日本庭園こぼれ話

日本の歴史的庭園、街道、町並み。思いつくままに
Random Talks about Japanese Gardens

伊豆に春の風物詩と歴史を訪ねる(終)・・・下田(改編)

2022-01-28 | 歴史を語る町並み

河津桜見物の後は、再び伊豆急行に乗って、終点の伊豆急下田へ。

江戸時代の終わり、日本の開国に重要な役割を果たしたこの町は、開港の歴史を語る史跡が、あちこちに点在しています。しかし、その前に、春を感じに、椿の名所として知られる下田公園まで足を延ばすことに。

公園は、駅から市街地を抜けて、徒歩約20分ほどのところにある海辺の丘にあります。町を歩いて行くと、目に入るのが「なまこ壁」の家。下田は、なまこ壁の民家でも有名です。

「なまこ壁」というのは、建物の外壁に平瓦を貼り付けて、格子状の目地の部分に、水の侵入を防ぐために、漆喰を盛り上げたもの。その盛り上がり方が「ナマコ」に似ているところから、その名がついたといいます。

(上: 白と黒の絶妙のコントラスト、格子の意匠のモダンさ。時代を超えてなお、斬新とさえ見えるなまこ壁)

ここのは、一般的な「四半張り」と呼ばれる、漆喰部分が斜めの格子状になったもの。上の写真の家は、約200年前に建造されたという民家で、見事な職人技です。

下田公園は、別名を城山公園というように、戦国時代の山城の跡。海に張り出した岬一帯が公園になっています。ツバキは公園の小高い丘に、160種余り、700本ほどの園芸種が植栽され、自生のヤブツバキを合わせると、5,000本ものツバキがあるそうです。

(上: 穏やかな入江の景が美しい志太ヶ浦展望台からの眺め)

この丘は海に迫っているので、海の魚に滋養分を供給するための、「魚付き林」としての役割を持ち、それにはスギやヒノキでなく、ツバキやトベラなどの照葉樹がもっとも有効なのだそうです。

ツバキの花を眺めながら公園内を一巡。途中には、美しい入江が眼下に開ける、「志太ヶ浦展望台」があります。下田公園では、6月のアジサイも素晴らしいとか。

公園を出て、岬を回る「ベイサイド・プロムナード」に沿って市街地に向かうと、波打ち際にちょっと変わった岩が・・・。孔のあいた岩は「めど岩」、また角柱のような岩もあり、それは「つなぎ石」。目を凝らすと、そんな岩がいくつか見つかりました。昔、船を繋いだ名残だそうです。

(上: 船を繋いだ「めど岩」)

 

対岸に須崎半島が伸び、雁島や犬走島が浮かぶ下田港は、風光明媚な港町。湾から望む「寝姿山」(標高200m)と「下田富士」(標高187m)という、標高は低いけれど、特徴的な形をした2つの山が、風景をより印象深いものにしています。

(上: 左手の三角山が「下田富士」)

「寝姿山」は、女性が仰向けに寝ている姿に似ているところから付いた名前。また、「下田富士」は、三角形の形状から富士山に喩えられたものですが、土地の昔話では、下田富士と、駿河の富士山は姉と弟。

昔は、駿河の富士山もそれほど背は高くありませんでした。しかし2つの山があまりに仲の良いのに嫉妬した「天城山」が、2つの山の間にどっかと居座ってしまいました。姉の姿を見ることができなくなった弟・駿河の富士山は悲しみ、毎日毎日、伸び上がったので、やがて日本一高い山になったとか。(下田富士については、別の民話も伝わっています)

(上: 寝姿山を背景に、港を眺めるペリーの碑)

港にはペリー上陸の碑があります。幕末、黒船を率いて浦賀(現・横須賀市)にやって来て、日本に開国を求めたペリー提督は、当時の歴史の中で、もっとも馴染みのある外国人ではないでしょうか。

(上: 道端に歴史を偲ぶ大砲が・・・)

その後、「日米和親条約」が結ばれ、開港されたのが、この下田と函館でした。そして条約の細部を取り決めるために、ペリーは下田に来航。「下田条約」を締結したのが、港近くの「了仙寺」です。

その時にペリー一行が通った道は、今「ペリーロード」と名付けられた風情ある石畳の小道。細い流れの対岸には、なまこ壁や石蔵、木造建築など、昔ながらの外観を残しながら、現代風に改造した店舗が並び、お洒落な雰囲気を醸し出しています。

(上: 川岸に風情ある家並みを見せる「ペリーロード」)

また近くには、唐人お吉の料理屋・安直楼を改装した、なまこ壁の寿司店も・・・。

了仙寺の宝物館は、ペリーや黒船関連の肉筆画や版画、資料など、興味深い当時の展示品でいっぱいですが、それとは別に、珍しいのが「性と宗教の関わり」がテーマという秘仏コレクション。

(上: 開港の歴史の中で、重要な舞台となった了仙寺)

了仙寺の境内は、5月になると、アメリカジャスミンの花で埋め尽くされるそうです。

 

* 本文は、最新の情報ではありません。ご訪問の際は、公式HPなどで、ご確認ください。

 

 

 

 

 

 


伊豆に春の風物詩と歴史を訪ねる(2)・・・河津桜(改編)

2022-01-23 | 歴史を語る町並み

「つるし雛」の稲取から、伊豆急行で約7分、次は河津へ。「河津」の名を冠した名所としては、河津川上流の河津七滝が有名ですが、近年は、「日本一の早咲き桜」というキャッチフレーズで、「河津桜」見物が脚光を浴びています。

(上: 浅い春を彩るピンクの花が大人気の河津川べり)

この桜は、オオシマザクラとヒガンザクラの自然交配種と言われ、昭和33年に、河津町在住の飯田さんという方が、河津川のほとりで偶然見つけた桜の苗を持ち帰り、庭に植えたのが始まりということ。

昭和50年に「河津桜」と命名され、町のシンボルに。今では、河津川沿いをはじめ、町のあちこちに植えられて、早春の観光の目玉になっています。

2月上旬から3月上旬までと、花期が長く、大ぶりのピンクの花が豪華。

(上: 桜の下の菜の花も色鮮やか)

まだ冬景色を残す河原に、濃いピンクの桜と、根元に植えられた黄色い菜の花の絨毯。その鮮やかな春の色が、訪れる人に元気を与えてくれます。

ただし、私が訪れた時は、桜の下に露店がずらりで、「花より団子」の感が無きにしもあらず。それにしても、稲取といい、河津といい、人を呼ぶには女性をターゲットに、を実感するのでした。 

毎年、河津桜まつりが開催され、今年(2022年)は、2月1日~28日に予定されています。

 

* 本文は、最新情報ではありません。ご訪問の際は、公式HPなどでご確    認ください。


伊豆に春の風物詩と歴史を訪ねる(1)・稲取のつるし雛(改編)

2022-01-17 | 歴史を語る町並み

伊豆の東海岸を南に下った伊豆稲取。稲取は昔から、東伊豆屈指の漁港として知られていましたが、近年「雛のつるし飾りまつり」(今年は、1月20日~3月31日とのこと)が、春の観光の目玉になっています。

これは桃の節句の雛壇の両側に、ハギレで作った小さなぬいぐるみを吊す風習で、この地に江戸時代から伝わるものとか。現在では、本家の雛人形よりも、こちらの「つるし飾り」の方が有名になっていますが・・・。

街並みをぶらぶら歩き始めると、通りに面した商店の店先や、ショーウインドウなどにも、様々な「つるし飾り」がぶら下がっていて、早速、目を楽しませてくれるのでした。(下の写真)

雛のつるし飾りは、江戸時代、豪華な雛飾りを買える家は少なく、代わりに、手作りの雛人形を飾ったのが始まりで、次第に和裁工芸細工に発展していったということ。紅白の竹ひごの輪に5本の赤い糸を吊し、その糸にいろいろな形の飾りが、ぶら下げてあります。

 

色とりどりの布で作った綿入れの飾りは、人形、果物、動物、遊び道具など、形が実に多彩。それぞれに、なるほどと、頷ける謂われがあります。たとえば、桃の実には「霊力があるとされ、邪気、悪霊を退治」し、猿は「厄が去る」。赤い目のうさぎは「呪力を持ち、神様のおつかい」。

 

(上: 町中に可愛い「雛のつるし飾り」がお目見えする稲取の春)

這い子人形は「這えば立て、立てば歩めの親心」。唐辛子は「虫除けの効力があるところから、娘に虫がつかないように」、柿は「滋養があり、長寿の木」。巾着は「わが子がお金に不自由しないように」などなど、ユーモラスな中にも、一つ一つに願いを込めた、子を思う親の愛情が窺われます。

いくつかあるメイン会場は、とにかく、すごい人出。観光バスも次々にやって来ます。その人気の秘密は、愛らしさと、手作り品のぬくもり感なのでしょうか。

まつりの期間中は、メイン会場の他にも、町のあちこちの商店や民家で、幟を目印に、つるし飾りが見学できるようになっていて、「まちおこし」としても、成果をあげているように思われるのでした。

そんな中、つるし飾りを公開していた一軒の土産物店の玄関の両脇に、2つの巨石が置かれているのを発見。「畳石」と名付けられた巨大な切石です。

(上: 民家の庭先にあるのは、江戸城修築用に切り出された石)

説明を読むと、江戸時代の初め、徳川幕府を開いた家康と秀忠が、全国の諸大名に命じ、江戸城の石垣用の石材を集めさせた際、江戸に近く、良質の石材が確保できる伊豆からは、多くの加工石が、石積み船で運び出されたということ。

その運び残しの石材の一部がこの巨石。稲取の歴史の一端を物語る石です。

このお宅では、「畳石」をかたどった和菓子「きんつば」が販売されているそうです(雛まつりの期間限定)。後で知ったので、残念!

 

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丹波篠山・盆地が育んだ町並みと文化・・・兵庫県(改編)

2022-01-10 | 歴史を語る町並み

丹波篠山が、今日あるような城下町として整備され始めたのは、慶長14年(1609)のこと。関ヶ原の戦いで勝利をおさめた徳川家康は、この地が交通の要衝であったため、豊臣秀頼のいる大坂城と西国大名に対する抑えとして、盆地の中央に城を築くことを命じます。

その土地が当時「笹山」と呼ばれていた小山だったことから、転じて「篠山」になったというのが、地名の由来の有力説。

この城は、築城の名手と言われた藤堂高虎が担当し、1日に8万人を動員した「古今未曾有の天下普請」と語り継がれる大突貫工事により、わずか6ヵ月で完成したということ。

(上: 石垣は、ありし日の篠山城を物語る歴史の証人)

篠山城の初代城主は、徳川家康の実子・松平康重。慶長14年12月に入城した家重は、直ちに城下町の建設に当たり、以来260年間、幕府が信頼を置いた譜代大名の四家14代の藩主によって統治され、明治を迎えます。

明治になり、城郭の建造物の大部分は取り壊されましたが、鉄道の駅が町の中心から5キロも西につくられたことが幸いし、開発の波に流されることなく、当時の城下町のたたずまいを色濃く留める町として残ったのでした。

その町並みは「重要伝統的建造物群保存地区」に指定されています。

(上: 武家屋敷の町並み / 下: 商家の町並み)

前置きが長くなりましたが、町の散策を始めます。

大阪駅から福知山線で北上。都会の風景を見せていた車窓が一変し、幾重にも重なる山々の間を縫うように走って、快速なら1時間15分で篠山口到着。

そこからバスで15分程で、「篠山城跡」です。

篠山城は一辺が400メートルの方形の平山城。建造物はありませんが、石垣、外濠、「馬出(うまだし)土塁」などは原形をよく残しているということで、国の史跡に指定されています。

建造物は無いと書きましたが、平成12年に「大書院(おおしょいん)」が、慶長の創建当時のままに復元されています。

(上: 復元された大書院が古城に生気を与えている)

大書院は「一大名の書院としては、破格の規模と古式の建築様式を備えたもの」と言われ、京都二条城の二の丸御殿に匹敵する建物だとか。

古城の石垣に昔を偲びながら階段を上りつめると、華やかな素木の大書院。外観、内部の意匠ともに、想像以上に壮麗なその姿は、歴史の奥に埋没していた城跡の中に、何か生気が甦ったような感じでした。

(上: 創建時の壮麗が再び甦った篠山城大書院)

東南の隅にひときわ高く石垣が積まれた天守台に上ると、遠く近く、山々の重なりに囲まれた篠山盆地が一望されます。

(上: 篠山盆地を一望する天守台からの眺め))

 

城跡からお濠の西側に進むと、「お徒士(かち)町武家屋敷群があります。

かつては外濠を取り囲むように多くの武家屋敷が配置されていたそうですが、現在その面影を伝えるのが、西外濠側の通りにある下級武士の家々。

(上: 武家屋敷群の家並み)

「屋敷群」といっても、現代風に改築された家も少なくないのですが、土塀に囲まれた茅葺屋根の屋敷が点在するその道筋は、江戸時代の余韻が残って、風情があります。

(上: 篠山の武家屋敷は、門と母屋の茅葺屋根の意匠がお揃いなのが印象的)

その中の一つ、「安間家(あんまけ)」が史料館として公開されています。

(上: 安間家)

武家屋敷群から南外濠に出ると、お濠端にあるのが小林家長屋門。文化年間(1805)に、藩主・青山忠裕が老女・小林千衛の労をねぎらうために建てたもので、曲家形式で住宅兼用の長屋門という珍しい構造です。

(上: 小林家長屋門)

お濠端の道をぶらぶら歩くと、満々を水をたたえたお濠の豊かな水景が、町の中に牧歌的な風景をもたらしているのを感じます。

(上: お濠端の眺め)

 

篠山城跡の南東にあるのが、「河原町妻入商家群」です。そこは京都からの街道の入口に当たり、城下の他の通りが直線であるのに対し、曲がりくねった、より狭い町筋になっています。それはつまり、「外敵侵入を防ぐ戦略的意図」によってだそうです。

篠山の商業の中心として栄えたその町には、間口が二間半から四間(5~8m)と狭く、奥行きが二十間(40m)以上と深い、典型的な妻入商家が並んでいます。

(上: 往時の町並みの特徴をよく残す河原町妻入商家群)

千本格子、荒格子、中二階の虫籠窓、袖壁・・・・。情緒豊かな町並みを行くと、「丹波古陶館」があります。土蔵造りを現代的にアレンジした瀟洒な建物。ここには、日本六古窯の一つに数えられた丹波焼の、創世期からの代表的な作品が展示されています。

(上: 河原町の景観に調和させた丹波古陶館。クラシックにもモダンにもなり得る土蔵造り)

古陶館の一軒おいた隣は、「能楽資料館」。中世の丹波猿楽を育んだ篠山の町にふさわしい資料館です。

河原町妻入商家群から北に進むと、「丹波杜氏(とうじ)記念館」です。篠山は全国に名高い丹波杜氏のふるさと。その歴史は200年以上も前にさかのぼり、最盛期には5000人もの人々が、灘五郷を中心に、全国各地へと酒造りに出かけて行ったそうです。

武家屋敷群、商家群の他、要所に配置されたいくつかの寺院など、近世城下町の都市計画がよくわかる篠山の町並みを見ながら城跡を一周し、最後は、城の北側のメインストリートにある「歴史美術館」。明治24年建築で、わが国最古の木造裁判所を利用したものです。

(上: 篠山歴史美術館)

その奥の春日神社には、音響効果に工夫が凝らされた能楽殿があります。

ところで、篠山はこうした歴史的建造物の宝庫ですが、町の名はむしろ、数々の名産品によって知られているのではないでしょうか?丹波栗、丹波黒豆、丹波松茸・・・。「丹波」の二文字は高級品の代名詞。

(上: 今風の装いを加えた老舗の外観。軒にぶら下がっているのは特産品の黒豆)

町を歩けば、ふと足を止めたくなるような店があちこちで、目に入るのでした。

 

* 本文は、最新情報ではありません。ご訪問の際は、公式HPなどをご確認ください。

* こぼれ話 : 「丹波篠山(たんばささやま)」は、かつて丹波修験道として栄えた多紀連山をはじめ、700メートル前後の山並みに囲まれた盆地の中にあり、その中心部は遠い昔、古多紀湖と呼ばれる湖の湖底だったとか。

そうした地理条件のため、晴天で寒い晩秋の朝は、盆地一帯が濃霧で覆われ、陽に映えた霧が盆地に漂う様は、「丹い波(あかいなみ)」にも見えるそうで、「丹波」の地名は、ここから生まれたという説も。