11世紀末から12世紀末の、わずか100年の間、「みちのく」に輝いた奥州藤原氏三代の栄華を秘めた平泉。そして「夏草や兵(つわもの)どもが夢の跡」と、源義経の悲劇とともに後世に語り継がれた平泉。
平安の京の都の庭園を凌ぐ規模の浄土式庭園が、都からはるかに離れたこの地に遺された訳は、藤原氏三代の歴史が深く関わっています。
11世紀末、前九年の役と、それに続く後三年の役を経て、奥州の覇者となった「藤原清衡」は、平和を祈念し、平泉に「仏教楽土」を建設しようとします。その理想を具現化したのが「中尊寺」です(中尊寺については、別記)。そしてそれを可能にしたのは、当時領内に産出された膨大な黄金でした。
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(上: 中尊寺・金色堂内陣の一部=小学館ウィークリーブック『古寺をゆく・中尊寺』より)
二代「基衡」は、父の意志を受け継ぎ、さらに発展させたということ。そして中尊寺を上回る規模で造営されたのが毛越寺です。寺伝によれば、創建は9世紀半ば、慈覚大師円仁によるもので、その後荒廃していたのを、基衡によって復興されたとあります。
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(上: 毛越寺本堂)
鎌倉時代の史書『吾妻鏡』には、並び建つ堂宇の豪華絢爛と規模の大きさが記され、さらには極楽浄土を地上に写した庭園が造られて、霊場の荘厳は、他に並ぶものがないと評されているそうです。
今、往時の伽藍の姿は、礎石によって偲ぶのみですが、発掘調査により昔の姿を取り戻した浄土式庭園が、当時の荘厳を彷彿させます。礎石によって印された南大門跡に立って見渡せば、巨木の深い緑に囲まれて、東西約180メートル、南北約90メートルの「大泉が池」がゆったりと広がっています。
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(上: 大泉が池と荒磯の石組)
復元絵図を見ると、対岸には、正面の金堂を中心に、数々の伽藍が建ち並んでいた様子。さらに当時は、南大門から中島、中島から金堂へと橋が架かっていたとか、贅を尽くしたまばゆいばかりの浄土曼荼羅が目に浮かびます。
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(上: 毛越寺遺跡図=毛越寺発行・『毛越寺』より)
金堂に安置された丈六の薬師如来像に関して、『吾妻鏡』の記述によれば、仏像の制作は、都の仏師・雲慶に依頼され、その謝礼には、金100両の他、大量の駿馬や絹、アザラシの皮などが贈られ、完成するまでの3年間、これらの品々を輸送する人夫荷駄が、山道、海道に絶えることがなかったという話。
その評判を聞いた鳥羽天皇が、その仏像を見に来て、あまりの素晴らしい出来映えに驚嘆し、「洛外に出すべからず」と、都からの持ち出しを禁じたのを、基衡が関白に嘆願して、ようやく平泉への搬出が許されたということ。当時の藤原氏の莫大な財力を思い知らされます。
南大門跡から池を巡ると・・・
まずは右手に見える出島と、「池中立石の石組」。池畔から池中の飛び島まで、連続した豪快な石組は、飛び島の中心となる約2.5メートルの立石。その傾きも絶妙な角度の立石によって引き締められ、見事な「荒磯の景」が表現されています。(下の写真)
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まさしくこの庭園のシンボル的存在。三陸のリアス式海岸の姿を模したのでしょうか。
そして心憎いのは、荒磯の景の先には、対照的に、砂州と入江が柔らかい曲線を描く「州浜の景」が横たわっていること。その伸びやかなラインが印象的です。
(上: 変化に富んだ池の汀線。荒磯の景とは対照的な、ゆったりとした曲線に心が和む)
池の北側、今は無い伽藍の代わりに池を取り巻くのは、亭々と聳える杉や松の巨木。これらは、後年、伊達藩が庭園の周囲や伽藍跡の目印のために植えたといわれる樹木です。その根元に並んだ大きな礎石が、伽藍の往時の規模の大きさを現在に伝えています。
金堂跡の東隣の芝生の中を流れる「遣水(やりみず)」は、発掘調査中に往時のままに発見されたもので、平安時代の完全な遺構としては、我が国唯一のものとされています。
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(上: 平安時代のままに姿を現した遣水。蛇行する流れと石の配置に見とれる)
70メートルほどの距離を、ジグザグに蛇行しながら池に注ぎ、その流れの途中には、『作庭記』の「遣水の石をたつるには・・・」の記述通り、「水切り石」「水越し石」「水分け石」などが要所に配され、池底に敷き詰められた玉石や池への注ぎ口に組まれた石組など、見飽きることのない流れの景観です。
平安貴族は、流れのほとりで曲水の宴(遣水の上流から流された杯が、自分の前を過ぎるまでに歌をつくり、杯の酒を飲み、次へ流すという宮中の行事)を催したのでした。
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(上: 曲水の宴=毛越寺パンフレットより)
続いて、池の西側に回ると、石組で構成された築山。水際から山頂まで、大小各種の石を立て、「海岸の断崖の景」が、象徴的に表現されています。
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(上: 海岸にそそり立つ断崖の景を表した石組)
そして再び南大門跡に立ち、全体を眺めれば、俗世界から遮断された浄土庭園を前に、平泉の黄金時代が蘇ります。規模の大きさといい、整備の完成度といい、特別史跡と特別名勝の二重の指定(1959指定)を受けていることが頷ける庭園です。
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(上: 池岸や中島、池底にも敷き詰められた玉石は、北上川産のものという)
上記の「毛越寺庭園」に隣接して「旧観自在王院庭園」(名勝)があります。かつては毛越寺の東門から境内を出ると、「車宿(くるまやどり)」という、今で言えば、牛車の駐車場のある街路を隔てて、観自在王院がありました。
観自在王院(かんじざいおういん)は、基衡の妻が建立したと伝わる寺院。現在、敷地は青々とした芝生に覆われています。
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(上: 南大門跡から一直線に伸びる通路に、旧観自在王院庭園の往時の規模が偲ばれる)
南大門跡から、その芝生の中を一直線に伸びている広い通路を進むと、思わず歓声をあげたくなるような美しい池の景観が広がっていました。ここまで復元整備されているとは思わず、想定外の光景に驚いたというところでしょうか。
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発掘復元された「舞鶴が池」は、東西、南北ともに約90メートルで、ほぼ正方形。「鶴が舞う姿」に似ているために名付けられといいます。そこで、ふと思い付いて、毛越寺の池の図をよく見てみると、こちらは亀の形に似ているような・・・。
『作庭記』には「池は亀または鶴の姿に掘るべし」とありますが、夫・基衡の毛越寺と、妻の観自在王院、2つはいわば「夫婦(めおと)庭園」。夫婦で一対の鶴亀の姿を実現したのでしょうか。
池の汀線は、ゆったりとした曲線を描き、池中には橋の架けられた中島があります(上の写真)。北側には池に臨んで華麗な大小の阿弥陀堂が建てられていたということ。
現在はすべての伽藍が失われていますが、州浜や荒磯の石組が整備され、遣水跡に続いては、池畔に大小の石を組んだ滝石組があり、そこからいわゆる「伝い落ち」の作法で、水が池に流れ落ちています。
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(上: 中央はこの庭園で唯一、男性的な景を見せる「伝い落ち」の滝石組)
観自在王院庭園は、毛越寺庭園よりも規模は小さいものの、全体的に女性らしい優雅な佇まいが印象的。男性的な毛越寺庭園とはまた違った雰囲気の浄土式庭園であったことが窺われます。
そして、平泉には、もう1つ、浄土式庭園が存在したのでした。三代「秀衡」が建立した「無量光院」の庭園です。(下の写真)
清衡から基衡へと受け継がれた楽土建設は、三代秀衡によって、さらに拡張されていきます。秀衡は、父の基衡が着手した毛越寺を完成させ、さらにその付属院として、「無量光院」を造営します。それは、現在は土中に埋もれ、発掘調査中ですが、地形からの建物の形、その華麗な佇まいまで、すべて宇治の平等院を模したもので、しかも規模はひと回り大きかったといいます。
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(上: 無量光院復元CG=平泉町教育委員会発行パンフレットより)
その庭園もまた、金鶏山を背後に抱いた典型的な浄土式庭園だったとか。そして、その隣には、藤原氏の政庁と考えられる「柳之御所」があり、当時の平泉は、まさしく壮大な庭園都市。この北方の地に君臨した藤原氏の勢力と財力の膨大さは、私の想像をはるかに超えるものだったと、実感しました。
上記・毛越寺、観自在王院跡、無量光院跡、および中尊寺と金鶏山は、「平泉ー仏国土(浄土)を表す建築・庭園及び考古学的遺跡群」として、2011年に世界遺産に登録されています。
* 毛越寺では、6月20日~7月10日に、「あやめまつり」が開催される予定とのこと。詳しくは、公式HPなどをご参照ください。