重な遺構として残されています。

二層からなる数寄屋風書院造りの建物は、簡素な外観ですが、格式の高さを物語る意匠が随所に見られます。

   (上: 風雅な茶室「拾翠亭」)

一階の広間に入ると、縁高欄(えんこうらん)と呼ばれる手摺りのついた広縁越しに、勾玉池(またの名を九条池)の豊かな水の広がりが目に飛び込んできます。この建物が「釣殿風寝殿造り」と呼ばれるのも納得。

(上: 縁高欄越しに勾玉池をのぞむ)

 

 

(上: 池の中景となる格調高い石橋は、御所へのアプローチとなる)

「拾翠亭」の「翠」の文字には、カワセミという意味があり、かつてこの池に多くのカワセミが飛来したことが、「拾翠亭」の名の由来の一つに挙げられています。もはや、その光景は見ることができませんでしたが、池の水は、水面の水草や、周囲の緑樹を映して「翠」に染まっていました。

 

 

(上: 京都御苑の一画に静寂境を創り出している拾翠亭と勾玉池)

 

 

(上: 大ぶりの縁先手水鉢)

 

拾翠亭の内部に目を向ければ、段差のない床の間や突き上げ窓、開口部の透かし模様や、鏡板使用の天井、銘木の床柱・・・。さらには、付属する小間席の壁の、カビによる白黒のまだらを蛍に見立て、「ほたる壁」と呼ぶ風流心。簡素な中に貴族的な優美さが凝縮されています。

上: 透かし模様のある突き上げ窓)

 

* 拾翠亭の公開日は、毎週木・金・土曜日(年末年始を除く)となっていますが、事情により、見学できない日もあるとのこと。ご訪問の際は、事前に公式HPなどをご確認ください。

 

 

 


夏の庭・吉田家住宅(無名舎)・・・京都市(改編)

2022-09-20 | 日本庭園

今年は、全国的に猛暑が続いた夏でしたが、周囲を山々で囲まれた京都の夏の暑さは、昔から有名です。それ故に、そこには猛暑をしのぐ様々な創意工夫が見られます。例えば、町家ではは・・・。

代表的な町家の一つ、吉田家は、明治42年の建築。昭和24年まで、白生地、染呉服を扱う商家として栄えた典型的な表屋造りの京町家ということ。

中に入ると、店舗棟、玄関棟、住居棟が一列に縦に並び、その間に「坪庭」と「座敷庭」。左脇の細長い空間には、表戸口から裏口まで抜ける石畳の「通り庭」があり、そこに台所があります。

(上: 「通り庭」。通行の用を満たし、風も通り抜ける)

その台所もまた、端から井戸、炊事場、竈(かまど)、戸棚が並ぶ、徹底した縦列構造で、まさしく「うなぎの寝床」。このように間口が狭い理由は、町内から出す祇園祭りの割当金額が、昔は間口の幅によって決められていたからとも言われています。

夏の装いの部屋は、障子の代わりに簾戸がはめられ、畳の上には、パナマ材で編んだ「網代(あじろ)」が敷かれて、足触りがヒンヤリ。

 

(上: 奥行きのある京町家の薄暗い室内に、光と風を誘い込む坪庭)

「坪庭」は、周知のように、奥行きのある住居に採光と風通しをもたらすための庭。従って、樹木は少なく、この家の坪庭の植栽は、シュロの株立ちとわずかな下草のみ。他には石燈籠と、商売繁盛の願いをこめて?小判型の手水鉢が、シュロの足元に据えられています。(下の写真)

 

奥の「座敷庭」もまた、建物に囲まれたわずかな空間ですが、モッコク、ツバキ、マキなどの常緑樹と、鶴と亀に見立てた石で構成されています。面積の割に要素が詰まっているにもかかわらず、すっきり感が印象的。

 

(上: 狭い空間に庭園の構成要素が詰まっているが、すっきりまとまっている座敷庭)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

(上: 座敷庭の足元の構成。左手前が鶴石)

 

それにしても、表通りはジリジリと暑かったのに、内部の涼しいこと。昔から育まれてきた、京都の暑い夏を過ごすための工夫。温暖化が懸念される現在にあって、移りゆく季節とともにある住まい方は、私たちに一つの方向を提示しているように思われました。

 

※吉田家住宅(無名舎)の見学は、要予約です。
問合せ: ☎075-221-1317

また、京都市観光協会の主催で、夏の特別公開として、期間限定で公開されることもあります。

 


仙厳園・桜島を借景とする庭園・・・鹿児島市(改編)

2022-08-23 | 日本庭園

先日、テレビ番組の中で、桜島の雄大な姿を見たので、その島を借景とした庭園をご紹介したくなりました。

「仙厳園(せんがんえん)」です。南国の雄藩・薩摩。鹿児島は、江戸時代、遠く鎌倉時代より南九州を統治してきた島津七十七万石の城下町として栄え、また幕末において、近代国家日本への推進役を果たしたことはご存じの通りです。

錦江湾に面している仙厳園(名勝)は、万治元年(1658)、19代島津光久によってつくられた別邸が始まり。「磯仮屋」あるいは「磯庭園」と呼ばれていたそうで、実際、当時は波打ち際が今よりずっと間近にあったとか。仙厳園には、この光久から明治時代の29代忠義まで、230年間にわたる歴史の断片が、5万平方メートルという広い園内の随所に残されています。

(上:南国を実感するアプローチ)

受付を兼ねた長屋門をくぐって、南国の植物が繁茂するアプローチを抜け、錫門(すずもん)をくぐると、本庭の景観が開けるわけですが、その途端、ほとんどすべての来園者の口から、歓声ともため息ともつかない声が発せられました。

明るく開放的な芝生の庭、その先に錦江湾のきらめき、そして対岸には威風堂々の桜島。この日はあいにく、頂上に雲がかかっていて、火山の噴煙を見ることはできませんでしたが、それでも眼前に迫る山の存在感に圧倒されました。

錦江湾を池に、桜島を築山に見立てたというその庭景は、究極の借景庭園と言えるのではないでしょうか。

振り返れば、起伏のある芝庭の一段高いところに、雁行する瀟洒な建物。「磯御殿」です。背後には照葉樹の原生林に覆われた裏山が迫っています。

(上:前面に桜島を望み、原生林を背景に佇む磯御殿)

島津家の別邸として建てられたこの御殿は、明治維新後は、島津家の鹿児島における生活の拠点となり、特に29代忠義は、明治21年から10年間、ここを本邸として使用。当時の暮らしぶりを伝えるのが、現在の御殿です。

往時の3分の1しか残っていない、といってもまだ25もあるという部屋数の多さに驚くとともに、簡素な中にも贅を凝らした内部の意匠が見事。ベンガラの紅い壁や、コウモリの形の釘隠などに、中国との密な交流の様子が偲ばれますが、それは庭園内の所々でも目にするものです。

眼前に迫る桜島を見ながら、園内散歩。

広々とした芝庭の中央で、一際目立つ巨木はヤクタネゴヨウ。五葉松の一種で、屋久島と種子島のみに自生する稀少種。その足元に建つ異国的な四阿(あずまや)は「望嶽楼」。19代久光の時代に、琉球王から送られた建物です。

 

その辺りから振り返ると、御殿の背後の山の中腹に、「千尋巌(せんじんがん)」の文字を刻んだ巨岩が望めます。20代斉興の命により、延べ3,900人と3ヵ月の月日を要して完成したもので、3文字の長さは11メートルにも及ぶとか。

岩に文字を刻む作庭手法は、日本庭園には珍しく、これも中国文化の影響かと、案内にありました。前を見ても、後を見ても豪快な庭園です。

 

桜島に対面する芝庭の中に、形の良い石燈籠があります。鶴が羽を広げたようなイメージの笠石を乗せた「鶴燈籠」です

 

これは日本で最初にガス灯がともされた燈籠だということ。安政4年(1857)、28代斉彬が、蘭学者らにガス灯の用法を翻訳させ、園内にガス室を設置して、石燈籠に点火したそうです。横浜でガス灯が点火されたのが明治5年(1872)ということですから、薩摩ではそれよりも15年も前に、ガス灯がともったわけです。

 

 

歩を進めて裏手に回ると、そこには発電用のダム跡、曲水の庭、日本で初めて移植された孟宗竹の林、珍しい猫神様の祠、濾過池、大砲を造るために築かれた反射炉など、他の庭園では見かけない異色の見どころが数々あります。

一般には、日本の近代化は明治維新とともに始まったとされますが、ここ仙厳園を訪れると、薩摩では、それより10数年も前に近代化の設計図が描かれていたことを認識します。

その旗頭となったのは、28代藩主島津斉彬。仙厳園に隣接する尚古集成館は、斉彬が推進した近代産業を伝える博物館です。

斉彬の取り組みは、単に軍事力の強化だけでなく、産業の育成、社会基盤の整備にも及び、時代を先取りしたその功績を知ると、後に西郷隆盛や大久保利通らに受け継がれた明治維新が、薩摩から始まった必然を感じます。仙厳園は、薩摩の歴史を集約する庭とも言えるかもしれません。