日本庭園こぼれ話

日本の歴史的庭園、街道、町並み。思いつくままに
Random Talks about Japanese Gardens

北畠氏館跡庭園 (戦国武将の庭①)--隠れ庭(三重県津市)(再編)

2020-05-21 | 日本庭園

隠れ里ならぬ「隠れ庭」?

昔とは主要交通ルートが変わってしまった現代においては、思いがけない地域に名園を発見することが、しばしばあります。この北畠氏館跡庭園もその1つで、三重県津市三杉町上多気というところにあります。私が訪ねた当時は、一志郡美杉村といっていました。

ここは室町時代、栄華を誇った伊勢国司・北畠氏の館があった地で、庭園(国の名勝及史跡指定)は、7代北畠晴具の義父であった関東管領・細川高国により、享禄3年(1530)につくられたということ。高国は、他に、滋賀県高島市朽木にある旧秀隣寺庭園の作庭者としても知られていて、この2つの庭園に、越前一乗谷朝倉氏庭園を加えて、三大武将庭園といわれています。

バスに揺られて到着した北畠神社の敷地内、何気ないフェンスの扉をくぐると、時間が止まってしまったかのような静寂の中に、その庭はありました。

庭園は総面積約850坪。向かって右半分は池泉観賞式、左半分は築山を背景にした枯山水で構成されたものですが、対面した瞬間は、何よりも、古色を帯びた石組と鬱蒼とした樹木の緑、それを映す鏡のような池の水の深い色合いが、渾然一体となって目に飛び込んで来たのでした。

汀線が複雑に入り組んでいるため「米字池」と呼ばれている池は、一周すると、歩を進めるに従い、中島が1つに見えたり、2つに見えたりと、視点が変わる度に異なる景色が展開し、改めて地割りの妙に感心させられました。

 

護岸の石組も見事なもので、案内にもあるように、堅牢かつ配列に工夫を凝らして組まれた護岸の石が、480年の風雪に耐え、この池を抱いて守っているのです。

築山に目を転じると、頂上にスギの巨木が聳え、その山裾には、中心に約2メートルの「孔子石」と呼ばれる立石が据えられ、周りに10数個の石が、「ひれ伏すように、あるいは蹲って教えを聴くように」という形容がぴったりの様子で、実にバランスよく配置されています。

 

点在している石同士が、互いに呼応し合っているかのような「気」を感じる石組です。

山深い里の一隅に、眠るかの如くあるこの庭園は、栄華を誇った歴史の1ページを今に伝えるために、時間が封じ込められたかのようでした。

 

 


一乗谷朝倉氏遺跡(戦国武将の庭②)再編 ---(福井県福井市)

2020-05-11 | 日本庭園

福井市の東南約10キロに位置する一乗谷は、その昔、文明3年(1471)から、天正元年(1573)に織田信長に亡ぼされるまで、朝倉氏五代にわたり、越前の中心として栄えた地でした。周囲を山々に囲まれた狭い谷間に、縫うように流れる一乗谷川に沿って、その100年の栄華の跡が点在しています。

(上: 朝倉館跡と庭園の遺跡が、一乗谷の栄華を物語る)

朝倉氏の居館、庭園、武家屋敷、寺院、町屋、そして山間部には山城や砦、櫓など、いわば一つの町がそっくり埋もれていたのが、昭和42年からの数次におよぶ発掘調査により、時を超え、その姿を現したのが、「一乗谷朝倉氏遺跡」です。

朝倉館前でバスを降りると、一乗谷川を挟んだ右側(西側)が「復元町並み」で、左側(東側)が「領主の館群」になっています。復元町並みは、発掘調査によって検出された町並みを、埋まっていた塀の石垣や建物の礎石を用いながら、資料に基づき再現したもの。

(上: 戦国時代の一乗谷にタイムスリップの「復元町並み」)

南北約200メートルの道路を中心に、土塀、薬医門、武家屋敷、町屋群など、建物の内外の細部に至るまでが復元され、町並みとともに、当時の生活様式なども伝わってきます。

また、家屋が復元されていない、その他の広大な敷地についても、区画整理がなされ、時には庭の跡などもあり、15~16世紀当時の一乗谷の「大都市」の様子にびっくり。

(上: 豪壮かつ格調高い石組が印象的な「諏訪館跡庭園」)

橋を渡って、対岸の「領主の館群」へ。一番南端の一段高くなったところに、「諏訪館跡庭園」があります。五代・朝倉義景の愛妻・少将の館につくられた上下二段から成る回遊式林泉庭園で、この谷の庭園中もっとも規模が大きいものです。

特に下段の滝周りは、高さ4メートルを超す滝添石を中心に、天端の平らな巨石を随所に配し、豪快な中にも安定感のある構成が印象的です。

諏訪館跡から小径をはさんで、その先が「中の御殿跡」。義景の母・高徳院の居館といわれるもので、土塁と塀が巡らされた平らな草地に、礎石が点々と顔を覗かせています

さらに進むと「湯殿跡庭園」。一乗谷の遺跡の中では、もっとも古い作庭とされる、四代・孝景の頃の回遊式林泉庭園です。

(上: 変化に富んだ「湯殿跡庭園」の石組)

この庭もやはり巨石で構成され、複雑な汀線を囲むようにある、石組は、変化に富み、見る角度により様々な景が現れます。滝石、三尊石、鶴石、亀島などの石組は、室町前期のものとされています。

湯殿跡庭園のある台地から見下ろすと、眼下には広大な屋敷跡。(トップの写真)

この朝倉氏館跡は、一辺約80メートルの正方形の敷地。東側は山に接し、残りの三方は高い土塁で囲まれ、外側には堀が巡らされています。整然と並んだ礎石が、かつての御殿や主殿、会所、武者溜、厩舎などの配置を示し、建物に付随する庭園も、導水路とともに発掘されています。

それらの庭園は、先ほど見てきたような豪壮なものではありませんが、汀の庭石が建物の礎石に兼用されているなど、建物と庭園のかかわりがよくわかるのが貴重です。また主殿と思われる建物の正面の位置に、長方形の花壇跡があるのが、都会的な洗練を感じさせます。

入口の唐門(上の写真)は、もともとはこの館のものでなく、義景ゆかりの寺の正門。江戸時代前期の建築ですが、構造物として唯一あるこの門は、館の往時の姿を、より具体的にイメージするのに役立っています。

館跡の先の細い坂を少し登った高台にあるのが南陽寺跡。三代・貞景が娘のために再興した寺で、朝倉代々の女が尼僧として住居したそうです。その一画、枝垂れ桜の傍らにある石組が「南陽寺跡庭園」。規模は小さいのものですが、金閣寺庭園の石組を模したとされ、将軍足利義昭を招いて観桜の酒宴を催したというエピソードも。

(上:傍らの枝垂れ桜が、なぜかもの悲しい雰囲気の「南陽寺跡庭園」)

一乗谷の今は、のどかな山里。室町時代の100年間、公家や文化人が集まり、都に匹敵するほどの華やいだ日々があったことなど、これらの遺跡がなければ、決して推し量ることができません。織田の軍勢に攻められ、凄惨な戦いが繰り広げられたことも・・・。

朝倉氏の栄華を語る夢の跡として、背後の城山にある一乗谷城を含めた278ヘクタールが「国の特別史跡」に、また前記の朝倉氏4庭園が「国の特別名勝」に指定されています。

# 詳しくは、朝倉氏遺跡保存協会へ  www3.fctv.ne.jp/~asakura