日本庭園こぼれ話

日本の歴史的庭園、街道、町並み。思いつくままに
Random Talks about Japanese Gardens

浄土式庭園(3)=称名寺庭園・・・神奈川県横浜市(改編)

2021-06-25 | 日本庭園

「浄土」というのは、浄土思想に基づき、悟りを開いた仏陀や菩薩の住むところ。特に阿弥陀の西方極楽浄土を指すとのこと。

平安時代、中期以降になると、特に貴族階級の間で、この浄土信仰が盛んになり、寺院の庭園も、浄土曼荼羅に描かれた極楽世界の構図を、この世に再現する形でつくられるようになります。

しかし現在、目にすることのできる浄土式庭園の遺構は数少なく、この称名寺庭園は、前にご紹介した「浄瑠璃寺庭園」や「毛越寺庭園」など並び、その貴重な一例です。

(上: 浄土の荘厳を再現した称名寺庭園)

称名寺は、鎌倉時代に代々執権を受け継いだ北条氏の支流、金沢北条氏の菩提寺として創建されました。庭園は金沢北条氏、貞顕の時代(1319~1320)につくられたものです。

(上=称名寺・仁王門)

私は鎌倉時代というイメージから、てっきり鎌倉にあると勘違いしていましたが、称名寺は実は横浜市にあるのでした。

庭園前に立つ案内板の言葉を借りれば、作庭には性一法師(しょういちほうし)が携わり、金堂の前には、満々と水が注がれた苑池を設け、青嶋石を使った90数個の景石を、大量の白砂とともに、中島や池の周囲に配置とのこと。

 

 

また池の中央に中島。そこに架けられた反橋と平橋を渡って、金堂に達するようになっている。池には貞顕から贈られた水鳥が放たれ、ここに浄土庭園の完成が見られたとあります。

(上=庭園入口の朱塗りの反橋。下=それに続く平橋)

現在ある庭園は、昭和62年、苑池の保存整備事業により、復元整備されたものですが、鎌倉時代の庭園の完成直後(1323)に描かれた「称名寺絵図並結界記(重文)」によって、伽藍の配置とともに苑池の姿を、ほぼ完全な姿で再現することができたそうです。

(上: 池に架かる反橋と平橋まで復元した浄土式庭園は珍しい)

 

 ※アクセス: 京浜急行「金沢文庫」駅から徒歩15分 

 

・・・「浄土式庭園」終わり・・・

 

 

 

 


浄土式庭園(2)=毛越寺+観自在王院跡・・・岩手県平泉町(改編)

2021-06-18 | 日本庭園

11世紀末から12世紀末の、わずか100年の間、「みちのく」に輝いた奥州藤原氏三代の栄華を秘めた平泉。そして「夏草や兵(つわもの)どもが夢の跡」と、源義経の悲劇とともに後世に語り継がれた平泉。

平安の京の都の庭園を凌ぐ規模の浄土式庭園が、都からはるかに離れたこの地に遺された訳は、藤原氏三代の歴史が深く関わっています。

11世紀末、前九年の役と、それに続く後三年の役を経て、奥州の覇者となった「藤原清衡」は、平和を祈念し、平泉に「仏教楽土」を建設しようとします。その理想を具現化したのが「中尊寺」です(中尊寺については、別記)。そしてそれを可能にしたのは、当時領内に産出された膨大な黄金でした。

(上: 中尊寺・金色堂内陣の一部=小学館ウィークリーブック『古寺をゆく・中尊寺』より)

二代「基衡」は、父の意志を受け継ぎ、さらに発展させたということ。そして中尊寺を上回る規模で造営されたのが毛越寺です。寺伝によれば、創建は9世紀半ば、慈覚大師円仁によるもので、その後荒廃していたのを、基衡によって復興されたとあります。

(上: 毛越寺本堂)

鎌倉時代の史書『吾妻鏡』には、並び建つ堂宇の豪華絢爛と規模の大きさが記され、さらには極楽浄土を地上に写した庭園が造られて、霊場の荘厳は、他に並ぶものがないと評されているそうです。

今、往時の伽藍の姿は、礎石によって偲ぶのみですが、発掘調査により昔の姿を取り戻した浄土式庭園が、当時の荘厳を彷彿させます。礎石によって印された南大門跡に立って見渡せば、巨木の深い緑に囲まれて、東西約180メートル、南北約90メートルの「大泉が池」がゆったりと広がっています。

(上: 大泉が池と荒磯の石組)

復元絵図を見ると、対岸には、正面の金堂を中心に、数々の伽藍が建ち並んでいた様子。さらに当時は、南大門から中島、中島から金堂へと橋が架かっていたとか、贅を尽くしたまばゆいばかりの浄土曼荼羅が目に浮かびます。

 

(上: 毛越寺遺跡図=毛越寺発行・『毛越寺』より)

金堂に安置された丈六の薬師如来像に関して、『吾妻鏡』の記述によれば、仏像の制作は、都の仏師・雲慶に依頼され、その謝礼には、金100両の他、大量の駿馬や絹、アザラシの皮などが贈られ、完成するまでの3年間、これらの品々を輸送する人夫荷駄が、山道、海道に絶えることがなかったという話。

その評判を聞いた鳥羽天皇が、その仏像を見に来て、あまりの素晴らしい出来映えに驚嘆し、「洛外に出すべからず」と、都からの持ち出しを禁じたのを、基衡が関白に嘆願して、ようやく平泉への搬出が許されたということ。当時の藤原氏の莫大な財力を思い知らされます。

南大門跡から池を巡ると・・・

まずは右手に見える出島と、「池中立石の石組」。池畔から池中の飛び島まで、連続した豪快な石組は、飛び島の中心となる約2.5メートルの立石。その傾きも絶妙な角度の立石によって引き締められ、見事な「荒磯の景」が表現されています。(下の写真)

まさしくこの庭園のシンボル的存在。三陸のリアス式海岸の姿を模したのでしょうか。

そして心憎いのは、荒磯の景の先には、対照的に、砂州と入江が柔らかい曲線を描く「州浜の景」が横たわっていること。その伸びやかなラインが印象的です。

 

(上: 変化に富んだ池の汀線。荒磯の景とは対照的な、ゆったりとした曲線に心が和む)

池の北側、今は無い伽藍の代わりに池を取り巻くのは、亭々と聳える杉や松の巨木。これらは、後年、伊達藩が庭園の周囲や伽藍跡の目印のために植えたといわれる樹木です。その根元に並んだ大きな礎石が、伽藍の往時の規模の大きさを現在に伝えています。

金堂跡の東隣の芝生の中を流れる「遣水(やりみず)」は、発掘調査中に往時のままに発見されたもので、平安時代の完全な遺構としては、我が国唯一のものとされています。

 (上: 平安時代のままに姿を現した遣水。蛇行する流れと石の配置に見とれる)

70メートルほどの距離を、ジグザグに蛇行しながら池に注ぎ、その流れの途中には、『作庭記』の「遣水の石をたつるには・・・」の記述通り、「水切り石」「水越し石」「水分け石」などが要所に配され、池底に敷き詰められた玉石や池への注ぎ口に組まれた石組など、見飽きることのない流れの景観です。

平安貴族は、流れのほとりで曲水の宴(遣水の上流から流された杯が、自分の前を過ぎるまでに歌をつくり、杯の酒を飲み、次へ流すという宮中の行事)を催したのでした。

(上: 曲水の宴=毛越寺パンフレットより)

続いて、池の西側に回ると、石組で構成された築山。水際から山頂まで、大小各種の石を立て、「海岸の断崖の景」が、象徴的に表現されています。

(上: 海岸にそそり立つ断崖の景を表した石組)

そして再び南大門跡に立ち、全体を眺めれば、俗世界から遮断された浄土庭園を前に、平泉の黄金時代が蘇ります。規模の大きさといい、整備の完成度といい、特別史跡と特別名勝の二重の指定(1959指定)を受けていることが頷ける庭園です。

(上: 池岸や中島、池底にも敷き詰められた玉石は、北上川産のものという)

 

上記の「毛越寺庭園」に隣接して「旧観自在王院庭園」(名勝)があります。かつては毛越寺の東門から境内を出ると、「車宿(くるまやどり)」という、今で言えば、牛車の駐車場のある街路を隔てて、観自在王院がありました。

観自在王院(かんじざいおういん)は、基衡の妻が建立したと伝わる寺院。現在、敷地は青々とした芝生に覆われています。

(上: 南大門跡から一直線に伸びる通路に、旧観自在王院庭園の往時の規模が偲ばれる)

南大門跡から、その芝生の中を一直線に伸びている広い通路を進むと、思わず歓声をあげたくなるような美しい池の景観が広がっていました。ここまで復元整備されているとは思わず、想定外の光景に驚いたというところでしょうか。

発掘復元された「舞鶴が池」は、東西、南北ともに約90メートルで、ほぼ正方形。「鶴が舞う姿」に似ているために名付けられといいます。そこで、ふと思い付いて、毛越寺の池の図をよく見てみると、こちらは亀の形に似ているような・・・。

『作庭記』には「池は亀または鶴の姿に掘るべし」とありますが、夫・基衡の毛越寺と、妻の観自在王院、2つはいわば「夫婦(めおと)庭園」。夫婦で一対の鶴亀の姿を実現したのでしょうか。

池の汀線は、ゆったりとした曲線を描き、池中には橋の架けられた中島があります(上の写真)。北側には池に臨んで華麗な大小の阿弥陀堂が建てられていたということ。

現在はすべての伽藍が失われていますが、州浜や荒磯の石組が整備され、遣水跡に続いては、池畔に大小の石を組んだ滝石組があり、そこからいわゆる「伝い落ち」の作法で、水が池に流れ落ちています。

(上: 中央はこの庭園で唯一、男性的な景を見せる「伝い落ち」の滝石組)

観自在王院庭園は、毛越寺庭園よりも規模は小さいものの、全体的に女性らしい優雅な佇まいが印象的。男性的な毛越寺庭園とはまた違った雰囲気の浄土式庭園であったことが窺われます。

 

そして、平泉には、もう1つ、浄土式庭園が存在したのでした。三代「秀衡」が建立した「無量光院」の庭園です。(下の写真)

清衡から基衡へと受け継がれた楽土建設は、三代秀衡によって、さらに拡張されていきます。秀衡は、父の基衡が着手した毛越寺を完成させ、さらにその付属院として、「無量光院」を造営します。それは、現在は土中に埋もれ、発掘調査中ですが、地形からの建物の形、その華麗な佇まいまで、すべて宇治の平等院を模したもので、しかも規模はひと回り大きかったといいます。

(上: 無量光院復元CG=平泉町教育委員会発行パンフレットより)

その庭園もまた、金鶏山を背後に抱いた典型的な浄土式庭園だったとか。そして、その隣には、藤原氏の政庁と考えられる「柳之御所」があり、当時の平泉は、まさしく壮大な庭園都市。この北方の地に君臨した藤原氏の勢力と財力の膨大さは、私の想像をはるかに超えるものだったと、実感しました。

 

上記・毛越寺、観自在王院跡、無量光院跡、および中尊寺と金鶏山は、「平泉ー仏国土(浄土)を表す建築・庭園及び考古学的遺跡群」として、2011年に世界遺産に登録されています。

 

* 毛越寺では、6月20日~7月10日に、「あやめまつり」が開催される予定とのこと。詳しくは、公式HPなどをご参照ください。

 


浄土式庭園(1)=浄瑠璃寺庭園・・・京都府木津川市(改編)

2021-06-13 | 日本庭園

浄土式庭園とは、平安時代から鎌倉時代にかけて、多くつくられた庭園様式で、仏教の浄土思想に基づき、極楽浄土を庭園の中に再現しようとしたもの。

現存する浄土式庭園の数は多くありませんが、平安時代後期に創建された「浄瑠璃寺」の庭園は、浄土式庭園の代表作の1つとして知られています。その構成は、寺域の東側に薬師如来を祀った三重塔、西側に阿弥陀如来を安置した阿弥陀堂を配し、間にはゆったりと池が横たわっているというもの(特別名勝及び史跡)。

(上=阿弥陀堂)

寺名にある「浄瑠璃」とは、太陽の昇る東方にある浄土のこと。その教主が瑠璃光如来つまり薬師如来で、一方、太陽の沈む西方浄土(極楽浄土)の教主が阿弥陀如来なのだそうです。

下の写真は、阿弥陀堂前から「宝池」越しに三重塔を眺めたもの。

前景の石燈籠、中景の池と中島、後景の三重塔が有機的につながっています。また下の写真に見るように、中島の先端は、『作庭記』にあるような、荒磯風の洲浜と石組で構成されています。

現在の浄瑠璃寺は、山里の静寂の中に佇む小さな古寺ですが、そこは文化財の宝庫。木の間越しに端整な姿を見せる三重塔(国宝)。そして池の対岸の阿弥陀堂(国宝)には、九体の黄金の阿弥陀如来像(国宝)が祀られています。平安時代の中・後期、いわゆる藤原時代の九体仏が揃っているのは、ここだけということ。横一列に並んだ阿弥陀如来像の荘厳に圧倒されます。

さらに秘仏とされる吉祥天女像(重文)は、ため息ものの美しさ。毎年、春と秋と1月の秘仏開扉の際に拝観できます。

 

* 文化財の公開などは、最新の情報ではありません。ご訪問の際は、公式HPなどをご参照ください。

 

 

 


6月の花めぐり(4)=アナベルの雪山・・・東京都あきる野市(改編)

2021-06-09 | 四季の花話

最近、様々な種類のアジサイを見かけるようになりましたね。アナベルもその一つ。アメリカ原産とのこと。大輪の白い花を咲かせます。

初めて「アナベルの雪山」という言葉を聞いた時、一瞬「?」でした。「アジサイ」と「雪山」が結びつかなかったのでした。

場所は、あきる野市と八王子市の境近くにある東京サマーランドという遊園地の一画です。

入口を入ると、すぐに広がるのが、上の光景。「オッー、きれーい!」 しかし、これが「アナベルの雪山?」と、ちょっとがっかり。でもそれは私の早とちりでした。これは前座。

道を進むと、色とりどりのアジサイ群落。

ここでは、アナベルがもっとも有名ですが、その他のアジサイ、約60種、15,000株も、目を楽しませてくれます。

美しい。これだけでも、来た甲斐があったというもの。しかし、もちろん、ハイライトはその先です。

ありましたー。「アナベルの雪山」です。

丘の斜面が、白いアナベルで埋め尽くされ、文字通り「雪山」の光景。暑さが吹き飛びました。

 

* アナベルの見頃は、6月下旬~7月上旬といわれていますが、今年は、全体的に、花の開花が早いようです。ご訪問の際は、公式HPなどでご確認ください。

* アクセス=「アナベルの雪山」は、東京サマーランドの一画、「わんダフルネイチャーヴィレッジ」内にあり、サマーランド表門から無料シャトルバスが出ています。

* 開園時間=平日10:00~17:00 日曜9:00~17:00

* 入園料=大人(中学生以上)600円 子供(小学生)300円

 

ーー「6月の花めぐり」終わりーー


6月の花めぐり(3)=紫陽花と石仏巡り(高幡不動)・・・東京都日野市(改編)

2021-06-05 | 四季の花話

東京・日野市の高幡山金剛寺、通称「高幡不動」は、寺伝によれば、平安時代初期に、慈覚大師円仁が、清和天皇の勅願により、関東地方の霊場として山中に不動堂を建立し、不動明王を安置したのに始まるという古刹です。

新撰組の土方歳三ゆかりの寺としても知られていますが、特にこの季節、紫陽花の名所として人々の人気を集めています。

 

境内はもちろんのことですが、境内の裏山一帯も、紫陽花に埋め尽くされ、そこの小径に沿って、八十八体の石仏が祀られています。早速、境内でマップを貰い、お遍路?開始。

「山内八十八ヶ所」と言って、四国霊場八十八ヶ所になぞらえたもので、巡拝すれば、同じご利益があるそうです。

 

(紫陽花の額縁の中で、華やぐ石仏)

順路に従い山道を上ったり下ったり、面積はそれほど広くありませんが、距離は結構、ありました。

でも、色とりどりの紫陽花が咲き乱れ、また山アジサイの群生地でもあり、そちらにも目を奪われながらの巡拝でした。山頂は高幡城址です。

梅雨空によく似合う紫陽花。蒸し暑くて鬱陶しい日々の、一服の清涼剤になりました。

山内八十八ヶ所巡拝の後は、大日堂へ。外陣天井には、鳴り龍が描かれ、この下で手を打つと、「ビ~ン」と音がして、願い事が叶うと言われています。

(パンフレットより)

その他、高幡不動尊には、日本一と伝わる不動三尊像を初め、多くの寺宝が多くあります。

* 緊急事態宣言中なので、社殿内の拝観につきましては、公式HPなどでご確認ください。